蝙蝠怪キ譚

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第2章 《蜘蛛の意図決戦》

第2章26『春雨明けるその朝に』

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「私は人間になりたかった。……だって、そうじゃないと、シオンのお姉ちゃんになれないじゃない」

 彼女の頬から落ちる雫が、止めどなく透明な糸を伝っていた。激情も、後悔も、憎しみも。そして、愛情も。すべての感情が瞳の中を渦巻いている。埋め尽くしている。

 思い出したのだろうか、糸目ハルサメが。
 寝上シオンさんと親しかった頃の記憶を。

「自分の容姿なんて、どうでも、良かったのよ。この子に会って、そう思った。そうやって、言ってくれたから」

 ──キレイだねえ、つやつやだねえ、春姉ちゃん。
 
 見えていないものが見えている。聞こえない声に導かれるように、糸目ハルサメは譫言を呟く。酷く裂けた赤い口で。

「可愛い見た目で、綺麗な黒髪で、私が持っていないものを全部持ってる。あの頃、そんなシオンを私が憎まなかったのは、この子が欠けてたからなのかもね」

「私の親と、姉のことですよね」

「そう。シオンは親が別居中だし、姉と遊んだことも無いって言ったのよ。おかしいじゃない。こんな可愛い子が蔑ろにされて」

「だから、本物のお姉ちゃんになってくれようとして」

「面白いわよね。全部、アンタのためだったのに。アンタを呪ったんだから」


 ──アンタのこと、憎いって思っちゃったんだから。

 笑っていた。
 ぼろぼろと涙を零したまま、可笑しさに声を震わせて、笑っていた。糸目の涙を拭おうとしたシオンさんの手が、止まった。

「私を殴る? 殺す? 良いわよ、良いの。あなたにはその権利がある。そこの蝙蝠遣いのガキよりはマシね」

「っ──!」

 捲し立てるような口調に、シオンさんは言葉を失った。

「痛い思いをしたものね、私がさせたものね、だから良いのよ。見てご覧、この痣」

 糸で縛られたまま、糸目がごろりと身体の向きを変えてみせたのだ。はだけた柔肌、腹の中央の丁度へその部分。大きく黒いタトゥーのような渦巻きの痣が露わになっていた。気持ちの悪い蜘蛛の痣。シオンさんを苦しめ続けた、おぞましい痣。
 彼女はそのギラギラと光る瞳で、シオンさんを捉えて離さない。

「憎いでしょう、思い出すでしょう。早く殴れ、殺せ私を、早く、早く早く早く早く早くッ──!!」

 だが彼女は、もう一度手を伸ばしたのだ。
 少女の細くしなやかな指が、その忌忌しい痣に落ちる。深く、撫でる。そして、


「──もう大丈夫だよ、お姉ちゃん」

 シオンさんは、床に這ったその蜘蛛を両手で包み込んだ。
 
「辛い思いをさせて、ごめんね。帰ってきてよ、春姉ちゃん」

「な──」 

「だから、教えて。誰が、お姉ちゃんを唆したの? 人間になる方法なんて、誰に、聞いたの……?」

 教えて。
 と。彼女は強く繰り返した。抱きしめて、そう繰り返す。その度、糸目の酷く艷やかな髪が、少女の腕から幾度も溢れる。表情など、こちらからは一切見えなかった。だが明確に、確実に、怪人の中の何かが変わっていくように思えた。

 それは、絞り出したように、か細い音だった。

「あの日、あなたに殺される前」

 息を、呑む。

「あの夏の日、会ったのよ。それで貰ったの、あの人に」

「貰った……?」

「"蝙蝠の欠片"、それがこの痣の下に入ってるのよ」
 
 聞き慣れない単語に、耳を疑うのはボクだけだった。全員が驚きの事実を耳にした、みたいな顔をしているのに、ボクだけは置いてけぼりである。何だ、欠片って。薬物みたいなものか。何にしろ、身体に害のあるものなのだろう、察するに。

「クケケッ、アンタ。そう、そこの蝙蝠遣いさん。本当に何も知らないのね。異種のくせに」

 察してくれたらしい。舐るような視線でボクの全身を見、赤らんだ瞳のまま続ける。

「ざっくり言うと、この欠片を入れると生き返れるのよ。そして、人間で無いものは人間に近づける。全ての欲望を希望にする、それが"蝙蝠の欠片"」

 この世界の都市伝説みたいなものだろうか。
 人体蘇生だなんて、いくらか現実離れした話題も、目の前の蜘蛛女を見てしまえば納得せざるを得ない。

「じゃあ、春姉ちゃんはやっぱり、もう、死んで……」

「あの人は私が死んだあと、それを身体に入れてくれたの。それで生き返ったわ。でも、おかしかった。不完全なのよ。頭の中全部、"人間になること"でいっぱいだった。何で人間になりたいのかも、分からなくなっちゃった……」

「今からでも、やり直せば──!!」

「馬鹿じゃないの?」

 糸が一本。近づき過ぎた少女の首に触れた。

「あっ」

 動揺するボクの肩を、ユリィが抑える。その面持ちからも、ここは口を出すべきではないと分かる。心臓が跳ねる思いで、見守ることしか出来ないのだ。

「私は、死人よ。あの日、あなたが終わらせたの。だから、もう一度終わらせなさい」

「駄目っ、私には出来ない……!」

「痣の下にある欠片を取ればいい」

「だって、私のお姉ちゃんに、なってくれるんでしょう……!! そのために、人間になろうとして」

「この欠片が身体の中にある限り、私は命を狙い続ける。次は、そこに居る幸の薄そうな子を乗っ取るかもね。失敗したら他の子を、この世に人間が居るなら、私は人間になろうとする。お前がここで私を殺さないということは、その他大勢を殺しても良いということよ」

「嫌、私は、私は……」

 呼吸が速くなっていく。
 少女の呼吸が。
 糸が這う。力無くも、無数である糸が。地図のように這い、臼居くんやボクの元にまで伸びようとしている。少女は、どんどん呼吸が浅くなっていく。

「躊躇うな、お前が躊躇うなら、そのせいで人が死ぬのよ。お前のせいで。グズで、弱くて脆いお前のせいで。憎いなら殺せ、私を殺せ憎いから殺せ殺せ殺せ殺せ、──殺せ!!」

「嫌ぁ──っ!!」


 悲鳴のような叫びと共に、糸目の身体が後方に仰け反った。まるでシナリオでも合わせたかのように。
 傷付くことも傷付けることも拒絶した、そんな少女のために。彼女の代わりに、の爪が糸目の腹を抉っていた。
 二人の間に割り入った臼居くんの五指に、その黒く透き通った欠片が、収まっていた。

「彼女に、悲しい思いはさせたくないんです。分かるでしょう、糸目さん」

「クッ、くっく、くくくくくくっ……!」

「そんな……!」

 怪人は笑う。
 彼女は笑う。
 積年の恨みを、妬みを、痛みを、その全てを晴らしてしまったかのように。
 蝙蝠の欠片が失われ、螺旋状の痣が溶けるように消えていく。彼女を縛っていた糸も、しゅうしゅうと音を立ててぱあっと空に溶けた。

 生命の元になって居たものが、喪失する。
 死体は、死体に戻る。
 
 笑い声だけが響く。カタカタと骨が震えるように、怯えるように笑っている。自らの二度目の死を、嗤っていた。

「幸せになりたかった……なあ……」

 零れ出る言葉は、少女の様を咎めるように冷たいものではない。ただただ温かな、望みだった。シオンさんが抱きしめても、もう毒を吐くことはない。
 終わりの近づく音がする。

 風鈴の音。
 あの夏の音。
 
 あの日、あの人に出会わなかったら。
 幸せな未来が、あったかもしれないのに。

 虚ろに、笑っている。


「ね、蝙蝠、遣い、さん……」

「え……」

 崩れ行く身体を傾け、彼女はボクを呼んだ。

「ラギョウ、コウ、セツ……を殺し、なさい」

「え、え、ら、ラギョウ……?」

「も……、誰にも、欠片を、使わせないで……」

 一瞬のことだった。彼女の口にしたその名前に、覚えがあったのだ。

 ラギョウコウセツ。
 ラギョウ博士。

 脳が沸騰するように熱くなる。困惑と混乱で、出しゃばることも出来ないこの状況で。ボクは紡ぐはずの言葉を全て呑み込んだ。無理だった。口に出すことも、身体が嫌悪していた。

 
「お姉ちゃん……! 春姉ちゃん!!」
 
「ああ、可愛い子……私の、可愛い、シオン」


 土色をした足が、砂の城が崩れていくように綻び落ちる。かろうじて人間を繕っていた上半身も、死体らしくどろどろに腐敗していく。糸目は、腐敗の進んでいないその右手で、シオンさんの黒髪を梳いた。一本ずつ、全てを愛おしむように、五指を絡ませる。
 その様に、シオンさんはずっと泣きついていた。聞き分けのない子供がするように。甲高い声でずっと、いやいやと泣きついている。

「ごめんなさい……っ、我儘言って、ごめんなさい、春姉ちゃん、戻ってきてよ……!」

「──しあ、わせに、なって」  


 蝙蝠の欠片を使ってしまった代償なのか。
 人の子を呪った大罪ゆえか。
 
 その言葉を最期に。
 身体だった肉片は驚くべき速さで溶け切り、その白髪はぷつぷつと千切れ、銀襴の瞳は輝きも何も映さない。そして、溶け切らなかった頭だけがシオンさんの腕の中に残っていた。

 泣きじゃくり、謝罪を続ける少女の横で、立ち尽くすボクらの間をくぐるように、風鈴の音が聞こえた。

 チリーン、チリリーン。

 まだ早すぎる風鈴の音が、ずっと揺れ響いていた。
 
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