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本編第一章
母が亡くなったようです
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私、アンジェリカ・コーンウィルが前世の記憶を思い出したのは実母の葬儀の場でのことだった。
本来なら参列者に最後のお別れをするために棺の蓋を開けておくものだが、アルコールの過剰摂取で亡くなった母の姿は到底人目に晒せるものではなかった。ご自慢のブロンドもくすんで、まだ30あまりだというのに白髪が混ざり、白磁の肌は青白く痩せこけ、かつての美貌は見る影もなかった。何よりその顔にはまるでこの世のすべてを恨んでやまないとでも言うような形相を浮かべていた。
こんな姿、母だってきっと誰にも見られたくないだろう。
「般若みたい」
母のその形相を見て思わず口に出た感想。目こそ閉じているけれど恨みや怒りが滲んだそれはまさしく鬼のようだ。
「ハンニャ? なんのことだい?」
私の肩に手を置いた遠縁の伯父が首を傾げた。私は「般若って、あの能とかに出てくる面のことよ。ほら、ツノが生えて、口が裂けた、鬼のような形相の……」と言いかけて、思わず口を抑えた。
(ダメだわ、般若なんて、この世界の人たちが知っているわけないじゃない)
あれは日本古来の伝統芸能に出てくる、架空の生き物。実体でないことは良いとして、この国で通じるはずがない。
このセレスティア王国でーーー。
私は伯父には答えず黙って俯いた。自分の下町風の簡素なワンピースと、その先に見える小さな爪先。茶色の丸っこい革靴は、品はいいけれど少し小さい。中で爪先が丸まっていて少し痛いのだ。母に一度訴えたけれど「おじさんが新しいのを買ってくれるまで待ちなさい」と言われた。遠縁の伯父が来訪した際に欲しいものを聞かれたので、サイズのあった新しい靴が欲しいとねだったら、「お母さんにお金を預けておくから買ってもらいなさい」と二つ返事で了承してくれた。
けれど靴が私に与えられることはなかった。おそらく母のお酒代に消えたのだろう。
成長期の足はすぐに大きくなる。半年前に合っていたものがもう合わないってことはざらだ。下着や靴、帽子、洋服も。
(成長期? どういうこと? 私は確か31歳のはず……)
私は俯いたついでに自分の手をまじまじと見る。紅葉のような、とまではいかないがそれなりに小さな手。まるで五歳児のような。
そう、何も不思議なことじゃない。私は5歳だ。
アンジェリカ・コーンウィル、5歳。セレスティア王国のアッシュバーン領にある小さな町で、母と、通いのメイドと3人で暮らしている。母の名はハンナ。父はいない。親戚は月に一度の頻度で訪ねてくる遠縁の伯父ひとりだけ。そう、今、私の肩に手を置いているこの人。
そこまで確認して、私は肩の先を見上げた。
40歳くらいの壮年の、少々お腹が出た、気の弱そうな、でも人柄の良さが滲み出ている、中間管理職という肩書きがぴったりの男の人が、悲しげに私を見ている。瞳の色は金色。私と同じだ。
伯父は「ハンニャ」のことはもう忘れてくれたらしい。ただただ痛ましそうに私を見つめ、深いため息をついた。私は先ほどの一言以外、何もしゃべっていない。記憶が少しずつ増幅していて言葉が追いつかないのだ。
けれどそんな私を誰も不審に思ったりはしないようだ。5歳の少女が母親を亡くしたのだ。母の死を、まだ現実を受け入れられないでいる、とそう思われているのかもしれない。それなら好都合だ。ハンニャについてもさっさと忘れてもらいたい。
扉を閉じます、と神官様がおっしゃった。最後にもう一度ご覧になりますか?と、私と伯父に促してくる。伯父は頷き、棺に近づいた。そして母の額にキスをした。私はどちらでもよかったけれど、伯父が私を悲しそうに見つめ続けていたので、そうしなければいけないのかと思い、伯父にせがんで抱き上げてもらった。そして母に顔を近づける。
まだ31歳だったのに。31といえば私と同い年じゃない。
そう、前世の私は31だった。日本人で、NGOの職員として海外の村を支援する仕事をしていて、ある日滞在していた村で武装勢力に襲われ、銃撃されて死んだ。
最後に見たのは覆面に迷彩服姿の、銃を持った男たち。乱射される銃と、その凶弾に倒れる村の人々、同じ組織で働く同僚たち。
倒れる瞬間に掴んだのは、私が支援して作らせていた色鮮やかな現地刺繍の布。それまでもが銃にさらされ、無残なボロ布と化していた。にもかかわらず、私はそれを守りたくて必死に胸元に掻き寄せた。
あの光景に比べたらそこまでひどいものじゃない。
私は般若のような母の頬に、そっとサヨナラのキスをした。
本来なら参列者に最後のお別れをするために棺の蓋を開けておくものだが、アルコールの過剰摂取で亡くなった母の姿は到底人目に晒せるものではなかった。ご自慢のブロンドもくすんで、まだ30あまりだというのに白髪が混ざり、白磁の肌は青白く痩せこけ、かつての美貌は見る影もなかった。何よりその顔にはまるでこの世のすべてを恨んでやまないとでも言うような形相を浮かべていた。
こんな姿、母だってきっと誰にも見られたくないだろう。
「般若みたい」
母のその形相を見て思わず口に出た感想。目こそ閉じているけれど恨みや怒りが滲んだそれはまさしく鬼のようだ。
「ハンニャ? なんのことだい?」
私の肩に手を置いた遠縁の伯父が首を傾げた。私は「般若って、あの能とかに出てくる面のことよ。ほら、ツノが生えて、口が裂けた、鬼のような形相の……」と言いかけて、思わず口を抑えた。
(ダメだわ、般若なんて、この世界の人たちが知っているわけないじゃない)
あれは日本古来の伝統芸能に出てくる、架空の生き物。実体でないことは良いとして、この国で通じるはずがない。
このセレスティア王国でーーー。
私は伯父には答えず黙って俯いた。自分の下町風の簡素なワンピースと、その先に見える小さな爪先。茶色の丸っこい革靴は、品はいいけれど少し小さい。中で爪先が丸まっていて少し痛いのだ。母に一度訴えたけれど「おじさんが新しいのを買ってくれるまで待ちなさい」と言われた。遠縁の伯父が来訪した際に欲しいものを聞かれたので、サイズのあった新しい靴が欲しいとねだったら、「お母さんにお金を預けておくから買ってもらいなさい」と二つ返事で了承してくれた。
けれど靴が私に与えられることはなかった。おそらく母のお酒代に消えたのだろう。
成長期の足はすぐに大きくなる。半年前に合っていたものがもう合わないってことはざらだ。下着や靴、帽子、洋服も。
(成長期? どういうこと? 私は確か31歳のはず……)
私は俯いたついでに自分の手をまじまじと見る。紅葉のような、とまではいかないがそれなりに小さな手。まるで五歳児のような。
そう、何も不思議なことじゃない。私は5歳だ。
アンジェリカ・コーンウィル、5歳。セレスティア王国のアッシュバーン領にある小さな町で、母と、通いのメイドと3人で暮らしている。母の名はハンナ。父はいない。親戚は月に一度の頻度で訪ねてくる遠縁の伯父ひとりだけ。そう、今、私の肩に手を置いているこの人。
そこまで確認して、私は肩の先を見上げた。
40歳くらいの壮年の、少々お腹が出た、気の弱そうな、でも人柄の良さが滲み出ている、中間管理職という肩書きがぴったりの男の人が、悲しげに私を見ている。瞳の色は金色。私と同じだ。
伯父は「ハンニャ」のことはもう忘れてくれたらしい。ただただ痛ましそうに私を見つめ、深いため息をついた。私は先ほどの一言以外、何もしゃべっていない。記憶が少しずつ増幅していて言葉が追いつかないのだ。
けれどそんな私を誰も不審に思ったりはしないようだ。5歳の少女が母親を亡くしたのだ。母の死を、まだ現実を受け入れられないでいる、とそう思われているのかもしれない。それなら好都合だ。ハンニャについてもさっさと忘れてもらいたい。
扉を閉じます、と神官様がおっしゃった。最後にもう一度ご覧になりますか?と、私と伯父に促してくる。伯父は頷き、棺に近づいた。そして母の額にキスをした。私はどちらでもよかったけれど、伯父が私を悲しそうに見つめ続けていたので、そうしなければいけないのかと思い、伯父にせがんで抱き上げてもらった。そして母に顔を近づける。
まだ31歳だったのに。31といえば私と同い年じゃない。
そう、前世の私は31だった。日本人で、NGOの職員として海外の村を支援する仕事をしていて、ある日滞在していた村で武装勢力に襲われ、銃撃されて死んだ。
最後に見たのは覆面に迷彩服姿の、銃を持った男たち。乱射される銃と、その凶弾に倒れる村の人々、同じ組織で働く同僚たち。
倒れる瞬間に掴んだのは、私が支援して作らせていた色鮮やかな現地刺繍の布。それまでもが銃にさらされ、無残なボロ布と化していた。にもかかわらず、私はそれを守りたくて必死に胸元に掻き寄せた。
あの光景に比べたらそこまでひどいものじゃない。
私は般若のような母の頬に、そっとサヨナラのキスをした。
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