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1巻

1-3

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「で? こんなにも朝早くにうちのシフィルを訪ねてきた理由は何? くだらない理由なら、二度と我が家の門はくぐらせないわよ」
「そんなに怒らないでくれ、ローシェ。きみはもうすぐ俺の義妹になるんだから」
「義妹……ですって?」

 目を見開いたローシェに、エルヴィンは大きくうなずいてみせる。幸せでついにやにやとしてしまう口元を隠すように手で押さえ、表情を整えてエルヴィンはローシェをまっすぐ見つめた。

「そう。さっきシフィルにプロポーズをして、受け入れてもらえたんだ」 
「嘘、本当に? シフィルがあなたのプロポーズにうなずいたの?」

 信じられないとつぶやいたローシェとは対照的に、エルヴィンは上機嫌で先程のシフィルを思い返していた。
 昨日の夜会での着飾った彼女も輝くばかりに美しかったけれど、今朝の彼女もやはり可愛かった。
 朝が弱い彼女のまだ少し眠たそうな表情が見られたのは嬉しかったし、落ち着いた濃紺のワンピース姿もとても似合っていた。彼女が身動きするたびにさらさらと揺れるまっすぐな長い髪は、いつだって綺麗でうっとりと見惚みとれてしまう。あのつややかな髪に触れたい、指を絡めて口づけてみたいと何度思ったことだろう。
 可愛らしいものが大好きな彼女のために選んだ指輪は、シフィルの細い指にあつらえたようにぴったりだった。台座にリボンがついたデザインをシフィルも気に入ったのか、じっと見つめていたのが可愛かった。
 結婚を受け入れると言った彼女が浮かべた優しい微笑みは、一瞬呼吸が止まるほどに綺麗だった。その上、ほっそりとした手のなめらかな感触は、思わずそのまま甲に口づけてしまいたくなるほどにエルヴィンの心を揺さぶった。
 幼い頃からシフィルは、エルヴィンにとって唯一のお姫様。まるで百合ゆりの花のようにりんとまっすぐに立つ彼女は、気高く美しい。だがひとたび笑顔になると、シフィルはふわりと柔らかな空気をまとうのだ。あの笑顔を自分だけに向けてもらえたなら、どれほど幸せだろうか。
 可愛くて綺麗なシフィルが自分の妻になるのだと思うと、それだけで叫び出したくなるほどの喜びが全身を駆け巡る。
 少し強引な手段で騙すように祝福をもらったことは申し訳なく思うが、これから先は何があってもシフィルを幸せにすると心に決めている。

余韻よいんひたるのはいいんだけど、クールな騎士様の面影おもかげが消え失せてるわよ、エルヴィン」

 呆れたようなローシェの声に、エルヴィンはハッとしてまばたきをする。緩んだ頬を隠すために横を向いて、誤魔化すように咳払いをしてみるものの、ローシェの視線は冷たいままだ。

「まったく、あなたは変な人ね、エルヴィン。いつもはほとんど無表情なくせに、シフィルが絡むと途端に表情がコロコロと変わるんだから」
「それは……、シフィルの前では緊張してしまうから」

 エルヴィンはため息をついて唇を噛んだ。もともとあまり表情豊かな方ではないが、シフィルを前にすると緊張でよりこわばってしまうのだ。その時の自分がどんな顔をしているのかは鏡を見たことがないので分からないが、とても不機嫌そうで怖いらしい。ローシェに言わせると、まるで親でも殺されたかのような顔、なのだそうだ。
 子供の頃から大好きなシフィルにそんな顔を向けて申し訳ないと思うものの、彼女の前では挙動不審になってしまうし、表情だって硬くなってしまう。

「もう少しまともな表情ができるようにならないと、幸せな式にならないんじゃない? まるで望まない結婚のような顔をしてるもの」

 ローシェの言葉に、エルヴィンは更にうなだれた。プロポーズは受け入れてもらったが、挙式を拒否されたことを思い出したのだ。

「それが、シフィルには式を挙げないと言われてしまった……」
「はぁ? 意味が分からないんだけど。どういうこと?」
「俺に聞かれても、分からないって……。シフィルに似合いそうなドレスだって、色々と見繕っていたのに。そうだ、ローシェからシフィルに何とか言ってくれないか? いや、無理むりいするつもりはないんだけど、やっぱりシフィルのドレス姿を見たいと思う気持ちはあって……。だって、間違いなく綺麗だろう」
「プロポーズを受け入れてもらう前からドレスを見繕ってるあたりが、そこはかとなく重たくて嫌だけど、まぁそれは置いておいて。ちょっとあなたとシフィルの間の意思疎通に、何か問題がありそうな気がしてきたわ。エルヴィンはちゃんとシフィルに好きだって伝えたのよね? その上でプロポーズをしたのよね?」

 眉をひそめて頭を抱えるローシェの問いに、エルヴィンは首をかしげた。

「俺はシフィルが欲しいんだ、と言ったらうなずいてくれたから、伝わってると思うんだが」
「そんな遠回しの言葉で、シフィルに伝わるわけがないでしょう!」

 イライラが最高潮に達したのか、地面を踏み鳴らしてローシェは小さく叫ぶ。

「緊張してこんな顔になってしまうけど、本当はちゃんとシフィルのことが好きなんだと、伝えなさいよ。あなたのその顔で迫られたら、シフィルだって怯えて断れないわよ」
「そう……なのか」

 やはりこの顔に怯えて、シフィルは結婚を承諾したのだろうか。優しく微笑んでうなずいてくれたと思ったのに。
 そういえば、夫婦のいとなみを拒否するとも言われた。手を握るくらいは許容範囲だろうか。夫婦となっても、キスもハグもできないのだろうか。というか、何故拒否されたのだろう。もしかして生理的に無理とか、そういうことだろうか。
 一気にずんと落ち込んでその場にしゃがんだエルヴィンに、ローシェのため息が降ってくる。

「エルヴィンの気持ちは、あなた自身が伝えないとシフィルには届かないのよ。しっかりと真摯しんしに向き合って、まっすぐに想いを伝えてあげて。エルヴィンならシフィルを幸せにしてくれると信じてるから、わたしはあなたを認めたのよ。もしもシフィルを泣かせるようなことがあれば、それこそマリウス様の手を借りてでもあなたを全力で排除するわよ」

 なぐさめなのか脅しなのか分からない言葉に、エルヴィンは神妙な表情でうなずきつつ立ち上がった。姉のことを何よりも大切に思っているローシェは、シフィルが絡むと時々過激になる。そのおかげでシフィルは変な男に絡まれることなく今まで過ごしてこられたのだが、絶対に敵に回したくない相手でもある。

「シフィルを泣かせるはずないだろう。誰よりも幸せにしたい人なのに」
「だから、それをわたしじゃなくてシフィル本人に伝えなさいよ」
「分かってるって……」

 頭では理解していても、シフィルの前では緊張で言葉が出なくなるのだ。もともと口下手であるから、なおさら自分の想いを言葉にするのが難しい。

「まぁ、黙って遠くから見てるだけだったエルヴィンがシフィルにプロポーズしたのは、大きな前進だと思うけど。その勢いで、ちゃんと気持ちを言葉にしてあげて」
「そうだな、頑張る……」

 まずは鏡の前で笑顔の練習から始めるべきかもしれないと考えつつ、エルヴィンはうなずいた。
 とにかくプロポーズは受け入れてもらえたのだから、結婚してもいいと思う程度には好かれているはずだ。嫌われてはいないと信じたい。多分。
 ローシェが反対しないということは、きっとまだ望みはある。
 女神の祝福がどうか味方をしてくれますようにと、エルヴィンは祈るように手を組んだ。


   ■ 孤独な新婚生活


 エルヴィンのプロポーズを条件つきで受け入れてから半月。あっという間に話は進んでいった。きっとエルヴィンも、シフィルの気持ちが変わらないうちに事を進めたかったのだろう。
 式を挙げないため、必要な手続きは婚姻の届けを出すだけだ。書類一枚で、今日からシフィルはエルヴィンの妻となる。
 挙式に関する準備が必要ない分、シフィルがすべきことは新しい生活のための準備のみ。甘い気持ちになったり幸せな雰囲気を漂わせたりすることもなく、ほとんど単なる引っ越しのような気分で、シフィルは淡々と荷造りをこなした。


「シフィル、寂しくなるわ。エルヴィンは大切にしてくれるでしょうけど、何かあったらいつでも帰ってきてね」

 ローシェが、涙ぐみながら抱きついてくる。大好きな可愛い妹と離れ離れになることが、一番辛いかもしれないとシフィルは思う。新居はここからそう離れた場所ではないけれど、それでも毎日会えなくなるのは寂しい。

「ローシェも、いつでも遊びに来て」
「やぁね、新婚家庭にお邪魔するなんて、気まずいわ」
「新婚って言っても、世間一般の新婚とは違うし……」
おさな馴染なじみだと、ずっと一緒だからあまり変わらない気はするわね、確かに」

 ローシェが、くすくすと笑いながらうなずく。これが愛のない結婚であることは、彼女に告げるつもりはない。きっと、心配させるだけだから。彼女の代わりとしてとつぐなんて、決してローシェに知られてはならない。

「幸せになってね、シフィル」

 涙をぬぐいながら告げるローシェに、シフィルは笑ってうなずいてみせる。

「ありがとう、ローシェ」
「エルヴィンを、信じてあげて。不器用な人だけど、エルヴィンは誰よりもシフィルのことが好きよ」

 まっすぐな瞳で見上げるローシェに、シフィルの胸がずきりと痛む。ローシェの目には、そう見えるのだろうか。優しく無垢むくな妹は、人を疑うことを知らない。
 だけど、今更それを否定したところで、彼女を心配させるだけだ。
 ローシェの前だけではずっと幸せな姿を見せようと決めて、シフィルは笑って可愛い妹を抱き寄せた。


 今日からエルヴィンと暮らす新居は、王城にほど近い閑静かんせいな住宅街の一角にある。彼の仕事を考えると、城にすぐ駆けつけられる距離に住むことは重要だ。
 エルヴィンの叔父にあたる人がかつて住んでいたというその小さな屋敷は少し古いものの、綺麗に手入れされていて住み心地は良さそうだ。
 さほど多くない荷物を運び込み、シフィルは部屋の中を見回す。クロゼットには色鮮やかなドレスがたくさん並んでいて、そのほとんどはエルヴィンが婚約期間にプレゼントしてくれたものだ。
 シフィルの気持ちが変わることを危惧したのか、エルヴィンは毎日やってきては様々な贈り物をしてくれた。
 急な結婚話に最初は驚いていた両親も、毎日綺麗な花束と共に贈り物をたずさえてやってくるエルヴィンにあっという間にほだされた。もともとおさな馴染なじみである彼のことを両親は気に入っていたし、客観的に見ても容姿端麗で騎士として優秀なエルヴィンは、非の打ち所がない相手だ。シフィルの母親とエルヴィンの母親は昔から仲が良く、二人が大きくなったら結婚すればいいのにと夢見ていたので、まさか本当になるなんてと大喜びしていたくらいだ。
 式を挙げないことは残念がっていたけれど、エルヴィンの仕事が忙しくて時間が取れないのだと言い訳すると、双方の両親も一応納得してくれた。
 クロゼットの中をいろどる、春の花々を思わせる華やかなドレスたちは、どれも可愛らしいデザインのものばかり。レースやフリル、リボンなどが好きなシフィルは、それを見るたびに心を躍らせる。だけど同時に重たいため息も漏らしてしまう。だってこんな可愛らしい服、自分には似合わないから。
 まるで、これを着てローシェのように振る舞えとエルヴィンに言われているような気がする。
 ――こんなことで傷ついてたら、この先やっていけないわ。
 沈みかけた気持ちを追い払おうと、シフィルは首を振った。

「シフィル」

 その時うしろから声をかけられて、シフィルはびくりと身体を震わせた。

「なぁに、エルヴィン」

 慌てて笑みを浮かべて振り返ると、またエルヴィンの眉間に皺が寄った。へらへらと笑うな、ということだろうか。
 一瞬ずきりと痛んだ胸を、シフィルは誤魔化すように押さえる。
 エルヴィンは部屋の中を見回したあと、小さく首をかしげた。

「いや、あの、荷物の片付けを手伝おうと思ったんだが」
「あぁ、ありがとう。でも、もうほとんど終わったから、大丈夫よ」
「そうか。なら、下のテラスでお茶を飲まないか。菓子を、もらったから」
「いい、けど」

 思いがけないエルヴィンからの誘いに、シフィルは戸惑いつつうなずく。彼なりに、シフィルと少しは良い関係を築こうと考えているのだろうか。

「じゃあ、行こうか」

 そう言って、エルヴィンの手がエスコートするようにシフィルの腰に添えられた。驚いて見上げると、やはり不機嫌そうな目がこちらを見ていてシフィルは黙ってうつむく。
 結局エルヴィンの手は離れていき、二人は無言で歩き出した。

 日当たりの良いテラスに出て、二人は向かい合って座った。
 ぽかぽかとあたたかい日差しは気持ちが良いし、庭の花壇も綺麗に手入れされていて美しい。
 テーブルの上には、シフィルがれた紅茶とエルヴィンが結婚祝いにもらったのだという可愛らしい焼き菓子。
 それだけ見れば、新婚夫婦の仲睦なかむつまじいお茶の時間だ。
 だけど、目の前に座る人は不機嫌な顔でテーブルの隅をずっとにらんでいる。正確に言えば、シフィルの右手に一番近い角を。
 シフィルは、ため息をつきたい気持ちを紅茶と一緒に飲み干した。
 エルヴィンは時折カップに口をつけながらも、ずっと険しい表情でテーブルの隅をにらみつけている。その視線の強さにそのうちテーブルが割れてしまうのではないかと馬鹿げたことを考えつつ、シフィルはエルヴィンの眉間の皺をなんとなく見つめていた。
 ――そんな顔するのなら、無理にお茶に誘ってくれなくてもいいのに。
 そう思いながらも沈黙に耐えかねて、シフィルはカップを置くとエルヴィンに声をかけた。

「お茶、口に合わなかったかしら」

 その言葉に、エルヴィンが驚いたような表情でテーブルから視線を外してこちらを見る。目が合った瞬間に嫌そうに目をすがめられて、またシフィルの胸がずきりと痛んだ。

「……いや、とても美味しいと思う。ありがとう」

 そんな感情のこもらない声で言われても、と思いつつ、シフィルはうなずいた。

「このブレンド、ローシェが結婚祝いにくれたの。ほら、薔薇ばらの花が入っているから見た目も可愛いし、甘い香りがするでしょう」
「そう、なのか」

 確認するようにエルヴィンはガラス製のティーポットを見つめ、次いでカップに鼻を近づける。そして、微かな笑みを浮かべた。

「確かに、甘い香りがするな」

 ローシェの名前を出した途端に緩んだ表情を見て、シフィルは自分で言っておきながら傷つく弱い心に内心でため息をつく。
 もっと強くならなければ。
 そう決意して、シフィルはそっと拳を握りしめた。


   ◇◆◇


 そして夜。少し明かりを落とした部屋の中で、シフィルはどくどくとすごい勢いで打つ鼓動に動揺しながらベッドの隅に腰かけていた。
 二人でお茶をしたあと、エルヴィンは仕事をすると言って部屋にこもっていた。きっと持ち帰りの書類仕事が多いのだと思いたいけれど、シフィルと顔を合わせたくないというのが本音なのだろう。
 夕食は一緒に食べたもののやはり会話もなく、そそくさと食事を終えたエルヴィンは、また仕事をすると言って部屋に戻ってしまった。
 顔を合わせても話すことはないし、あんな風に不機嫌そうにされるのなら遠くから見つめるくらいがちょうどいい。
 だけど、夜はそうもいかないだろう。夫婦のいとなみをしないことは決めているけれど、きっとエルヴィンもこの部屋で眠るはずだ。ベッドは、ここにしかないのだから。
 大きな天蓋てんがいつきのベッドは白いレースがふんだんに使われていて、子供の頃に絵本で読んだお姫様が眠っていたもののようだ。こんな可愛らしいベッドでエルヴィンが眠ることを想像すると、少しだけおかしい。
 このベッドは広いから二人が十分離れて眠れるだろうけど、それでもエルヴィンとこんなに近くで過ごすのは子供の頃以来だ。シフィルは速くなった鼓動を落ち着かせるように、深呼吸をした。
 初夜とはいえ、シフィルの夜着は普段と変わらない露出のないもの。
 それでもやっぱりどこか落ち着かなくて、シフィルはまるでため息のような深呼吸を何度も繰り返している。


 静かな部屋に、時計の針が動く音だけが響く。
 どれほど待っただろうか。
 そろそろ真夜中に差しかかる頃だけど、エルヴィンは来ない。
 あぁそうかと、シフィルは重たくなった胸を押さえてため息をついた。
 きっとエルヴィンは、シフィルと一緒に眠るつもりはないのだろう。
 まだきちんと整えていないけれど一階に来客用の部屋があるし、そこで眠るつもりなのかもしれない。それとも、自室のソファか。
 夫婦のいとなみをしないと宣言をしたのはシフィルだし、同じ部屋で眠る必要もないと考えたのだろう。

「……考えてみれば、当たり前よね。何を期待してたのかしら、私」

 夫婦になったのだから、たとえ行為がなくても眠るのは一緒だろうと勘違いした自分が恥ずかしい。
 そもそも嫌いな相手と、同じ部屋で眠るわけがないのに。
 勝手に期待して、勝手に打ちのめされる心に苦笑して、シフィルはベッドにごろりと転がった。
 一人で眠るには広すぎるこのベッドだけど、寝返りはうち放題だな、と無理矢理に前向きなことを考える。
 明日からは大きなぬいぐるみでも持ち込もうと決めて、シフィルは毛布をかぶって目を閉じた。


「シフィル」

 ささやくような声で名前を呼ばれた気がして、眠りの底にあった意識がゆっくりと浮上していく。
 ふわりと頭を撫でられて、その感覚に幸せな気持ちになる。
 優しく名前を呼んだのは、エルヴィンの声。都合のいい夢を見ていたなと思いながら、シフィルはぼんやりと目を開けた。

「すまない、起こしたか」

 目の前にあるのは、エルヴィンの顔。その眉間にはやっぱり深い皺が刻まれていて、酷く不機嫌そうだ。

「あ……、ごめんなさい。エルヴィンは別の部屋で休むと思っていたから、先に寝てしまっていたわ」

 シフィルは、慌てて身体を起こしてエルヴィンに場所を譲るべく、ベッドの端へと移動する。どうせ一人だと思っていたから、ベッドのど真ん中で寝てしまっていた。

「いや、遅くなったのは俺の方だし、待ってもらわなくて構わない」

 そう言ってエルヴィンは、眉根を寄せたままシフィルを見下ろしている。

「……一緒に、寝ても?」

 絞り出すような声で問われて、シフィルは黙ってうなずく。こんなに嫌そうなのに、それでも夫婦は同じベッドで寝るべきだと生真面目に考えているのだろうか。
 警戒しつつ、といった様子でベッドに上がったエルヴィンは、シフィルと距離を取るように端の方に横になる。ご丁寧に背まで向けられた。

「夜中に起こしてすまなかった。シフィルも、休んでくれ」
「……おやすみなさい」

 こちらに視線を向けることなく告げられた言葉は平坦な冷たい響きをしていて、先程シフィルの名前を呼んだあの優しい声は、やはり夢だったのだと胸が痛む。
 こんなことなら、ずっと幸せな夢の中にいたかったのに。
 まるで拒絶するような広い背中が視界に入ることが耐えられなくて、シフィルもエルヴィンに背を向けた。


 眠れないまま、どれほどの時間が経っただろう。
 突然、大きなため息をついてエルヴィンが身体を起こした。不機嫌そうに何やら毒づく声まで聞こえて、シフィルは身体を硬くして寝たふりをする。
 エルヴィンは、苛立った様子でがしがしと頭をかくと、立ち上がって部屋を出ていった。扉の閉まる音が、冷たく響く。
 やはり、一緒に眠るのが嫌だったのだろうか。
 どうして、こんなにもエルヴィンに嫌われるのだろう。
 何度も繰り返した疑問が、また浮かぶ。
 そばにいられるなら、愛されなくても構わないと思っていた。こういうことになるだろうと、覚悟もしていたつもりだった。
 だけど、胸が締めつけられるように苦しい。初日からこんな調子で、この先耐えられるだろうか。
 シフィルは込み上げてきた涙をこらえて、強く手を握りしめた。
 ――自分で決めたことよ。絶対に、泣かない。
 こんなにも嫌われているけれど、シフィルはエルヴィンのことが好きなのだから。
 彼のそばにいるのは自分だ。この場所は、誰にも譲らない。
 シフィルは、唇を噛みしめて震える身体をなだめる。
 一瞬でも二人で眠ったベッドは、一人になるとその広さが際立って辛い。
 せめて夢の中では、さっきのようにエルヴィンが優しく名前を呼んでくれますようにと祈りながら、シフィルは目を閉じた。
 祈りが通じたのか、そのあと見た夢ではエルヴィンにまた優しく頭を撫でてもらった気がした。


 翌朝、目覚めた時にやはりエルヴィンの姿はなく、シフィルはのろのろと身体を起こすと着替え始めた。
 きっと、今夜からは寝室を別にすることになるだろう。
 朝食の席でも、エルヴィンは相変わらずテーブルの隅をにらみつけていた。もしかしたらそこに何かあるのだろうかと確認したが、染みひとつないので、恐らくシフィルの代わりにテーブルをにらみつけているのだろうと思うことにする。
 まるで、目に見えない印でもついているかのように同じ場所をにらむので、あぁまたかと、シフィルは乾いた笑みを浮かべた。
 カトラリーが食器に触れる音が時折響く以外は、会話もなく静かだ。
 こっそりとうかがったエルヴィンの表情は険しく、少し目の下にくまができている気がする。昨夜は遅くまで仕事をしていたようだし、その上途中で眠る場所まで変えたのだから、疲れがとれていないのかもしれない。
 食事が終わる頃、エルヴィンがふと手を止めてシフィルを見た。

「そういえば今日の夕食、だけど」

 まるで深刻なニュースを告げるような表情で、エルヴィンが口を開く。シフィルは、戸惑いつつも黙って続きを待つ。

「シフィルさえ良ければ、外に食べに行かないか」
「外に……」

 目をしばたたいてシフィルは首をかしげた。同じベッドで眠ることすら嫌な相手と、わざわざ出かけようとするエルヴィンの考えが分からない。
 言葉に詰まるシフィルを見て乗り気でないと判断したのか、エルヴィンの眉間の皺が深くなった。

「いやあの、別に無理にとは言わないが」
「そんなことないわ。……楽しみにしてる」

 慌ててシフィルがうなずくと、エルヴィンは少しだけほっとしたような表情を浮かべた。


   ◇◆◇


 夕方、シフィルは何度も鏡の前とクロゼットをうろうろと往復していた。
 せっかくのお出かけだし、外で誰かに会うかもしれないし、と独りごちながら、何を着ようかと頭を悩ませる。           
 彼が声をかけてくれた理由は分からないけれど、初めて二人での外出なのだから。
 昨夜あんなことがあったのに、それでもほんの少しだけシフィルは浮かれていた。

「やっぱり、これにしよう」

 つぶやいて、シフィルは淡い水色のドレスを手に取る。
 婚約期間中にエルヴィンから贈られたそのドレスは、繊細なチュールの上にレースでできた花がちりばめられた可憐なデザイン。きっとローシェにはよく似合うだろうと思いかけて、シフィルはそれを振り払うように目を閉じた。
 わざわざ自分で傷つく必要はない。
 ドレスに着替えて、シフィルは鏡の前に立った。

「……笑顔、笑顔」

 言い聞かせるようにつぶやいて、シフィルは両手で口角を上げる。似合うかどうかはさておき、可愛らしいドレスを着るとやはり少しだけ心が躍る。
 だけど髪を巻かないのは、自分はローシェではないのだとアピールするための、せめてもの悪あがき。
 もう一度鏡の中の自分をチェックして、シフィルはくるりと身をひるがえして部屋を出た。


 エルヴィンが連れていってくれたのは、落ち着いた雰囲気のレストランだった。背の高い観葉植物が程よく目隠しになって他の客の姿が見えにくく、二人きりのように錯覚しそうだ。
 シフィルはじっと、向かいに座るエルヴィンの表情を観察する。
 場所が変わっても、彼は相変わらずテーブルの隅をにらんでいる。


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