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3 休日
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リーゲルが辺境に赴任してから初めての休日、エリスとニナは王都に並ぶ規模の都市である辺境都市ズスルクを案内した。明らかに貴族然とした美しいリーゲルとエリスは周囲の注目の的であるが、王家の護衛が変装して付いてきている為、妙な人物に絡まれることもない。
今日はどういう訳か、ニナとリーゲルに挟まれているエリス。学生時代から三人で歩くときは必ずニナが真ん中で、エリスとリーゲルが両側にいる形だった。そうでないと不機嫌になるニナが何故か大人しく口数も少ない。エリスは違和感を感じて少々落ち着かない。その様子を体調不良かと心配したリーゲルが気遣う。
「エリス様、体調が良くないのであれば今日はもう……」
「あ、いえ、何でも無いのです。ただ、私たちも生活する上で必要最低限の場所しか知らなくて申し訳ないなと思いまして。でも私たちも辺境に住んで数ヶ月ですから他は詳しく無いのです」
そう言って申し訳なさそうにするエリス。案内したのは市場や日用品店などが主だった。リーゲルは王家の者が辺境滞在時に使用する屋敷に住んでいる。使用人もそれなりにいるので自ら買い物などする必要がないのは確かだ。今回エリスたちが紹介した店などにわざわざ訪れる理由がない。
「確かに、今の僕には必要ないかもしれませんが、いつかは必要になるかもしれませんので有難いです」
現在、王位継承権を放棄しているリーゲルだが、未だに籍は王家のまま。本来は王家の持つ何かしらの爵位を継ぐが、平民となったエリスと結ばれることが出来るなら準貴族となるつもりだった。
この国は、魔力持ち貴族と魔力無し平民の婚姻を非推奨としている。平民の魔力持ちが増えるのを抑制する為だ。
故に貴族の中でも準貴族という身分が存在する。それは、家督を継げない令息や他家に嫁げなかった令嬢などがいずれなるもの。
彼らは魔力を必要とする職業に従事する。勿論、平民との婚姻は推奨されておらず、殆どは準貴族同志で婚姻する。生まれた子は生まれながらにして準貴族となる。
そんな事情の中で、魔力持ちの貴族を勘当し平民にすることは罰則こそ無いものの眉を顰められる行為だ。しかし、エリスの父、クライス侯爵はそれを行った。この件に関してどのような謗りも受ける覚悟、というより第二王子派閥が瓦解して「もう何もかも終わりだ」とやけくそになったと言える。クライス侯爵はエリスが平民として暮らせる訳が無く苦労の末に死ぬだろうと予想してのことだったが、残念ながら外れた。
そして、平民となった元貴族は勘当されるほどのことをやらかしたのだと判断され、貴族に戻るのも準貴族となるのもほぼ不可能。だが、エリスが勘当された件について理由を知らない貴族はいない。エリスが貴族に戻ろうとも準貴族になろうとも、批判をする者はせいぜい元第二王子派閥の家だけだ。とはいえ、エリス自身が貴族に戻ることを望んでいなさそうなので、リーゲルは準貴族になろうと思っている。
リーゲルがそんなことを考えているのを知らないエリスは彼の返答に少し首を傾げるだけであった。
「リーゲル、あそこがエリスとニナさん行きつけのパン屋だぞー」
エリスと手を繋いでいない方の手でニナが指差す先には小さなパン屋があった。年季の入った看板にはベーカリーニコと彫られている。
「ここを経営しているご夫婦は息子さんしかいなくて、こんな娘が欲しかったと言ってニナをとても可愛がってくれるんです」
エリスが嬉しそうに説明する。
「売れ残りのパンとかくれるぞー食費が浮くのだ」
「そうね、とても助かっているわ」
リーゲルは二人の会話に少し引っ掛かった。
──エリス様とニナ嬢は同居していて生活費はエリス様が管理しているようだが、あまり余裕が無いのだろうか。そんなはずはない。魔術師団の給料も治癒術師の給料もそれなりのはずだ。エリス様はニナ嬢に甘いから、まさか。
「ニナ嬢は未だにあれこれ無駄遣いしているのですか?」
この言葉にニナが抗議する。
「なんだーその言い方はー! 欲しいもの買うのが無駄遣かー!? それに家狭いからそんなに物買ってねーし!」
「そうですか、それは失礼しました……」
ならば何故生活費を節約する必要があるのかと訝しむリーゲルにエリスが説明する。
「私は以前ほど裕福ではありませんから、ニナが破壊魔法でどこかを壊した際の修繕費など払えません。ですので、いざという時の為に二人で貯金をしているのです」
困り笑顔なエリスの横でニナが「自分は無駄遣いしてない」と胸を張っている。
結局、生活を切り詰めているのはニナのせいでは無いかと思ったが、口出すと面倒なことになりそうなのでリーゲルは黙っておいた。
その何か言いたげな目にニナが更に抗議の声を上げようとした時、パン屋の扉が内側から開かれ十代前半ほどの年齢に見える灰色の髪の少年が顔を出した。
「ああ? ニナ? またパンたかりにきたのか?」
少し不機嫌ともとれる態度の少年にニナが言葉を返す。
「たかってねーし、おばさんがくれるの貰ってるだけだし」
「閉店後に売れ残りはいいけど、営業中に物欲しそうにして母さんからパン恵んでもらうのは完全にたかってるだろ」
「うるせーガキだな」
「お前もガキだろ」
「ニナさんは成人ですしー」
「嘘つけ」
「エド坊やはお子ちゃまだから人の年齢もわからないのかー」
「誰が坊やだ」
エドと呼ばれた少年とニナのやり取りを眺めていて、リーゲルが気付く。
──少年は不機嫌そうに見えるが、瞳は嬉しそうだ。目は口ほどにものを言う。ニナ嬢が好きだが素直になれないといった所か。
納得したリーゲルがエリスにこそりと耳打ちする。
「あの少年はニナ嬢のことが気になるのですね」
「……ええ!?」
恋愛事に疎いエリスは全く気付いていなかった。年頃の男子は複雑だが、瞳を見ればニナをどう思っているか分かるとリーゲルに言われてやっと「そうかもしれない」と思ったエリスの表情はわずかに沈み、どこか不安げに。リーゲルが不思議そうにどうしたのかと尋ねる。
「……いえ、何でもありません」
そう答えて、笑顔で誤魔化そうとリーゲルの方に顔を向けようとして、エリスはハッとする。
──殿下は結構睫毛長……ではなくて、ち、近い……!
リーゲルの顔がとても近い位置にあったのだ。先ほど耳打ちした際に距離が近くなった状態でエリスの顔を覗き込んでいた。思わずに後退ってしまうエリス。リーゲルがその反応に苦笑する。
「すみません、耳打ちした際に近づいたままでした」
「い、いえ、こちらこそ、失礼な反応をしてしまって……」
頭を下げて謝ろうとしたエリスだが、リーゲルがそれを制止する。
「謝らないでください、僕が悪いのですから。まさか、後退りされるとは思いませんでしたが……嫌な思いをさせてしまい申し訳ない。今後はなるべくエリス様から離れておきましょう」
少し悲し気な微笑を浮かべるリーゲルにエリスが慌てる。
「嫌だなんて思っていません、ただ驚いただけで……」
「そうですか、では今後も先ほどの距離で大丈夫ですね」
「え? ええ……」
「ありがとうございます、エリス様」
この返答のせいで、エリスは今後リーゲルとの物理的距離が近くなることに悩まされることになるのだが、この時はよくわからずに何となく嫌な予感がするのみだった。そして、その予感をを無視してエリスがニナの方へ視線を向ると、ニナとエドは地べたで軽く乱闘しており、丁度ニナがエドの腕を両腿で挟んで腕関節を反らせている所であった。
「に、ニナ!?」
エリスの困惑の声にニナが関節技を解いた。するとすぐさまエドは自分の首と胸部にのしかかるニナの両足から這い出た。その顔は少し赤いが、喧嘩で興奮したというより、気になる女子と体が密着したことによる羞恥心から体温が上昇している。
「ニナ、喧嘩は駄目よ」
注意されたニナはプイと顔を逸らして頬を膨らます。
「喧嘩じゃなくてじゃれ合いだもん。このくらいフツー」
「もう、ニナったら……エドさん、ニナが乱暴してすみません」
エリスは謝りつつも、被害者に思われるエドでは無く、技をかけていたニナの体に付着した砂を手で払っている。その光景をエドが何とも言えない表情で見ている。
「すみません、エリス様はニナ嬢の存在を何よりも優先させてしまう傾向にあるのです」
リーゲルがフォローになっているような、なっていないようなフォローを入れると、エドは彼を振り仰ぎ小声で、
「いや、まあ、前からそれは知ってるけど。なんつーか、ニナは変だけどエリスさんもちょっと変っすね」
と、肩を竦めた。リーゲルはそれに否定も肯定もできなかった。
──本来、学友であった私が注意すべきなのだろうな。
外見と同じく精神も幼いニナがエリスに依存しているように周囲の人間は見えるだろうが、学生時代から二人を知る者からはエリスがニナに依存しているように映る。正直、二人の関係は正常な友人関係とは言えない。しかし、エリスが自由を得たのはニナの存在のおかげである。その為、依存気味でも仕方のないことだとリーゲルは考えており、下手に注意してエリスに嫌われる方が痛手なのでこの件について関わらないことにしている。
□
エリスとニナの生活圏周辺を一通り案内すると、丁度昼頃になっていたので三人はエリスたちが時折利用する庶民向けのレストランで昼食をとることになった。
四人席に案内されたので、エリスはニナと二人で並び対面にリーゲルが座るのだと思っていたら、ニナはエリスの向かいに座ってしまった。そして、エリスの隣にはリーゲルが腰を下ろす。
学生時代のニナであれば憤慨する場面である。だが、ニナは全く気にせずにメニューを眺め始めたので、エリスはニナの体調不良を疑った。しかし、本人は普通だと言い張り、食事量も通常と変わらなかったのでエリスはそれ以上何も言えなかった。
食後は三人とも殆ど行ったことが無い中央区に向かう。
リーゲルが以前から気になっていたという博物館は巨大で、常設展示のほか、複数の企画展示も開催されていた。休日ということもあり人々でにぎわう博物館入り口付近の案内板前で三人は悩む。
「これは、一日では到底見回れませんね」
「それぞれ好きなもの見に行けばいーじゃん」
ニナの発言に二人も賛同する。
「ニナは何が見たい?」
「まだ決めてない、エリスはー?」
「私はこの『帝国北部の伝統織物展』が気になるわ」
そこでニナはチラリとリーゲルに視線を投げる。彼は目で「わかっている」と返し、
「僕も以前から帝国北部に興味があります。この国とは気候も文化も違いますからね。エリス様、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「え、ええ。なら、ニナも一緒に行きましょう?」
エリスがニナの右手をそっと握ろうとしたが、ニナはそれを振り払い案内板の一点を指す。
「ニナさんこれ見る!」
それは『世界のごみむしだまし展』であった。
「え? ニナ、虫が好きだったの?」
学生時代の記憶を掘り起こしてもそれらしい片鱗を見せたことは一度も無かったとエリスは記憶している。
「虫は虫。それ以上でも以下でもない。好きでも嫌いでもない」
「なら、どうしてわざわざ……」
「ごみむしだましが見たいきぶん」
「私も一緒に」と言いかけるエリスの発言をニナが遮る。
「エリスは帝国北部のナントカが見たいならそっち見るべき。ニナさん一人でごみむしだましに詳しくなってくる。見終わったらここに戻ってくる」
そう言って、ニナがたーっと走って去ろうとする。その後ろ姿にエリスが声を掛ける。
「ニナ! 博物館では静かにするのよ」
ニナは一度振り返って停止し、こくんと頷いてからてってけと速足で行ってしまった。エリスが不安そうな表情であるので、リーゲルが少し明るめの声を出す。
「ニナ嬢も成人ですから大丈夫ですよ。さあ、僕たちも行きましょうか」
「そうですね……、っ!?」
返事をしている途中で突然リーゲルがエリスの手に触れる。
「人が多いですから、はぐれないよう手を繋ぎましょう」
「いえ、あの、はぐれてしまったら入り口に戻って落ち合えばいいので……」
「……そう、ですか。すみません、エリス様はやはり私に触れられることは不快なのですね」
リーゲルは先ほどよりも悲し気な表情を浮かべる。「友人であるとはいえ、これは王族に対する不敬だ」と焦るエリス。
「いえ! 違います、そうでは無いのです……!」
「では、手を繋いでも?」
「え、ええ」
エリスは内心「あれ?」と思いながらも、「これ以上殿下に悲しい顔をさせてはいけない」とリーゲルが改めて差し出した手にそっと自らの手を重ねた。
その後、それぞれの展示物を見終わった三人は合流したのだが、ニナは死んだ魚の目をしていた。
「ニナ、どうしたの?」
「一生分のごみむしだまし見たからもうしばらく虫見たくない……」
どうやら大量の虫展示で虫に苦手意識が芽生えてしまったニナ。しょんもりする彼女にエリスがお土産品のミョーぬいぐるみを買ってやると、たちまち元気になったのだった。単純なニナである。
□
後日、ニナがリーゲルの職場である役所に押し掛けた。つまみ出されそうになり、ニナがシャーッと職員に威嚇している所を丁度リーゲルが通りがかり、応接室に招き入れる。
「おい、リーゲル、この前の休みは上手くやったのかー?」
休日のお出かけの前、ニナはリーゲルに「辺境伯気に入らないから、お前を手伝ってやる」と告げていた。発言通りエリスとリーゲルが二人で会話できる機会を作ったつもりだが、お出かけ後、エリスに何も変化が無いことが不満だった。
「すみません、私は辺境伯のように好意を直接的に伝えることはできませんでした。何というか、気恥ずかしくて……」
リーゲルが少し頬を赤くして口元を片手で覆う。
「あー? そんなんじゃ辺境伯にエリス取られるぞ。それはニナさんヤダ! 早くどうにかしろ!」
「そういわれましても……」
「ヘタレ!」
「返す言葉もありません……」
ニナが頬を膨らませてご立腹であるので、この突撃を想定していたリーゲルは用意した菓子折りを差し出す。
「ニナ嬢がお好きな、素朴な味の焼き菓子です」
「わーい」
喜んで包装をばりばり破り、箱を空けて焼き菓子を取り出した所で一時停止した。
「はっ! 流されるとこだった。危ない危ない」
と、リーゲルを睨みつつも菓子を頬張る。
「お菓子で誤魔化すな! で、エリスとはどうするんだ!」
「僕とて何もしなかった訳ではありません。まず物理的距離を縮め、手を繋ぐことに成功しました」
「カメの歩み!」
「仰る通りで……しかし、私には早急にことを進めるのは不可能です。それに……」
「それに?」
「辺境伯もそう簡単にエリス様を手に入れられるとは思えません」
博物館で二人きりになったが、エリスは目の前の展示物よりも、手を繋いでいるリーゲルよりも、離れたニナのことばかり気にしていた。「ニナを独りにして大丈夫でしょうか」「迷子になっていないかしら」「癇癪を起して破壊魔法を使わないといいけれど……」と、口を開けばニナのことばかり。
「えー、エリス心配しすぎー」
「ニナ嬢が思っているよりもエリス様の心は貴女の存在が中心にあります。貴女が辺境伯を受け入れないのであれば、どのようなことがあろうともエリス様は辺境伯を選ばないでしょう」
ニナは少しキョトンとした後、
「うーん、それはエリスにとって良いことなのかー?」
この発言には驚きを隠せないリーゲル。てっきり「エリスはニナさんが好きだからな!」と胸を張ると思っていた。
「……それは、僕には判断できません」
「ぬーん」
それきり黙って菓子を完食したニナは、
「結局お前がエリス口説けばいいんだよ! はよどうにかしろ!」
と言って帰っていった。
「だから、早急には無理だと言っているのに」
リーゲルはそう呟きながらも、己の不甲斐なさに嘆息した。
今日はどういう訳か、ニナとリーゲルに挟まれているエリス。学生時代から三人で歩くときは必ずニナが真ん中で、エリスとリーゲルが両側にいる形だった。そうでないと不機嫌になるニナが何故か大人しく口数も少ない。エリスは違和感を感じて少々落ち着かない。その様子を体調不良かと心配したリーゲルが気遣う。
「エリス様、体調が良くないのであれば今日はもう……」
「あ、いえ、何でも無いのです。ただ、私たちも生活する上で必要最低限の場所しか知らなくて申し訳ないなと思いまして。でも私たちも辺境に住んで数ヶ月ですから他は詳しく無いのです」
そう言って申し訳なさそうにするエリス。案内したのは市場や日用品店などが主だった。リーゲルは王家の者が辺境滞在時に使用する屋敷に住んでいる。使用人もそれなりにいるので自ら買い物などする必要がないのは確かだ。今回エリスたちが紹介した店などにわざわざ訪れる理由がない。
「確かに、今の僕には必要ないかもしれませんが、いつかは必要になるかもしれませんので有難いです」
現在、王位継承権を放棄しているリーゲルだが、未だに籍は王家のまま。本来は王家の持つ何かしらの爵位を継ぐが、平民となったエリスと結ばれることが出来るなら準貴族となるつもりだった。
この国は、魔力持ち貴族と魔力無し平民の婚姻を非推奨としている。平民の魔力持ちが増えるのを抑制する為だ。
故に貴族の中でも準貴族という身分が存在する。それは、家督を継げない令息や他家に嫁げなかった令嬢などがいずれなるもの。
彼らは魔力を必要とする職業に従事する。勿論、平民との婚姻は推奨されておらず、殆どは準貴族同志で婚姻する。生まれた子は生まれながらにして準貴族となる。
そんな事情の中で、魔力持ちの貴族を勘当し平民にすることは罰則こそ無いものの眉を顰められる行為だ。しかし、エリスの父、クライス侯爵はそれを行った。この件に関してどのような謗りも受ける覚悟、というより第二王子派閥が瓦解して「もう何もかも終わりだ」とやけくそになったと言える。クライス侯爵はエリスが平民として暮らせる訳が無く苦労の末に死ぬだろうと予想してのことだったが、残念ながら外れた。
そして、平民となった元貴族は勘当されるほどのことをやらかしたのだと判断され、貴族に戻るのも準貴族となるのもほぼ不可能。だが、エリスが勘当された件について理由を知らない貴族はいない。エリスが貴族に戻ろうとも準貴族になろうとも、批判をする者はせいぜい元第二王子派閥の家だけだ。とはいえ、エリス自身が貴族に戻ることを望んでいなさそうなので、リーゲルは準貴族になろうと思っている。
リーゲルがそんなことを考えているのを知らないエリスは彼の返答に少し首を傾げるだけであった。
「リーゲル、あそこがエリスとニナさん行きつけのパン屋だぞー」
エリスと手を繋いでいない方の手でニナが指差す先には小さなパン屋があった。年季の入った看板にはベーカリーニコと彫られている。
「ここを経営しているご夫婦は息子さんしかいなくて、こんな娘が欲しかったと言ってニナをとても可愛がってくれるんです」
エリスが嬉しそうに説明する。
「売れ残りのパンとかくれるぞー食費が浮くのだ」
「そうね、とても助かっているわ」
リーゲルは二人の会話に少し引っ掛かった。
──エリス様とニナ嬢は同居していて生活費はエリス様が管理しているようだが、あまり余裕が無いのだろうか。そんなはずはない。魔術師団の給料も治癒術師の給料もそれなりのはずだ。エリス様はニナ嬢に甘いから、まさか。
「ニナ嬢は未だにあれこれ無駄遣いしているのですか?」
この言葉にニナが抗議する。
「なんだーその言い方はー! 欲しいもの買うのが無駄遣かー!? それに家狭いからそんなに物買ってねーし!」
「そうですか、それは失礼しました……」
ならば何故生活費を節約する必要があるのかと訝しむリーゲルにエリスが説明する。
「私は以前ほど裕福ではありませんから、ニナが破壊魔法でどこかを壊した際の修繕費など払えません。ですので、いざという時の為に二人で貯金をしているのです」
困り笑顔なエリスの横でニナが「自分は無駄遣いしてない」と胸を張っている。
結局、生活を切り詰めているのはニナのせいでは無いかと思ったが、口出すと面倒なことになりそうなのでリーゲルは黙っておいた。
その何か言いたげな目にニナが更に抗議の声を上げようとした時、パン屋の扉が内側から開かれ十代前半ほどの年齢に見える灰色の髪の少年が顔を出した。
「ああ? ニナ? またパンたかりにきたのか?」
少し不機嫌ともとれる態度の少年にニナが言葉を返す。
「たかってねーし、おばさんがくれるの貰ってるだけだし」
「閉店後に売れ残りはいいけど、営業中に物欲しそうにして母さんからパン恵んでもらうのは完全にたかってるだろ」
「うるせーガキだな」
「お前もガキだろ」
「ニナさんは成人ですしー」
「嘘つけ」
「エド坊やはお子ちゃまだから人の年齢もわからないのかー」
「誰が坊やだ」
エドと呼ばれた少年とニナのやり取りを眺めていて、リーゲルが気付く。
──少年は不機嫌そうに見えるが、瞳は嬉しそうだ。目は口ほどにものを言う。ニナ嬢が好きだが素直になれないといった所か。
納得したリーゲルがエリスにこそりと耳打ちする。
「あの少年はニナ嬢のことが気になるのですね」
「……ええ!?」
恋愛事に疎いエリスは全く気付いていなかった。年頃の男子は複雑だが、瞳を見ればニナをどう思っているか分かるとリーゲルに言われてやっと「そうかもしれない」と思ったエリスの表情はわずかに沈み、どこか不安げに。リーゲルが不思議そうにどうしたのかと尋ねる。
「……いえ、何でもありません」
そう答えて、笑顔で誤魔化そうとリーゲルの方に顔を向けようとして、エリスはハッとする。
──殿下は結構睫毛長……ではなくて、ち、近い……!
リーゲルの顔がとても近い位置にあったのだ。先ほど耳打ちした際に距離が近くなった状態でエリスの顔を覗き込んでいた。思わずに後退ってしまうエリス。リーゲルがその反応に苦笑する。
「すみません、耳打ちした際に近づいたままでした」
「い、いえ、こちらこそ、失礼な反応をしてしまって……」
頭を下げて謝ろうとしたエリスだが、リーゲルがそれを制止する。
「謝らないでください、僕が悪いのですから。まさか、後退りされるとは思いませんでしたが……嫌な思いをさせてしまい申し訳ない。今後はなるべくエリス様から離れておきましょう」
少し悲し気な微笑を浮かべるリーゲルにエリスが慌てる。
「嫌だなんて思っていません、ただ驚いただけで……」
「そうですか、では今後も先ほどの距離で大丈夫ですね」
「え? ええ……」
「ありがとうございます、エリス様」
この返答のせいで、エリスは今後リーゲルとの物理的距離が近くなることに悩まされることになるのだが、この時はよくわからずに何となく嫌な予感がするのみだった。そして、その予感をを無視してエリスがニナの方へ視線を向ると、ニナとエドは地べたで軽く乱闘しており、丁度ニナがエドの腕を両腿で挟んで腕関節を反らせている所であった。
「に、ニナ!?」
エリスの困惑の声にニナが関節技を解いた。するとすぐさまエドは自分の首と胸部にのしかかるニナの両足から這い出た。その顔は少し赤いが、喧嘩で興奮したというより、気になる女子と体が密着したことによる羞恥心から体温が上昇している。
「ニナ、喧嘩は駄目よ」
注意されたニナはプイと顔を逸らして頬を膨らます。
「喧嘩じゃなくてじゃれ合いだもん。このくらいフツー」
「もう、ニナったら……エドさん、ニナが乱暴してすみません」
エリスは謝りつつも、被害者に思われるエドでは無く、技をかけていたニナの体に付着した砂を手で払っている。その光景をエドが何とも言えない表情で見ている。
「すみません、エリス様はニナ嬢の存在を何よりも優先させてしまう傾向にあるのです」
リーゲルがフォローになっているような、なっていないようなフォローを入れると、エドは彼を振り仰ぎ小声で、
「いや、まあ、前からそれは知ってるけど。なんつーか、ニナは変だけどエリスさんもちょっと変っすね」
と、肩を竦めた。リーゲルはそれに否定も肯定もできなかった。
──本来、学友であった私が注意すべきなのだろうな。
外見と同じく精神も幼いニナがエリスに依存しているように周囲の人間は見えるだろうが、学生時代から二人を知る者からはエリスがニナに依存しているように映る。正直、二人の関係は正常な友人関係とは言えない。しかし、エリスが自由を得たのはニナの存在のおかげである。その為、依存気味でも仕方のないことだとリーゲルは考えており、下手に注意してエリスに嫌われる方が痛手なのでこの件について関わらないことにしている。
□
エリスとニナの生活圏周辺を一通り案内すると、丁度昼頃になっていたので三人はエリスたちが時折利用する庶民向けのレストランで昼食をとることになった。
四人席に案内されたので、エリスはニナと二人で並び対面にリーゲルが座るのだと思っていたら、ニナはエリスの向かいに座ってしまった。そして、エリスの隣にはリーゲルが腰を下ろす。
学生時代のニナであれば憤慨する場面である。だが、ニナは全く気にせずにメニューを眺め始めたので、エリスはニナの体調不良を疑った。しかし、本人は普通だと言い張り、食事量も通常と変わらなかったのでエリスはそれ以上何も言えなかった。
食後は三人とも殆ど行ったことが無い中央区に向かう。
リーゲルが以前から気になっていたという博物館は巨大で、常設展示のほか、複数の企画展示も開催されていた。休日ということもあり人々でにぎわう博物館入り口付近の案内板前で三人は悩む。
「これは、一日では到底見回れませんね」
「それぞれ好きなもの見に行けばいーじゃん」
ニナの発言に二人も賛同する。
「ニナは何が見たい?」
「まだ決めてない、エリスはー?」
「私はこの『帝国北部の伝統織物展』が気になるわ」
そこでニナはチラリとリーゲルに視線を投げる。彼は目で「わかっている」と返し、
「僕も以前から帝国北部に興味があります。この国とは気候も文化も違いますからね。エリス様、ご一緒してもよろしいでしょうか」
「え、ええ。なら、ニナも一緒に行きましょう?」
エリスがニナの右手をそっと握ろうとしたが、ニナはそれを振り払い案内板の一点を指す。
「ニナさんこれ見る!」
それは『世界のごみむしだまし展』であった。
「え? ニナ、虫が好きだったの?」
学生時代の記憶を掘り起こしてもそれらしい片鱗を見せたことは一度も無かったとエリスは記憶している。
「虫は虫。それ以上でも以下でもない。好きでも嫌いでもない」
「なら、どうしてわざわざ……」
「ごみむしだましが見たいきぶん」
「私も一緒に」と言いかけるエリスの発言をニナが遮る。
「エリスは帝国北部のナントカが見たいならそっち見るべき。ニナさん一人でごみむしだましに詳しくなってくる。見終わったらここに戻ってくる」
そう言って、ニナがたーっと走って去ろうとする。その後ろ姿にエリスが声を掛ける。
「ニナ! 博物館では静かにするのよ」
ニナは一度振り返って停止し、こくんと頷いてからてってけと速足で行ってしまった。エリスが不安そうな表情であるので、リーゲルが少し明るめの声を出す。
「ニナ嬢も成人ですから大丈夫ですよ。さあ、僕たちも行きましょうか」
「そうですね……、っ!?」
返事をしている途中で突然リーゲルがエリスの手に触れる。
「人が多いですから、はぐれないよう手を繋ぎましょう」
「いえ、あの、はぐれてしまったら入り口に戻って落ち合えばいいので……」
「……そう、ですか。すみません、エリス様はやはり私に触れられることは不快なのですね」
リーゲルは先ほどよりも悲し気な表情を浮かべる。「友人であるとはいえ、これは王族に対する不敬だ」と焦るエリス。
「いえ! 違います、そうでは無いのです……!」
「では、手を繋いでも?」
「え、ええ」
エリスは内心「あれ?」と思いながらも、「これ以上殿下に悲しい顔をさせてはいけない」とリーゲルが改めて差し出した手にそっと自らの手を重ねた。
その後、それぞれの展示物を見終わった三人は合流したのだが、ニナは死んだ魚の目をしていた。
「ニナ、どうしたの?」
「一生分のごみむしだまし見たからもうしばらく虫見たくない……」
どうやら大量の虫展示で虫に苦手意識が芽生えてしまったニナ。しょんもりする彼女にエリスがお土産品のミョーぬいぐるみを買ってやると、たちまち元気になったのだった。単純なニナである。
□
後日、ニナがリーゲルの職場である役所に押し掛けた。つまみ出されそうになり、ニナがシャーッと職員に威嚇している所を丁度リーゲルが通りがかり、応接室に招き入れる。
「おい、リーゲル、この前の休みは上手くやったのかー?」
休日のお出かけの前、ニナはリーゲルに「辺境伯気に入らないから、お前を手伝ってやる」と告げていた。発言通りエリスとリーゲルが二人で会話できる機会を作ったつもりだが、お出かけ後、エリスに何も変化が無いことが不満だった。
「すみません、私は辺境伯のように好意を直接的に伝えることはできませんでした。何というか、気恥ずかしくて……」
リーゲルが少し頬を赤くして口元を片手で覆う。
「あー? そんなんじゃ辺境伯にエリス取られるぞ。それはニナさんヤダ! 早くどうにかしろ!」
「そういわれましても……」
「ヘタレ!」
「返す言葉もありません……」
ニナが頬を膨らませてご立腹であるので、この突撃を想定していたリーゲルは用意した菓子折りを差し出す。
「ニナ嬢がお好きな、素朴な味の焼き菓子です」
「わーい」
喜んで包装をばりばり破り、箱を空けて焼き菓子を取り出した所で一時停止した。
「はっ! 流されるとこだった。危ない危ない」
と、リーゲルを睨みつつも菓子を頬張る。
「お菓子で誤魔化すな! で、エリスとはどうするんだ!」
「僕とて何もしなかった訳ではありません。まず物理的距離を縮め、手を繋ぐことに成功しました」
「カメの歩み!」
「仰る通りで……しかし、私には早急にことを進めるのは不可能です。それに……」
「それに?」
「辺境伯もそう簡単にエリス様を手に入れられるとは思えません」
博物館で二人きりになったが、エリスは目の前の展示物よりも、手を繋いでいるリーゲルよりも、離れたニナのことばかり気にしていた。「ニナを独りにして大丈夫でしょうか」「迷子になっていないかしら」「癇癪を起して破壊魔法を使わないといいけれど……」と、口を開けばニナのことばかり。
「えー、エリス心配しすぎー」
「ニナ嬢が思っているよりもエリス様の心は貴女の存在が中心にあります。貴女が辺境伯を受け入れないのであれば、どのようなことがあろうともエリス様は辺境伯を選ばないでしょう」
ニナは少しキョトンとした後、
「うーん、それはエリスにとって良いことなのかー?」
この発言には驚きを隠せないリーゲル。てっきり「エリスはニナさんが好きだからな!」と胸を張ると思っていた。
「……それは、僕には判断できません」
「ぬーん」
それきり黙って菓子を完食したニナは、
「結局お前がエリス口説けばいいんだよ! はよどうにかしろ!」
と言って帰っていった。
「だから、早急には無理だと言っているのに」
リーゲルはそう呟きながらも、己の不甲斐なさに嘆息した。
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