蝙蝠怪キ譚

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第2章 《蜘蛛の意図決戦》

第2章25『ただ、それだけなのに』

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 揺れる白髪。
 爆発しそうだった。燃え上がるような痛みに、その霞むことない紫蘭の香りに。爆発しそうだった。

「く、け………っ、あ?」

 刹那、蜘蛛女の動きの何もかもが停止する。
 強制的に、矯正される。糸を出し、ボクらを貫くそれは激しく固まった。ギチギチと音を立てて固まったのだ。これ以上、傷が抉られることの無いように。

 それは誰の憂慮でもない。
 
 ──彼女の配慮だ。


「その人は異種じゃないわ、今すぐ訂正してくれるかしら。じゃないと、もっと痛くしちゃうわよ」

 ボクの背後、開け放たれた扉の前で、一人の少女がそう言った。ボクらの救世主。幾多の白い三つ編みを提げる彼女は、他でもない、

「────ユリィ!!」

「遅くなってごめんね、痛かったでしょう、レイ」

 ユリィは可愛らしい眉をハの字にして、ボクの脇腹を撫ぜた。ボクの、抉られた方の脇腹を撫でたのだ。

「ゔぎぃっ────!?」

「あ、ごめんなさいっ!」

「や、……い、いいから。早く、あの蜘蛛を……」

 ボクは、剥き出しの神経を撫でられる痛みに、半泣きになりながら蜘蛛女を指した。ユリィは大きく頷き、その手をそちらへとかざした。

「えいっ!」

 気の抜けるような掛け声。すると、何事かとこちらを見た糸目の身体が、その自らの糸によって縛り上げられたのだ。

「ぐケぇええぇぇぇええ!?」
  
「わ、ユリィ……すっご」

 メキメキと音を立て、無数の足があらぬ方向に一斉に曲げられる。それは全く、糸目の意を汲まない、介さない。反逆だった。蜘蛛の糸は、蜘蛛を殺そうとしているのだ。

 これが、ユリィ・ブレイズの能力。
 彼女から事前に聞いていた、異質の才。

「すべてを三つ編みにする、それがわたしの能力よ」

「うが、あああああああっ!!?」

 髪でも、糸でも、板でも、人でも、血管でも。何もかもを三つ編みにする力。
 彼女は、糸目が放っていた糸を余すことなく三つ編みにしただけのこと。怪物をその中心に巻き込んで、三つ編みにしただけのことなのだ。今も彼女の白蛇のような三つ編みが、ボクの眼前でぬるぬると蠢いている。
 気を取られていると、ユリィは片手間でボクを貫く糸の集合を断裁した。その、手刀で。白目を剥いて泡を吹く糸目に、しゅるしゅると糸は力を失い、宙ぶらりんだったウスイくんも床に降ろされた。

「この馬鹿みたいに硬い扉さえ開いちまえば、ボクらの勝ちだったんだよ」

 糸目がボクらより遥かに強い怪物だということなんて、想定済みだ。それは作戦会議をした昨夜から。万全の状態で挑んでこその決戦だ。ボクは、ぱちんっと指を鳴らして見せた。

「キィィー!」

「よぉ、コモモ、ありがとな」

 ユリィの足元から飛び出したのは、シオンさんに託していた蝙蝠のコモモだった。今回の功労者の頭を、ボクは人差し指で柔らかく撫でた。
 これはいざという時のボクらの奥の手、超音波での交信である。戦いの最中、毒に打ち伏した蝙蝠ちゃんたちは、懸命に危険サインをコモモの元に送っていたのだ。

「あとは、それを拾ったコモモがユリィを呼べば、作戦通り。ここのドアが硬すぎるのは想定外だったけどな」

 最高にして最強の切り札、それが唯一力を持つユリィ・ブレイズだったと言うわけだ。

「はあ、はあ、何か……痛ってぇ」
 
「レイ!」

 やっと、終わったのか。息を吐こうとして、ふいに脇腹の痛みを思い出した。種明かしをする前に、相打ちになってしまいそうだ。ユリィが駆け寄り、支えてくれた。ぐらりと、上半身が傾く。

「待って……みんな、みんな来てくれたの! シオンもツクシも、キヨタも呼んだわ」

「あ、ああ。でも学校の保健委員長じゃ、傷は、治せないぜ」

 可愛すぎるドジっ子である。潤みきった紫紺の瞳も、ボクを映すのは勿体ない。せめて、医者か救急車を呼んでほしかったな、なんて。力の入らない右手じゃ、もう何も伝えられないのだろう。冷えていく。血を失った身体が、足が、次第に。

「──もう☆ レイっちは軽症なんだから、そこで待ってて!☆ 臼居ちの方が危篤なんだから☆」

「え」

 ボクの視界に割り入ったのは、美女ではなかった。ふわふわとした金髪に、くりくりの碧眼。そして、声変わりも迎えていないのか、乙女のような高い声。
 美少女顔負けのビジュアルの彼は、間髪入れずぷりぷりと怒りながらボクの腹を叩いた。

「いってぇ! 軽症じゃないんだぞ、これ!」

「軽症だよ☆ あーもう煩い! 先に舐めてあげるから我慢して!☆」

「は、舐めるって何を────!?」

 保健委員長、清田。

 軽薄で愛らしい見た目に反し、その言動はキツく、重い。そして何より、意味不明。突然ずけずけと押し入った彼は、動けないボクの脇にしゃがみ込み、決死の静止も軽やかに振りほどき、その柔らかな唇を近づけ。まるで、眠り姫に接吻を落とすかのように。
 
 剥き出たボクの脇腹を、

 ぬるり。

「ぎゃあああああ──────ッ!?」
 

 ──信じられない!!

 信じられなかった。
 舐められている。
 舐め回されている。
 ぺろぺろというよりべろべろと。執拗に余すことなく、キヨタくんはボクの脇腹を舐めている。抵抗なく、舐めている。同級生に、同学年に、同性の変人に。そして、そこを見られているのだ。同居人に、美女に。気持ち悪さと羞恥が押し寄せ、ボクは足をジタバタとさせた。

「うぉおおおおおおお無理無理無理無理無理!!」

「……ったく、ツバ付けたくらいで日和んないでよね☆ はい、治療終わり☆ さ、次は臼居ちの番だから、レイっちはどいてよね☆」

「そんなこと言ったって──!!」

 やっと舐めるのをやめてくれた彼は、ばっちぃなぁ☆と言いながら柔らかな唇を拭っていた。ばっちくねぇわ。ボクは、更に煽られた脇腹を抑え、気が付いた。

「あれ、……痛く、ない?」

 忽然と、痛みが消えていたのだ。ボクはすかさず脇腹に目を落とした。

「えっ、ええ!?」

「凄い……本当に、レイのお腹、治ってる! 良かったぁ!」

 白い肌が、怪我をする以前のものと変わらずそこにあったのだ。細かいことを言えば、以前より艶が増している。まるで魔法のように、傷一つないボクの柔肌に戻っていた。ただ、服がその部分だけ綺麗に裂け、戦いの跡を物語っている。まだまだ未知に満ちている。まったく、不思議なものである。

「キヨタくん、本物の保健委員長じゃん……」

 ではなく。 
 彼の手業に目を輝かせている場合ではない。ユリィの言葉通り、向こうではつくしとキヨタ君が臼居くんを運んでいた。あっちはもう心配無さそうである。ユリィに伏されて糸目も再起不能。さすがに糸だけでは編み込み専門家には勝てなかったのだろう。ボクが懸念していたのは、もう一人の存在である。

「シオンさんは──!?」

 立ち上がり、扉の向こうを見た。

「レイ、さん!」
 
 初めて聞いた、震えていない、彼女の声。
 怯えていない、快活な声。飛び込んだその一声に、声にならない何かが、溢れ出そうだった。

「臼居くんが、きっと、驚くだろうな」

 そこには、蜘蛛の呪いに侵されていた、シオンさんが居た。艶のある黒髪を、一つにまとめた彼女はひどく涼しげで、身体から全ての膿を出し切ったような面持ちだった。

「呪いは、消えたの?」

「少々、力技でしたけど……何とか」

「──どうして……ううううううシオン、殺してやる殺してやる殺してやる、殺してやる……!!」

 はにかむ彼女の目線の先、自らの糸に縛り付けられた糸目が、修羅の如くこちらを睨んでいた。

「どうしてよ……! どうして……!? 呪い殺したはずなのに、私の蜘蛛を植え付けたのにぃ!!」

「───あれが、糸目さん、ですね」

「うん、危ないからまだ近づかない方が」

「言いたいことが、あるんです」

 彼女だけを見て、シオンさんは歩いた。
 抵抗できない化け物に、瀕死のそれに、彼女は何を言うのだろうか。或いは、何をするのだろうか。

「シオン……! 何で呪いが解けているの……ようやく、人間になれると思ったのに、ようやく、お前、みたいに」

「私に憑いていた蜘蛛の子は、ユリィさんが縛って消滅させてくれたんです」

「どうしてよ! 心臓に絡みついて、攻撃できないように、したのにぃ……!」

「私の体内の血管を、三つ編みにしたんですよ。さっきあなたを縛り上げたみたいに、三つ編みの中心に蜘蛛を巻き込んで」

「呪いを解かずに、消したっていうの……?」

「そうです」

「そんな、そんなそんなそんなそんなそんなそんな! もうどうでもいい! 喰い殺す、喰い殺してやる!!」

 涎を垂れ流し、がちがちと狂犬のように歯を噛み鳴らす糸目は、眼前の少女とは相まみえることのない生物に見える。止めたいぐらい、殺意を抱いている。あと一ミリでもユリィの心遣いが無かったら、こうしてシオンさんと会話もできていないのに。

「これ以上はもう、話が通じないよ。シオンさん。きっともう、何言ったって無駄だ」

「恵まれた人間が……! ただ持って生まれただけのお前が!!」

 無視をする。彼女は何もかも、無視をする。
 近づく。
 怪物に。
 のたうち侍る、糸目に。
 静かに、詰め寄り、遂に糸目の頭が壁にぶつかった。

「触るな……! 触るな触るな触るなぁあ!!」

 ──春姉ちゃん、可愛いのに。

「触るな! 触るな、触るな触ら」

 ──白い髪、つやつやでとってもキレイ。

「さ、触るな、……やめて、来ないでよ……! やめろ……シオン!!」

 ──春姉ちゃんがお姉ちゃんだったら良かったのにな。


「────ごめんなさい」


 と、シオンさんは零した。床に膝を付き、構わず糸目の頬に触れてそう言ったのだ。彼女に怯える糸目の動きが、静止した。目を見開き、そのままで止まった。

「あのとき、私がそう言ったから。私のせいで、人間になろうとしたんですか」

 糸目ハルサメにお姉ちゃんになってほしかった。

「その言葉が、今もあなたを縛っているのなら、私は」

「やめてよ、私はっ、私は違うわよ……!」

 明らかに動揺している。揺れ揺れ動くその瞳は、その言葉に何の意味すら持たせない。悲鳴のような音が溢れ、頬をなぞる指に噛みつくこともしない。

「私は──」

 ぼろぼろと零れ落ちていく。
 心がぼろぼろと崩れ落ちていく。
 大粒の涙が、零れ落ちていく。
 ぼろぼろと、本音が、溢れ出ていく。
 ぼろぼろと。

「私は、本物のお姉ちゃんに、本物の、人間の、姉に、なりたかったのに」

 
 ──ただ、それだけなのに。
 

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