半宵の鬼子

なす

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第閑話3『万年筆の中の地獄』

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「……死んで、ない」


 目に入ったのは、真っ白な天井だった。
 冷たい廊下でも、血みどろのコンクリートの上でもない。ふかふかとしたベッドの上に、私はいた。腕がある、首がある、頭がある。千切れた筈の、全てがあった。
 カチ、カチと音を立てる時計に目をやると、丁度六時を指していた。ふと、棚の上のスマホを見てみても、日付は昨日より進んでいる。天追カコミは生きて、明日を迎えたのだ。

「夢?」

 口に出すのも恥ずかしい程、鮮明な夢だ。窓から落ちた感覚も、化け物の断末魔も、自分が流した血液も、その全てを覚えている。ただ、夢でないことの証拠は、何一つ無かった。五体満足で生きている。これが、夢であることの揺るぎない証拠。
 こんなの、誰に話しても笑われるだけだ。私は、片足で飛び起きて、

「──天追さん、おはようございます」

「……どうも」

 部屋から出ようとした矢先、白衣のナースが入口を塞いだ。彼女は、愛想よくにこにこと笑って、お加減はいかがですか~? と聞いてきた。この手の人は苦手である。たとえば、美容院の店員とか。いかなる状況下でも、半強制的に会話を求められ、プライベートゾーンに侵入される。
 学生さんですかぁ。何年生ですかぁ。今何にハマってますう。
 それも、女同士のおしゃべりほど不毛なものは無い。同じ内容のことを同じように話して、あたかも初めて聞いたかのようなリアクションをして見せ、嫌われないように躱す。だから、つまらない。テンプレは、つまらないのだ。

「私は会話がしたいのであって、挨拶がしたいわけじゃないわ」

「そうですよね、入院生活って退屈ですもんねー」

「……ええ、そうですね。あ、あの」

「何でしょう。お手洗いですかぁ」

「いえ、違うわ……違くて。この病室、いわくつき? それか、この病院自体が、そういう感じあったりするのかしら」

「そういう感じ、ですかぁ」

 分かっているのか分かっていないのか、あざとく唇を尖らせる彼女は、くねくねとしながら、

「あー! その万年筆、院長のでしょぉ」

 と私の胸を指した。

「ええ、昨日、もらって……」

 あのジジ医、院長だったのか。彼女は両手を頬に添え、思い出したように声を上げた。

「あー、そうそう! そぉれ、その万年筆を持ってると見えるんですって、変なものが。あの人が院長になる前は、確か他の人が持ってたんですよ」

「はあ!? それって患者さん? それとも医療従事者の誰か?」

「うーん、患者さんだったかしらぁ。でもね、病んじゃったのよ、その人。急に鬼が見えるー! とか、何とか言ってて、精神科病棟の方に移されちゃったんですって」

「お、────鬼?」

 その言葉に、私は動きを止めざるを得なかった。もしかして、昨日の夜襲ってきた化け物は、鬼だったのだろうか。

「うん、たまにいるのよねぇ、見えないもの見えちゃう人。まあ、その大半は薬物やってるんだけどねー」

「鬼……」

「患ってるんだろうね、そういう人って、心」

「その、ジジ医……じゃなくて院長は見えたの? その鬼ってやつ」

「うーん、まあ、ね。でも、誰も信じなかったから、院長、その話するのすぐやめちゃったのよ」

「あ、そ……」

「天追さんも見えたら言ってね、鬼ってやつ」

 なんてね、と、恋に落ちそうな程柔らかい笑みを浮かべて、白衣の天使は去っていった。

「とりあえず、ジジ医のところに行かないとね」

 鬼が見える万年筆なんて。とんでもない厄をおしつけてきたものだ。
 胸のそれを軽く振ると、ちゃぷっと音がした。

「インクは入ってるの、一丁前ね」


 ××××


「うーん、そっか、鬼ねえ……。精神病棟に移動する?」

 私にそう返したのは、他でもないあのジジ医院長だ。廊下ですれ違ったとき、私は思わず彼の白衣を引き留めてしまったのだ。仕方がないだろう。聞きたいことは山ほどあるのだから。

「──しないわよ。真剣に答えて、あれは鬼? あんたも知っているの? あの万年筆は? あんたは何者?」

 冗談は軽く躱して質問の雨を降らせる。こっちは談笑の時間が、一秒でも惜しいのだ。

「ちょっとちょっと、質問は一個に絞ってくれないと」

「ジジイのくせにケチなこと言ってんじゃないわよ、その両手使えなくしてあげましょうか?」

「片手片足使えない君に言われてもなあ」

 大袈裟に肩を竦める彼は、如何にも胡散臭かった。私に隠し事だなんて、実に不可解。そんな返しも、実に不愉快。

「じゃあせめて、教えてくれる? 私が死んだのは……あれは、夢なのかしら?」

「あの痛み、落ちた感覚、血のにおい、あれが偽物に思えるかい?」

「──思えない」

 それだけは、はっきりと答えられた。この男も、あれを経験しているのかと思うと、ゾッとした。よく正気で居られるものだ。彼は、

「それが答えさ」

 と、一呼吸置いてから、

「その万年筆を持つ限り、君は毎夜、化け物に追われ、死に続けることになる。死んで、生き返って、死んで、また生き返って。そんな終わらないゲームのプレイヤーに選ばれたんだよ、君は」

「はあ!? これから、毎晩って──」

 条件付きや不定期で起こるのではなく、毎晩。その言葉がずしりと伸し掛かってくる。これから、毎夜毎回毎度のごとく殺され、魘されなければならないというのか。

 病院は治療を行う場所ではなかったのか。
 
「や、病むに決まってるじゃない、こんな無理ゲー……」

 しかも、私は片手片足不能のハンデあり。これが人生初めての負け確定!? ジジ医はこちらを一ミリも気にせず淡々と続けた。

「化け物に勝てば、あの夜は終わるかもしれないけどね」

「あんた、なんて物を渡してくれてんのよ! それに今まではあんたがやってたことなんでしょ!? 許されるのかしら、患者に苦痛を転嫁するなんて!」

「生憎、僕はもうすぐ、使えなくなる」

「────は?」

 何を言っているのか、それが容易に理解できるものでないことだけを悟り、私は口をつぐんだ。彼は頭を抱え、がりがりと掻き毟り、言った。まるで、精神でも侵されているかのように。やはり、異常を来しているかのように。

「だから君に託したんだ。長かった、長い、長い戦いだった。でも、僕じゃ何も変わらなかったんだよ……何も、何もかも変えられなかった」

「何言ってんの……? ちゃんと説明しなさいよ!! 死んだのが夢じゃないなら、あれは一体何なの?」

 漠然とした明確な恐怖に、毒の霧の中にでも取り残されているような気分だった。彼が呟いたのは独り言、こちらに有益な情報は、何一つも明かされていない。このままじゃ、駄目なのに。院長はこちらを見もせず、歩き出した。

「考えることなんて、無駄だよ」

「じゃあ考えるなって言うの?」

「ああ、そうだね」

「それ、あまりにも無責任よ」

 私は壁に片手を付き、けんけんしながら追いかける。歩みを進めるスピードは、怪我人に微塵の配慮もないものだった。

「これだけは言っておこう。このゲームの注意事項だ」

「何よ、ルールなんてあるの?」

「君が降参すれば、ここにいる患者全てが食い殺されることになる」

「なっ」

「万年筆を捨てても同様、誰かに託してもその未来は伺えない。でも君なら──」

『────降参しろ』

 瞬間。
 声が、した。
 くぐもったような声が、私の鼓膜の内側を確かに震わせた。降参しろ、とそう言った。院長の表情は、ここからは伺えない。どんな想いで、何を私に託したいのか。何がそれを妨げようとしているのか、それを謀ることは出来ないだろう。ただ一つ、分かることがあるなら、

「意思も口も一丁前な君に、降参の二文字は有り得ないだろう?」

 この三、四日のうちに、彼は一番肝心なことを知り得たらしい。そうだ。その通り、私も、深く頷く。
 
「もちろんよ。死にっぱなしも勝ち逃げも、私は二度と許さない」

「ああ、それでこそ」

「やってやるわよ、この天追カコミがね」


 期間は完治までの三ヶ月。それまでに、鬼に勝つ。失敗すれば、食われる。降参すれば皆殺し。ただそれだけのことなのだ。

「強者は勝つ。私がいつも、勝ってきたようにね」

 天追カコミの命がけの鬼ごっこが、静かに、そして微かに、幕を上げたのだった。
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