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本編第一章

前世を思い出してみます

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 整理しよう。まずは前世の私について。

 私の名前は牧野絵理子。家族や友人からは「えりちゃん」、海外の仕事仲間からは「エリー」と呼ばれていた。家族は3歳離れた妹がひとり。妹は看護師だ。本当は祖母も健在だけど、私が大学を、妹が専門学校を卒業して自活の道が開けた際に縁が切れてしまった。

 私たち姉妹のことを不幸だと見る人たちもいるけれど、当事者である私たちはそこまで重くは捉えていない。

     私が15歳、妹が12歳のときに両親が交通事故で亡くなった。その際私たちを引き取ってくれたのが、今まで一度も会ったことのない母方の祖母だった。

 田舎町の旧家の末っ子だった母は、父との結婚を反対され、駆け落ちしたらしい。

 以後、私たちが生まれても連絡をとることなく暮らしていたが、二人が亡くなったとき、市役所の職員が祖母を探し出して連絡をとってくれた。祖母は私たち姉妹を引き取ってくれることになったが、その待遇は決して悪いものではなかった。

    同じ家(といっても古くてとてつもなく広い日本家屋)に住むことにはなったが、祖母と顔を合わせることはほとんどなく、用事があるときは祖母の個人秘書を通じて依頼するような付き合い方だった。口座を持たされ、毎月そこに振り込まれるお金で妹と二人分の生活費を賄う。資産家のおうちだったこともあり十分な金銭は与えられたし、食事もお手伝いさんが用意したものを毎食食べさせてもらえた。学校などにかかるお金は別に払ってもらえていたし、私たち姉妹はある意味、不自由のない生活を与えてもらえた。与えられなかったものは愛情だけだ。

 とはいえ、祖母や使用人に虐待されるようなこともなく、陰口を叩かれることもない。毎日顔を合わせる人たちは笑顔で挨拶してくれたり、学校のことや進路のことなども相談にのってくれたりしていた。これで不幸だと言ったらバチが当たるというものだ。

 母と祖母は、もともと折り合いが悪かったらしい。とはいえ血の繋がった、未成年の孫二人が路頭に迷うという状況は、世間体を考えると見過ごせなかったようだ。

    初めて祖母にまみえた際にはっきりと言われた。「学校を出るまでは面倒をみる、けれどそのあとは我が家との縁はないものと思いなさい」と。

 学校を出ても親のスネを齧るというわけにはいかなくなったし、何より浪人や留年といったことも出来ないと悟った私は、妹の面倒を見つつ勉強に打ち込んだ。将来役に立つだろうと英語の勉強にはとくに力を入れた。また学生時代から積極的にインターンをこなし、最終的にあるNGOに就職を決めた。

 ちなみに妹は中学卒業と同時に看護師を目指して専門学校に進んだ。学校には寮があるし、奨学金制度もある。ちょうど私が県外の大学に進むために家を出るのと同じタイミングだったこともあり、妹は「この家もおばあさまもそんなに嫌いじゃないけど、ひとりで残るのは嫌だ」と、一緒に家を出ることを選んだ。とはいえ学費や生活費などは引き続き祖母に頼ることになる。

    祖母は私たちの進路に興味がなく、秘書さんを通じてお願いしたときも無反応だった。無事二人とも卒業してお給料をもらえる立場になり、改めて祖母に返済を申し出たが断られ、当初の約束通り、2度と家とは関わるなと念押しされ、すべての関係が終了した。

 そんな奇妙な思春期を過ごしたが、私も妹もきわめてまっとうに育った。愛情不足でひねくれたわけでもなく、ネグレクトだったわけでもない。何より私たちはとても仲が良かった。喧嘩ひとつすることなく、広いお屋敷の片隅で、ひっそりと、それでも笑いあいながら大きくなった。それぞれ独立してからもスカイプやメールなどで連絡を取り合い、お互いの近況を確認している。


 私が就職したNGOは日本語では非政府組織と言う。国や宗教といったものは一切関係がない民間組織が母体で、利益を目的とせず、社会的活動を行う組織だ。主に発展途上国の人々の支援や自活を助ける活動を行っている。

 就職して派遣された先はアフリカのとある小国だった。10年前に内戦が終了したとはいえ、荒れ果てた国土はまだ完全復旧したとはいえず、国内ではまだ反政府組織もくすぶっており、生活の基盤を立て直すのがやっとという状況。ここに新たな産業を興し定着させるのが私たちの仕事だった。

 私たちが派遣された村は内戦の爪痕もそれほどひどくなく、何より水が確保されていたおかげで芋などの農作物もよく育つ、比較的明るい先行きの村だった。村人たちは皆陽気で、外部からきた私たちにも好意的だった。

    私たちが目をつけたのは現地の人たちが身体に巻きつけていた色鮮やかな布だ。聞けばこの村に伝わる独特の刺繍を施したもので、このあたりの村ではごく一般的な品物らしい。その色鮮やかさと精緻な模様、何よりできあがった布全体から湧き立つ、生きる力のようなものにたちまち魅了された。

 この布をモチーフに何かできないかと考えた私たちは、サンプルを携えていろいろな国々のデザイン機関を訪れた。現地の彼らのように布を巻きつけて纏う習慣は、他の国々では受け入れられにくい。何よりあれを纏って美しく見えるのは、現地にいてこそだ。

 私たちは布の美しさを理解しつつも、それをさらに発展させたいと感じていた。たとえばバッグ、スカーフといった日常遣いの物から、アクセサリー、壁紙、テキスタイル、それこそスマホケースなどにもいい。確かな品物にどういうアイデアを掛け合わせるか。それを一緒に考えてくれる取引先を探した。ちょうど世界的にフォークロア調が流行り始めた時期でもあり、私たちの品物に興味を持ってくれる取引先も見つかった。

    私たちは営業と流通は他のスタッフに任せて、現地で安定した生産を目指す活動に移行した。そして数年かけて地元に工場を設立するまでに至ったのだ。

 仕事は収益をあげる。収益があれば暮らしに余裕ができる。暮らしに余裕ができれば人々は文化的な行動をすることができる。各家庭の、働き手と見なされていた子どもたちが学校に通えるようになるのだ。

 活動開始から5年たったとき、はじめて村から高校に進学できる子どもが現れた。とても成績優秀な女の子で、高校を卒業したら奨学金で大学に進み、みんなの役に立つような仕事に就きたいと、はにかんだ笑顔を浮かべながら村を離れていった。そのときようやく「持続させる」ことの楽しさや意義を心の底から感じることができた。

    誰かに何かを与えると、それがこうした形で返ってくる。この循環し続ける関係を作り上げることは私にとって天職だと思えた。

 しかし何もかもが順調と言うわけにもいかなかった。内戦終了時に軍事国家が倒れ、民主主義が復活したとはいえ、国内は完全に平和になったとは言えなかった。未だ戦争の爪痕残る場所は多く、戦争が終了して仕事を失った元軍人の中には銃を手に反抗を繰り返すならず者も多かった。はじめはぱらぱらと散在していた彼らの存在が数年前から組織化され、ひとつの勢力として国内を荒らすようになった。そしてその火種は、私たちが滞在していた村の近くまで押し寄せてきたのだ。

 100キロほど先の村が武装派勢力に襲われた2日後、所属している組織から私たちに一時待避命令が出た。私たちはいわばボランティアで滞在しているのであって、現地人ではない。組織には私たちの命を守る義務がある。命令は至極真っ当なもので、組織の一員である以上、私たちはそれに従わなければならない。

 葛藤はあった。当然だ。数年間、一緒に暮らしてきた村人たちを、ある意味見捨てるのだ。私たちは安全な場所に逃げるが彼らに逃げ道はない。せいぜい縁戚を頼って別の町や都会に移住するくらいだが、言葉で言うほど簡単なことではない。生活を捨てることは誰にとっても困難だ。

 そんな私たちの状況を村の人たちはわかってくれた。「危ないから早く出て行け」と笑顔で言ってくれるのだ。泣きたかった。だけど泣けない。泣けば彼らのことを本当に見捨てることになりそうだから。

 私はわざとビジネスライクな笑顔を浮かべ、「これは一時的な撤退。またすぐに戻ってくるわ。工場をよろしくね」と挨拶した。

 そして明日立ち去るという私たちの送別会が行われた夜ーーー。悲劇は起きた。


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