蝙蝠怪キ譚

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第■■章《片羽の無い天使》

第■■章14『はばたかない愛をあなたに』

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「────羽が、ほしい」


 避けたはずだ。イロハちゃんが振り下ろしたカッターナイフを、ボクは確実に躱したはずだ。

 それにカッター如きで、人の腕を切り落とせるわけがないじゃないか。
 
 なのに。

「ふ」

 息の漏れるような、空気が抜けたような音。
 否、それは声だ。

「くくくくくくくくくっ。う、ふふふふっ。ははははははははははははっ。くくくくくくくくくくくくくくっ。あっははははははははははははっははははっははははははははははははっははあはははははははははっはははははっはははははっははははっはははっはははっはははははあはっ。ふっふふっふ、あはっあはははははっはははっはははははっはははははははははははははははっははははははっははははははははははははっははあはははははははははっはははははっはははははっははははっはははっはははっふふふふっ。ははははははははははははっ。くくくくくくくくくははははは、あはっ、ははっはっはははっはははっははっはははっははっははぁ。ははっはははははっははははっはははっふふふはははっはははははくくくくくくくくくくくくっ。あっははっあーっははははっはっはっはっははっはははっはっはははははははっははあっはは──あっは」

 笑っていた。
 明朗に。快活に。一層愉快に。二層も不快に。
 笑っていた。ぐずるように。呻るように。涙声で。笑っていた。肩からはずれ落ちたボクの腕を下目に。
 緑色の青色のピンク色の赤色の筋肉と血管が欠陥品のフィギュアみたいにフィギュアよりも緻密に血密に骨を囲って。

 ──────あああああああああああああ。

 ボクってちゃんとカルシウムがとれてたんだなって思う程白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて白くて発泡スチロールみたいでぎっしり詰まっていて肉が肉がその断面がカッターを使って定規で引いたみたいにまっすぐな直線でまっすぐまっすぐまっすぐまっすぐうそみたいにきれいで。

 ────ああああああああああああああ。

 腕。
 うで。腕腕腕腕腕が。ボクの一部が。傷一つなくきれいできれいできれいだったうでがうでがその彫刻みたいなうでが、ひとつ。

 


「ぁ……あ、う、あ、ぁあああああああああああああああああああああああああああっ、ぐ、ゔああああああっ! 腕が! 腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕が腕がうでがうでがうでがうでがうでがぁあああああぁあああぁぁっっ」

 喉が裂けても良かった。腕がかえってくるならなんでもよかった。もう、とうに痛みなんて頭の隅に消えている。あるのは底なしの喪失感に、じりつく脳の痛み。歪みそうな視界。

 誰だってそうなる、誰だって壊れる。

 どうして良いのか分からなくなる。さっきまで確かにボクの一部だったそれを。もう完全に離れてしまった左腕を。どうするのが正解なのか分からなかった。

 感覚はない。
 ただ、刺すように冷たい汗が止まらなかった。ばくばくと早鐘を打つ心臓と、震える奥歯を噛み締める。

「何、で……? き……みは、いっ、たい……」

 それしか、言えない。這いつくばって、そんなことしか。

 少女は言う。ボクが望んだ以上のことを。

「香々彩羽。───遠くにあるものを、なぞるだけで綺麗に切り取れる能力。そして、切ったものは私の方に引き寄せられる」

 ほらね、と彼女の手にはボクの腕が握られていた。

「今度は失敗しません。次こそ、あなたの肩甲骨を」

 こんな至近距離。終わったも同然だ。またボクは、たった一人の女の子ですら救えないのか。掬えなくて。零して。また、同じ。


 ───先に行って、レイ。振り返らないで!


 あのときのように。


 ───キミにボクは救えないよ、レイ。


 あのときの、ように。あのときのように。

 もう、そんなことには。




「─────はいっ、どーん!」
 
「え?」

「やあやあごめんねぇ~、レー君先輩。男女の間に割り入っちゃって~」

「い、いや」

 それは大いに構わないし、この状況で傍観を強いるのもおかしいだろう。
 二人きりはずの密室に現れ、イロハちゃんの手を掴んだ第三者。それは、見知った少女で。
 パンダのブローチを豊満な胸に挟んだ《温厚》担当で。

「さ、ササコちゃん!? ……でも、何で」

「────っ!」

「はいっ、させませ~ん」

 反撃を試みた少女の腕を、ササコちゃんはいとも容易くひねり上げ、カッターを投げ捨てた。見事、さすが黒帯。普段からは想像もつかない、一切無駄の無い動きである。

「か、かっけぇ……」


 拍手したかったけれど、ボクは今、片方しか手がなかったのだ。そこは……ん?

「っうわあああああああ! 忘れてた! そういえばボクのっ、左っ、腕っ、が、あああああ」

「んも~、レー君先輩ってばうるさいよぉ~? こっちはカーちゃんに言われてず~っと机の下に隠れてたんだから~。あ~肩痛ぁい」

 と、彼女は呑気にもあくびをしている。いやいやこっちは腕取れてんだからさ。そっちを心配してほしいもんだ。だがまあ、一週回ってボクも冷静になってきた。みっともなく喚くのはお終いだ。
 出血も痛みも無い。本当に、あのカラスたちもこの子の犯行で間違いなさそうだ。

「さっき奥も調べてきたけど~いっぱいあったね~カラちゃんたちの羽。なんでも、犯行当日の3時限目、2年E組は美術をしてたらしいもんね~ここで」

「そっか。そんでもってその能力なら回収も簡単。もしかして、ボクとアリボトケが美術部を訪ねたときの張り紙も、ボクらを寄せ付けないためにわざわざ……?」

「……」

「図星みたいだねぇ~」

 イロハちゃんは、思い切りそっぽを向いていた。緊迫した状況だというのに、ササコちゃんは間延びした声で、

「あらりゃ~。先輩の腕も、あ~あ~お気の毒だね~」

「ササコちゃん、ボクの対応カラスのときより雑じゃない?」

 おまけに、腫れ物でも扱うかのように地に落ちたその腕を足蹴にしているし。

「そんなことないよぉ~。みんな平等な命なんだからぁ~。ただササコはグロいのが嫌いなだけだよ~うぇぇ」

「吐くな吐くな」

「というか、レー君先輩って今回全くかっこいいことしてなくな~い?」

「アリボトケに励まされて、オトリちゃんに罵られて、カコミちゃんに示されて、ササコちゃんに助けられて……って、ホントだ。あれ、ボク主人公だよね? 後半ほとんど学ポリじゃん」

「実はすでに、このササコちゃんが主人公だったりして~」

「え、嘘っ!? 気付いてないのボクだけ?」

「そうなのだ~っ、これからはササコの時代だよ~」

「ぐああ、超ぴえんだわぁ」

「ん~鼻炎? それはぱおんだね~、とりまー」

「キミたちの脳はつながってんのか」

「そーなのでーす。学園ポリスの脳みそは──っきゃ!」


 そのときだった。
 ササコちゃんの手の力が緩んでしまったそのとき。
 悲鳴と共に彼女が倒れ、突き飛ばされたのだと確認する。
 誰に?

 ────沈黙を貫いていた、香々イロハに。


「─────ふっ」


 彼女が向かう先は、駆ける場所は、落ちたカッターのところではない。


 


 閉め切りの、大きな窓の方へ吸い寄せられるように走っていた。

 


 全身を嫌な予感が駆け巡る。
 片腕の無いボクは、気付けば彼女を追っていて。

 がしゃんっ。

 そのか弱い腕が、古びた窓をこじ開ける。


 ─────やめろ。





 ────やめてくれ。





 開けた窓からの夏疾風に、少女の髪が舞った。
そこに、水泳の飛び込み台でもあるかのように、彼女は屈伸をして。

 ───走っていたら、間に合わない。





 ───ぐわんと、少女は青空へと飛び込んだ。


「────レー君先輩っ!」


 背後からの悲痛な叫び。
 しかし、身を投げ出した少女を救うには、あまりにも遠すぎる距離で。普通ならどうにもできないような、距離で。



 でも、何とかできる距離だ。


「目の付け所が良かったね、イロハちゃん」


 良かったね、ボクに惚れて。

 そう言って。ボクは自らの肩甲骨に力を込めた。
キミが褒めてくれた、素晴らしいって言ってくれた、肩甲骨に。渾身の力を込めて、


「───ササコぉぉ、目ぇつむれぇえええっ!」

「っ、分かったよ、先輩!」


 汚点も、恥ずかしいところだって、もう見せない。
振り返るなんてこともしない。

 ────走って。

 走って走って、走って走って走って走って走って走って。

 めきめきと背が盛り上がり、ボクの肩甲骨から、汚れ一つ無いが生えたのが分かった。そうさ、これがボクだ。


 飛ぶ。


 飛来する。飛行する。カラスのように、ツバメのように。滑空する。両方の翼と両足を踏ん張って。
 落ちていく彼女と、同じ道を辿って。

「─────はっ!?」

 彼女はその瞳を目いっぱいに見開き、ボクを凝視する。当然だろう。当然の反応だろう。翼の生えた人間を見て驚かない方がどうかしている。うっすらその瞳が煌めいて見えたのは、きっと錯覚だろう。

 死ぬほど恥ずかしくって、本当は誰にだって見せたくなかった。でも、少女を救うには、これしか方法がなかったのだ。無数の羽は、純白のそれは、群青を落としたような空に映え、少女を優しく包み込む。拒まれても仕方が無いが、ボクはその細いからだを強く抱いていた。片腕で。
 
 そして、呟く。

「こんなボクを、好きになってくれてありがとう」


 イロハちゃんは、胸に顔を埋めたままボクの服にしがみついていた。高所が、今になって怖くなったのかもしれない。

 彼女も、呟く。
 変わらず、ぐずるような、そんな声だったけれど。

「そんな、あなただから、好きになったんです。だから、だから……!」


 救われたように、幸せそうに彼女は言った。

「ごめんっ、なさい……!」

 ボクは美術室の窓の方に、翼をはためかせたのだった。


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