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決意と覚悟(イーヴ視点)
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仕事をしていたイーヴは、部屋を訪ねてきた珍しい来客に思わず眉を上げた。
「エルフェ、どうした?」
シェイラの身の回りの世話を任せている彼女は、レジスの遠縁の娘だ。見た目が怖いイーヴのもとで働きたがる女性は少ない上に、あわよくば見初められて青竜の長の妻の地位に座りたいなんて言い出さないエルフェのことを、イーヴはかなり信用している。
働き者で世話好きの彼女はシェイラともすぐに打ち解けてくれたし、シェイラの生い立ちを我がことのように悲しんでくれる優しい女性だ。
そんなエルフェが深刻な表情でイーヴを訪ねてくるとなれば、何か良くない事態が起きているとイーヴが警戒するのも当然のことだ。
ペンを置いて身を乗り出したイーヴを見て、エルフェは一度唇を噛むと思いきったように顔を上げた。
「シェイラ様は、何かを思い悩んでいらっしゃるようです。昨晩からほとんど眠れていないようですし、目が腫れていたのは泣いていたからかと。お食事も、昨晩から何も口にしていらっしゃいませんし……」
まるで彼女自身も苦しんでいるかのような表情を浮かべて、エルフェはシェイラの様子を伝える。
泣きすぎて赤く腫れた目蓋に、くっきりと浮いた隈。
寝不足なのだと笑って見せる表情すら、無理していると分かるほどに痛々しいものだった。
昨晩イーヴが持って行ったスープも手をつけた様子がなく、それなのに朝食も昼食もいらないと言う。
「悩みって……」
エルフェの話した内容に、イーヴは眉を顰めた。
昨日、昼食を食べるまでは普段と変わった様子はなかった。アルバンの作る食事はいつも美味しいと、幸せそうに笑っていたのを覚えている。その後イーヴは仕事をするために自室に籠り、シェイラはルベリアと会う約束をしていたはずだ。
「……でも、何かあればルベリアが黙ってるはずないしな」
腕を組んで、イーヴは独り言のようにつぶやく。溺愛という言葉がぴったりなほどにシェイラを可愛がっているルベリアは、もしも彼女に何かあったら大騒ぎでイーヴにも連絡をしてくるだろう。
だけど、疲れたから早めに休みたいと自室で眠ったシェイラに微かな違和感を覚えたことをイーヴは思い出した。眠いからと顔を見せてくれなかったのは、泣いているのを隠すためだったのだろうか。毛布越しの声は、いつもと変わらぬ明るい声をしていたように思ったのに。
「シェイラ様は何でもない、大丈夫だからと仰って、何も教えてはくれませんでしたけど……」
エルフェはため息をついてうつむいた。頑なに平気だと言い張るので無理に聞き出すこともできず、それでも放っておくことなどできなくてイーヴに報告に来たのだという。
一体シェイラに何があったのだろう。困惑した気持ちのまますぐそばのレジスを見上げると、彼は厳しい表情で小さくうなずいた。
「とにかくエルフェは、シェイラ様のおそばに控えていなさい。何かあればすぐに私かイーヴ様に連絡を」
「かしこまりました」
一礼して部屋を出ていくエルフェを見送って、イーヴは苦い表情でレジスを見た。同じように険しい顔をした彼は、唇を引き結ぶと一度首を振った。
「イーヴ様、何度も申し上げますが、シェイラ様はあの方とは違う」
「だけど……っ」
レジスの言葉に、イーヴは思わず立ち上がった。握りしめた拳が、知らず震える。
あの時もそうだった。シェイラと同じようにラグノリアから迎えた花嫁。彼女も最初は怯えていたものの、次第に穏やかな笑みを見せてくれるようになり、イーヴ達に打ち解けてくれたと思っていた。
だけど、彼女は死んだ。食事を受けつけなくなり、みるみるうちに瘦せ細って、まるで枯れ木のようになって。
ドレージアの食事が合わないのか、それとも空気が合わないのかと医師に見せるも、身体はどこにも異常がなかった。それなのに痩せていく彼女が心配で、毎日のように見舞っていたイーヴの行動が彼女を苦しめていたなんて、思いもしなかった。
本当はずっと竜族が怖かったと最期に彼女が漏らした言葉は、今も忘れることができない。縁あってイーヴのもとに来たのだから、ただ幸せに暮らしてほしかっただけなのに。
シェイラも心の中ではイーヴに、竜族に怯えているのではないか。ずっと振り払うことのできなかったその思いが、じわじわと胸の奥を侵食していく。
「……俺は、顔を出さない方がいいのだろうか」
ぽつりとつぶやくと、レジスが首を振った。
「そんなはずはありません。まずはシェイラ様がどんな悩みを抱えているのか知ることでしょう。その役目は、夫であるあなたのものだと思いますよ、イーヴ様」
レジスの言葉に、イーヴはうなずいた。
シェイラの前では必死に線引きをしていたけれど、無邪気にまっすぐに想いを伝えてくれる彼女にイーヴはとっくに心を奪われている。このまま、シェイラを失うなんて耐えられない。
押し込めていた想いがあふれ出すのを感じながら、イーヴはシェイラの部屋へと向かった。いい加減覚悟を決めて、彼女の気持ちを受け入れるべきだ。形だけの花嫁だなんて口では言っておきながら、イーヴはシェイラを手放す気はないのだから。
そのためにはまず、彼女の表情を曇らせる原因が何なのかを知らなければならない。シェイラにはいつも、幸せに笑っていてほしいのだ。できることなら自分のそばで。
半ば走るような勢いで、イーヴは廊下を急いだ。
「エルフェ、どうした?」
シェイラの身の回りの世話を任せている彼女は、レジスの遠縁の娘だ。見た目が怖いイーヴのもとで働きたがる女性は少ない上に、あわよくば見初められて青竜の長の妻の地位に座りたいなんて言い出さないエルフェのことを、イーヴはかなり信用している。
働き者で世話好きの彼女はシェイラともすぐに打ち解けてくれたし、シェイラの生い立ちを我がことのように悲しんでくれる優しい女性だ。
そんなエルフェが深刻な表情でイーヴを訪ねてくるとなれば、何か良くない事態が起きているとイーヴが警戒するのも当然のことだ。
ペンを置いて身を乗り出したイーヴを見て、エルフェは一度唇を噛むと思いきったように顔を上げた。
「シェイラ様は、何かを思い悩んでいらっしゃるようです。昨晩からほとんど眠れていないようですし、目が腫れていたのは泣いていたからかと。お食事も、昨晩から何も口にしていらっしゃいませんし……」
まるで彼女自身も苦しんでいるかのような表情を浮かべて、エルフェはシェイラの様子を伝える。
泣きすぎて赤く腫れた目蓋に、くっきりと浮いた隈。
寝不足なのだと笑って見せる表情すら、無理していると分かるほどに痛々しいものだった。
昨晩イーヴが持って行ったスープも手をつけた様子がなく、それなのに朝食も昼食もいらないと言う。
「悩みって……」
エルフェの話した内容に、イーヴは眉を顰めた。
昨日、昼食を食べるまでは普段と変わった様子はなかった。アルバンの作る食事はいつも美味しいと、幸せそうに笑っていたのを覚えている。その後イーヴは仕事をするために自室に籠り、シェイラはルベリアと会う約束をしていたはずだ。
「……でも、何かあればルベリアが黙ってるはずないしな」
腕を組んで、イーヴは独り言のようにつぶやく。溺愛という言葉がぴったりなほどにシェイラを可愛がっているルベリアは、もしも彼女に何かあったら大騒ぎでイーヴにも連絡をしてくるだろう。
だけど、疲れたから早めに休みたいと自室で眠ったシェイラに微かな違和感を覚えたことをイーヴは思い出した。眠いからと顔を見せてくれなかったのは、泣いているのを隠すためだったのだろうか。毛布越しの声は、いつもと変わらぬ明るい声をしていたように思ったのに。
「シェイラ様は何でもない、大丈夫だからと仰って、何も教えてはくれませんでしたけど……」
エルフェはため息をついてうつむいた。頑なに平気だと言い張るので無理に聞き出すこともできず、それでも放っておくことなどできなくてイーヴに報告に来たのだという。
一体シェイラに何があったのだろう。困惑した気持ちのまますぐそばのレジスを見上げると、彼は厳しい表情で小さくうなずいた。
「とにかくエルフェは、シェイラ様のおそばに控えていなさい。何かあればすぐに私かイーヴ様に連絡を」
「かしこまりました」
一礼して部屋を出ていくエルフェを見送って、イーヴは苦い表情でレジスを見た。同じように険しい顔をした彼は、唇を引き結ぶと一度首を振った。
「イーヴ様、何度も申し上げますが、シェイラ様はあの方とは違う」
「だけど……っ」
レジスの言葉に、イーヴは思わず立ち上がった。握りしめた拳が、知らず震える。
あの時もそうだった。シェイラと同じようにラグノリアから迎えた花嫁。彼女も最初は怯えていたものの、次第に穏やかな笑みを見せてくれるようになり、イーヴ達に打ち解けてくれたと思っていた。
だけど、彼女は死んだ。食事を受けつけなくなり、みるみるうちに瘦せ細って、まるで枯れ木のようになって。
ドレージアの食事が合わないのか、それとも空気が合わないのかと医師に見せるも、身体はどこにも異常がなかった。それなのに痩せていく彼女が心配で、毎日のように見舞っていたイーヴの行動が彼女を苦しめていたなんて、思いもしなかった。
本当はずっと竜族が怖かったと最期に彼女が漏らした言葉は、今も忘れることができない。縁あってイーヴのもとに来たのだから、ただ幸せに暮らしてほしかっただけなのに。
シェイラも心の中ではイーヴに、竜族に怯えているのではないか。ずっと振り払うことのできなかったその思いが、じわじわと胸の奥を侵食していく。
「……俺は、顔を出さない方がいいのだろうか」
ぽつりとつぶやくと、レジスが首を振った。
「そんなはずはありません。まずはシェイラ様がどんな悩みを抱えているのか知ることでしょう。その役目は、夫であるあなたのものだと思いますよ、イーヴ様」
レジスの言葉に、イーヴはうなずいた。
シェイラの前では必死に線引きをしていたけれど、無邪気にまっすぐに想いを伝えてくれる彼女にイーヴはとっくに心を奪われている。このまま、シェイラを失うなんて耐えられない。
押し込めていた想いがあふれ出すのを感じながら、イーヴはシェイラの部屋へと向かった。いい加減覚悟を決めて、彼女の気持ちを受け入れるべきだ。形だけの花嫁だなんて口では言っておきながら、イーヴはシェイラを手放す気はないのだから。
そのためにはまず、彼女の表情を曇らせる原因が何なのかを知らなければならない。シェイラにはいつも、幸せに笑っていてほしいのだ。できることなら自分のそばで。
半ば走るような勢いで、イーヴは廊下を急いだ。
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