上 下
1 / 15

しおりを挟む
 侯爵令嬢エリス・クライスは疲れていた。

 父親は明らかにエリスを愛していない。只の駒だと思っている。エリスを見る目には何の感情も宿っていない。父親が愛情を注ぐのは後妻とその子供たちだけ。

 父はエリスに「今まで育ててやった恩を返せ」と、いずれ王太子に担ぎ上げる予定の第二王子ヴェイン・クトス・イスカータの婚約者になるようにと命じてきた。これはエリスの母亡くなった直後、エリスがわずか八歳の時のことである。幼いエリスは父の命に従う他無かった。

 ヴェインに好かれるよう努力しろとも命じられたが、それは無理な話である。彼は最初からエリスを嫌っている。

 ヴェインは幼い頃から公爵家の令嬢フィーネ・クローディオに好意を抱いており、彼女を婚約者にしたいと駄々を捏ねていた。
 しかし、フィーネは隣国の王子の婚約者となり、代わりにヴェインの婚約者となったのはフィーネとは正反対のエリス。フィーネは可憐で天使の様な愛らしさで天真爛漫、一方エリスは子供らしくない落ち着きの少女あるだった。
 初めて顔を合わせた日、ヴェインはエリスを見て「何だ! この陰気な女は! こんな奴が婚約者だとは認めん!」と言い放った。
 周囲に王族は決められた相手と結婚するのが義務なのだと諭され渋々了承したヴェインは、散々エリスに暴言を吐き八つ当たりする。婚約者となったその日からずっとだ。このような態度の相手に好かれるなど到底不可能。

 だが、ヴェインとの仲が険悪であろうと、彼が王太子に選ばれればいずれ王になり、エリスは王妃になる。その為の教育は受けなければならない。好きでも無い者の為に強制的に学ばされるのは単なる苦行である。

 疲れている要因はそれだけでは無い。母が亡くなった一か月後に後妻に入った義母。彼女とも上手くいっていないのだ。
 義母は事あるごとにエリスに嫌味を言ってくる。父に相談すると、義母はいずれ王妃になるかもしれないエリスの為に助言しているのだと開き直る。

 やがて生まれた異母弟妹は、義母の言動から「エリスは侮って良い存在」だと認識している。両親に愛されているのは自分たちだけだとエリスを見下す弟妹は幼いながらも優越感を滲ませた醜悪な表情をしている。

 そんなこんなでエリスには落ち着ける居場所というものが無かった。

 しかし、一時的にだがこの環境から脱出できる十五歳になった。これで王立学園への入学ができる。

 王立学園は魔力を有する貴族の子女が十五になれば通うことが義務付けられている教育機関。この国の魔力持ちは大半が貴族なので生徒の殆どが貴族であるが、稀に現れる魔力持ちの平民も入学することができる。
 生徒の自主性を育てることを重んじており、全寮制で冠婚葬祭や緊急時を除いて実家への接触を禁止しているという、近隣の国の中でも珍しい学園だ。まあ、自主性うんぬんは表向きの理由で、実際は他の理由があるのだが殆どの者は知らされない。といっても察しの良い者は気が付く。

 つまりは、この王侯でさえも例外では無い学園の規則により、エリスは実家から合法的に離れることができるのだ。卒業までのたった三年間の自由だが、疲れ切っていたエリスには有難かった。

 一年先に入学したヴェインが在学しているが、学園は学年によって敷地が分かれているので滅多に会うことは無い。せいぜい季節に一回ある学年合同のダンスパーティで遭遇するくらいだ。整ってはいるが傲慢さが表れているヴェインの顔面を年四回見るだけで済むのだからありがたい。





 入学式を終えて顔見知りの令嬢との挨拶を済ませたエリスは寮へ向かう。春の温かい風が心地よい。部屋に到着したら昼寝というものを試してみようかと思案していた時。

 陽光を浴びて煌めく銀の髪がエリスの眼前に広がった。この髪の持ち主が突然道沿いの植木から飛び出してきたのだ。
 エリスにぶつかりかけるが、咄嗟に避けた銀髪の少女は止まることなく「あ、ごめんー」と詫びながら全速力で駆けて行った。

 直後、後方から複数の人間の足音。

「待て、ニナ・シェンテ!」

 教師一人と学園警備の騎士三人が少女を追いかけて行った。

 ──あの子がニナ・シェンテ……。

 珍しい平民の魔力持ちで、貴族の養子になって学園に通うことになった少女だ。
 同い年のはずだがエリスよりもかなり幼く見える外見だった、それに入学初日に教師に追いかけられるとは何をしたのか、と首を傾げる。

 ──彼女が他学年に決して知らせてはいけないという特別な人物……そうは見えないけど。

 ニナ・シェンテは第一王子アルテオを王太子にしたい派閥が、発見保護した類稀なる魔術の才能を持つ人物。彼女は第一王子派閥の末端であるシェンテ男爵家に養子に入れられた。
 第一王子派閥は辺境と友好な関係を維持する方針で、魔族の国と隣接する諍いの絶えぬ辺境に優秀な魔術師を派遣している。その一環でニナは卒業後に魔法師団に所属し辺境へ配属になることが決められている。

 だが、それを第二王子派閥に知られれば阻止される可能性が大きい。第二王子派閥は辺境について第一王子派閥と真逆の方針だった。いずれは辺境の武力を削って掌握するつもりなのだ。

 大人が学生に接触し未来ある若者を青田買いするのを厳しく禁じている学園だが、学生が優秀な人物を引き込むのは許容している。
 自分の家がどの派閥に所属しているかはどの子女も把握している。指示されずとも家の益になるように動くことはある。勝手にニナを第二王子派閥に引き込むかもしれない。

 故に、第一王子派閥は学園と、ニナの同学年になる子を持つ第二王子派閥の家と、学園警備の騎士団に見返りを用意し、ニナの存在を秘匿する契約を交わした。特に第二王子ヴェインとその側近たちに知られぬようにと。

 ──契約には誓約魔術まで使用されているのよね。そうまでして派閥に置いておきたい人材だということ。

 ニナ・シェンテは本当に只の平民だった。己の能力だけで国中枢の人物に認められた。

 ──本当に凄い。私とは大違い。

 エリスは侯爵令嬢として、間違いなく満点だ。礼儀作法も貴族としての教養も完璧。学園入学前の試験でも上位。やろうと思えば何でもそつなくこなす器用な人間。
 しかし、本当にそれだけだと、彼女自身が認識していた。

 ──私はそれなりに優秀なのかもしれないけど、突出した才能というものが無い。唯一無二で、価値のある特別な存在とは程遠い。珍しい第二王子の婚約者という立場だけど、私の代わりはいくらでもいる。私が第二王子の婚約者として相応しくないと判断されたら、クライス侯爵家と同じ第二王子派閥の家から新しい婚約者が現れるだけ。あのニナという子に比べたら、私は何て価値の無い人間だろう。

 煌めく銀髪が脳裏によぎる。

 ──ああ、何て眩しい。そして、羨ましい。あの小柄な体には私などとは比べ物にならない価値が秘められている。

 凡庸な自分は一生関わることがなさそうな人種だと、エリスは思った。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

転生したので前世の記憶を消したい

みっきー・るー
恋愛
田舎のパン屋さんの一人娘であるフレーゼは、ある日義弟リージが国王の庶子であることを知る。 国王は王家に引き取りたいと申し出るが、義弟はフレーゼと共になら行くと条件をつける。 あれよという間にフレーゼは城で暮らすことになり、同じ年齢の第二王子ロア、義弟リージと共に過ごし、王宮付き魔法使い兼三人の教育係であるフレムの下で学ぶことになる。 そんな中フレーゼは夢を見るたびに前世を思い出すようになり、そんな自分自身に困惑するようになる。 ヒロインが転生して前世を忘れたいと悩むお話。第一章の糖度は低め。

貧乏で地味ないじめられ男爵令嬢、魔法の才で最強魔法使いに成り上がります! ~魔法を極めていたら王子様に見初められました!?~

柴野
恋愛
貧乏で地味なことを理由で学園でいじめを受けていた男爵令嬢フィルミー・ラボリ。 婚約者の子爵令息にはろくに相手にされない上同性の友人は一人もおらず、毎日孤独な思いをしていた。 彼女はある日、「君の魔法、すごいじゃん」と謎の男性に言われ、学生でありながら魔術師団にスカウトされることに。 そして、仕事を通じてそれまで自覚していなかった魔法の才を開花させ国の最前線で活躍していく。 今まで蔑んできた者たちを見返してスッキリし、最強を目指してさらに腕を磨くフィルミーだったが、なんと第二王子に見初められてしまって……? 貧乏男爵令嬢が幸せを掴む、シンデレラストーリー。 ※小説家になろうに重複投稿しています。

逆行転生した侯爵令嬢は、自分を裏切る予定の弱々婚約者を思う存分イジメます

黄札
恋愛
侯爵令嬢のルーチャが目覚めると、死ぬひと月前に戻っていた。 ひと月前、婚約者に近づこうとするぶりっ子を撃退するも……中傷だ!と断罪され、婚約破棄されてしまう。婚約者の公爵令息をぶりっ子に奪われてしまうのだ。くわえて、不貞疑惑まででっち上げられ、暗殺される運命。 目覚めたルーチャは暗殺を回避しようと自分から婚約を解消しようとする。弱々婚約者に無理難題を押しつけるのだが…… つよつよ令嬢ルーチャが冷静沈着、鋼の精神を持つ侍女マルタと運命を変えるために頑張ります。よわよわ婚約者も成長するかも? 短いお話を三話に分割してお届けします。 この小説は「小説家になろう」でも掲載しています。

少し先の未来が見える侯爵令嬢〜婚約破棄されたはずなのに、いつの間にか王太子様に溺愛されてしまいました。

ウマノホネ
恋愛
侯爵令嬢ユリア・ローレンツは、まさに婚約破棄されようとしていた。しかし、彼女はすでにわかっていた。自分がこれから婚約破棄を宣告されることを。 なぜなら、彼女は少し先の未来をみることができるから。 妹が仕掛けた冤罪により皆から嫌われ、婚約破棄されてしまったユリア。 しかし、全てを諦めて無気力になっていた彼女は、王国一の美青年レオンハルト王太子の命を助けることによって、運命が激変してしまう。 この話は、災難続きでちょっと人生を諦めていた彼女が、一つの出来事をきっかけで、クールだったはずの王太子にいつの間にか溺愛されてしまうというお話です。 *小説家になろう様からの転載です。

私が美女??美醜逆転世界に転移した私

恋愛
私の名前は如月美夕。 27才入浴剤のメーカーの商品開発室に勤める会社員。 私は都内で独り暮らし。 風邪を拗らせ自宅で寝ていたら異世界転移したらしい。 転移した世界は美醜逆転?? こんな地味な丸顔が絶世の美女。 私の好みど真ん中のイケメンが、醜男らしい。 このお話は転生した女性が優秀な宰相補佐官(醜男/イケメン)に囲い込まれるお話です。 ※ゆるゆるな設定です ※ご都合主義 ※感想欄はほとんど公開してます。

【完結】お見合いに現れたのは、昨日一緒に食事をした上司でした

楠結衣
恋愛
王立医務局の調剤師として働くローズ。自分の仕事にやりがいを持っているが、行き遅れになることを家族から心配されて休日はお見合いする日々を過ごしている。 仕事量が多い連休明けは、なぜか上司のレオナルド様と二人きりで仕事をすることを不思議に思ったローズはレオナルドに質問しようとするとはぐらかされてしまう。さらに夕食を一緒にしようと誘われて……。 ◇表紙のイラストは、ありま氷炎さまに描いていただきました♪ ◇全三話予約投稿済みです

【 完 】転移魔法を強要させられた上に婚約破棄されました。だけど私の元に宮廷魔術師が現れたんです

菊池 快晴
恋愛
公爵令嬢レムリは、魔法が使えないことを理由に婚約破棄を言い渡される。 自分を虐げてきた義妹、エリアスの思惑によりレムリは、国民からは残虐な令嬢だと誤解され軽蔑されていた。 生きている価値を見失ったレムリは、人生を終わらせようと展望台から身を投げようとする。 しかし、そんなレムリの命を救ったのは他国の宮廷魔術師アズライトだった。 そんな彼から街の案内を頼まれ、病に困っている国民を助けるアズライトの姿を見ていくうちに真実の愛を知る――。 この話は、行き場を失った公爵令嬢が強欲な宮廷魔術師と出会い、ざまあして幸せになるお話です。

【完結】目覚めたら男爵家令息の騎士に食べられていた件

三谷朱花
恋愛
レイーアが目覚めたら横にクーン男爵家の令息でもある騎士のマットが寝ていた。曰く、クーン男爵家では「初めて契った相手と結婚しなくてはいけない」らしい。 ※アルファポリスのみの公開です。

処理中です...