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彼女と彼女のこと(イーヴ視点)
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レジスが部屋を出て行ったあと、イーヴはぼんやりと窓の外を見つめながら胸元の鱗に触れた。
竜族にとって、胸元の鱗は大切なものだ。心臓に近い場所にあるため、鱗に触れさせるのは心から気を許した相手のみ。あなたの鱗に触れたいというのが竜族にとって口説き文句のひとつになっているくらいだし、求愛の証として自らの鱗から作ったアクセサリーを贈ることだってある。
竜族のことをよく知らないシェイラが鱗に触れたことに、きっと理由なんてない。単に綺麗だと褒めてくれたその鱗に触ってみたかっただけなのだろう。
だけどイーヴはそれが嬉しくて、もっと触れてほしいとすら思った。無邪気に笑って竜の姿も素敵だと褒めてくれた彼女にもう一度空を飛びたいと言われたから、それを全力で叶えてやりたくなった。
イーヴのすること全てに、嬉しそうな笑顔で応えてくれるシェイラ。あの笑顔を曇らせるようなことは、決してしてはならない。
「……そう、シェイラはあの子とは違う。……違うんだ」
拳を握りしめて、イーヴはつぶやいた。脳裏によぎるのは、イーヴの姿を見るたびにびくりと怯えたように身体を震わせて、丸い瞳をいつも潤ませていた彼女。シェイラの前にラグノリアから迎えた花嫁だった彼女は、ひたすらに竜族に、イーヴに怯えていた。
平気だからと無理して笑う痛々しい表情も、どんどん痩せこけていくその身体も、イーヴは忘れることができない。
シェイラには、同じようになってほしくない。だからイーヴは、シェイラとの接触は最小限にしておくつもりだった。イーヴにできるのは、シェイラに居心地の良い環境を与えて何不自由なく寿命を全うさせることだけ。そう思っていたのに。
ソファの上で大きなため息を落としたイーヴの耳に、軽やかなノックの音が響く。
「イーヴ、お邪魔してもいいですか?」
ドアの外から響く明るい声は、シェイラのもの。ルベリアと出かけたと思っていたのだが、帰ってきたようだ。いつの間にか窓の外は夕闇が迫ってきていて、随分と長い間ぼうっとしていたことに気づく。
慌てて応答すると、ドアが開いてシェイラがひょこりと顔をのぞかせた。その顔に怯えは全く見られないものの、イーヴは彼女の顔を見るたびに、その瞳の奥に恐怖や悲しみが隠れていないかと探してしまう。今のところ、それを見つけたことはないけれど。
「イーヴ、お仕事は終わった? もうすぐ夕食の時間ですよ」
「あ、あぁ、もうそんな時間か」
色々と考え込んでいたことを誤魔化すように、イーヴは首を振った。シェイラは弾むような足取りで部屋の中に入ってくると、イーヴの手を掴んだ。躊躇うことなく握られたその小さな手のぬくもりに、思わず息をのむ。
「えへへ、実はね、今日の夕食は私が作ったんです」
「シェイラが……?」
嬉しさを隠しきれないといった表情で、秘密を打ち明けるように耳元でシェイラが囁いた。ソファに座ったイーヴの前にシェイラが立つと、ちょうど顔が同じ高さにくる。
「今朝ね、イーヴが背中に乗せてくれてすごく嬉しかったんです。だからお礼に食事を作れたら素敵だなって思って、アルバンさんにお願いしたの。だって、夫の食事を作るのは妻の役目でしょう?」
きらきらと目を輝かせて、シェイラは調理中の様子を教えてくれる。その生い立ち故に、きっと料理なんてしたこともなかっただろうに、イーヴのためにと頑張ってくれたのだろうか。
身振り手振りを交えて話すシェイラの指先に小さな傷を見つけて、イーヴは思わずその手を掴んでいた。
「……イーヴ?」
「怪我を、してる」
左手の人差し指に、薄っすらと走った赤い線。ナイフで切ったのだろうか。白く柔らかそうな指先に滲む赤は酷く目立って見える。
「あ、やっぱり不慣れだったせいでちょっとだけ切っちゃいました」
「もう血は止まってるみたいだが、念のため包帯を巻いておくか」
薬と包帯を探して立ち上がろうとしたイーヴの前に、シェイラが焦ったように立ちふさがる。
「え、そんな大げさな! 大丈夫ですって、舐めといたら治りますよ、こんな傷」
「それなら」
ほとんど無意識のうちに、イーヴはシェイラの指先に唇を押し当てていた。そしてその小さな傷に向けて保護魔法をかける。
竜族が唯一使うことのできる保護魔法は、地上に住む人間には大いなる力だと捉えられているようだけど、実際のところそれほど役に立つ能力ではない。ドレージアを守るための結界にはその力が使われているものの、竜族なら誰もが持つ力なので珍しくも何ともないのだ。だから竜族が表立ってこの保護魔法を使うのは、かつて世話になったラグノリアを守る時だけだ。
そして、竜族が私的に保護魔法を使うことがひとつだけある。それは大切な相手に捧げるおまじないで、親が子に幸せを祈ってかけるようなものだ。効果を期待してかけるわけではなく、ただ愛しい人の幸せと安全を願うもの。竜族の子は、一度は親から優しい口づけと共に保護魔法をかけてもらったことがあるはずだ。イーヴだって、今は亡き両親からそうして保護魔法をかけてもらったから。
微かに青い光がシェイラの指先を覆い、傷口に吸い込まれるように消えていくのを確認してイーヴは小さくうなずいた。
確認するようにもう一度唇を触れさせて、まだ赤みの残る傷口をなぞるように舌を這わす。もう血は止まっているはずなのに、シェイラの肌は酷く甘い。このままいつまででも舐めていられるかもしれないと思いかけた時、シェイラの悲鳴が耳に届いた。
「……っイーヴ……!」
ハッと我に返って、イーヴは慌てて手を離す。今、自分は何をしていただろう。一体何を考えただろう。
止められなかったら、何をしでかしたか分からない自分が怖くなる。
「っ、悪い、ほらあの、舐めたら治るっていうから」
「ふふ、それは自分で舐めとけばって意味ですよ」
しどろもどろになりながら言い訳をするイーヴを見て、シェイラは小さくふきだした。どうやら、嫌がってはいないことを確認して内心でほっとため息をつく。照れているのか彼女の頬は赤く染まっているけれど、きっとイーヴだって同じくらい真っ赤だ。
「でも、おかげで治ったかも」
とんでもないことをしでかしたはずなのに、シェイラは指を確認してありがとうと笑う。シェイラを守りたいとイーヴは思っているけれど、本当はイーヴの方が彼女の優しさに守られているのかもしれない。
「というわけで、食堂へ行きましょう。イーヴの大好きなお肉料理も、たくさん作ったんだから」
「うん、楽しみだ」
「愛情たっぷり込めたから、きっと美味しいはずです!……味つけは、アルバンさんだけど」
照れたように笑いながら、シェイラがイーヴを見上げる。その笑顔に引き寄せられるように頭を撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「あのね。私、決めたんです」
頭を撫でるイーヴの手に自らの手を重ねて、シェイラは微笑む。まっすぐに見つめる澄んだ青い瞳の奥には、何かを決意したかのような強い光。
「決めた……何を?」
「イーヴの妻として愛されるように、もっと頑張ろうと思います」
「え? 愛さ……」
「形だけの妻なんて、嫌なの。これは、ラグノリアのためじゃなくて、私自身の願い。だからね、イーヴに好きになってもらえるように頑張ります!」
「いや、え? シェイラ、それは……」
思いがけない言葉に動揺するイーヴの手を、シェイラがぐいっと引っ張った。油断していたからかそのまま引き寄せられて、顔が近づく。間近で見つめるシェイラの青い瞳がにっこりと細められたと思った瞬間、頬に柔らかなものが触れた。
ちゅ、と微かな音を響かせて離れて行ったのは、間違いなく彼女の唇。
「絶対にイーヴにも私のことを好きになってもらうので、覚悟しててくださいね!」
照れたように頬を染めたシェイラは、笑顔でそんな宣言をするとくるりと身を翻して部屋から出て行った。耳まで真っ赤だったその横顔を見送って、イーヴは呆然とその場に立ちつくした。
まだ頬に残る柔らかな感触と、彼女の宣言。
人間は庇護すべき存在で、恋愛対象にはならないはずなのに。
イーヴが必死で線引きをしたのに、彼女はあっさりとそれを飛び越えてしまう。
「……本当に、何もかもあの子とは違うな」
ため息まじりにつぶやいて、イーヴは食堂へ向かうべくゆっくりと歩きだした。
シェイラと顔を合わせる前に、にやけたこの顔を何とかしなければ。
竜族にとって、胸元の鱗は大切なものだ。心臓に近い場所にあるため、鱗に触れさせるのは心から気を許した相手のみ。あなたの鱗に触れたいというのが竜族にとって口説き文句のひとつになっているくらいだし、求愛の証として自らの鱗から作ったアクセサリーを贈ることだってある。
竜族のことをよく知らないシェイラが鱗に触れたことに、きっと理由なんてない。単に綺麗だと褒めてくれたその鱗に触ってみたかっただけなのだろう。
だけどイーヴはそれが嬉しくて、もっと触れてほしいとすら思った。無邪気に笑って竜の姿も素敵だと褒めてくれた彼女にもう一度空を飛びたいと言われたから、それを全力で叶えてやりたくなった。
イーヴのすること全てに、嬉しそうな笑顔で応えてくれるシェイラ。あの笑顔を曇らせるようなことは、決してしてはならない。
「……そう、シェイラはあの子とは違う。……違うんだ」
拳を握りしめて、イーヴはつぶやいた。脳裏によぎるのは、イーヴの姿を見るたびにびくりと怯えたように身体を震わせて、丸い瞳をいつも潤ませていた彼女。シェイラの前にラグノリアから迎えた花嫁だった彼女は、ひたすらに竜族に、イーヴに怯えていた。
平気だからと無理して笑う痛々しい表情も、どんどん痩せこけていくその身体も、イーヴは忘れることができない。
シェイラには、同じようになってほしくない。だからイーヴは、シェイラとの接触は最小限にしておくつもりだった。イーヴにできるのは、シェイラに居心地の良い環境を与えて何不自由なく寿命を全うさせることだけ。そう思っていたのに。
ソファの上で大きなため息を落としたイーヴの耳に、軽やかなノックの音が響く。
「イーヴ、お邪魔してもいいですか?」
ドアの外から響く明るい声は、シェイラのもの。ルベリアと出かけたと思っていたのだが、帰ってきたようだ。いつの間にか窓の外は夕闇が迫ってきていて、随分と長い間ぼうっとしていたことに気づく。
慌てて応答すると、ドアが開いてシェイラがひょこりと顔をのぞかせた。その顔に怯えは全く見られないものの、イーヴは彼女の顔を見るたびに、その瞳の奥に恐怖や悲しみが隠れていないかと探してしまう。今のところ、それを見つけたことはないけれど。
「イーヴ、お仕事は終わった? もうすぐ夕食の時間ですよ」
「あ、あぁ、もうそんな時間か」
色々と考え込んでいたことを誤魔化すように、イーヴは首を振った。シェイラは弾むような足取りで部屋の中に入ってくると、イーヴの手を掴んだ。躊躇うことなく握られたその小さな手のぬくもりに、思わず息をのむ。
「えへへ、実はね、今日の夕食は私が作ったんです」
「シェイラが……?」
嬉しさを隠しきれないといった表情で、秘密を打ち明けるように耳元でシェイラが囁いた。ソファに座ったイーヴの前にシェイラが立つと、ちょうど顔が同じ高さにくる。
「今朝ね、イーヴが背中に乗せてくれてすごく嬉しかったんです。だからお礼に食事を作れたら素敵だなって思って、アルバンさんにお願いしたの。だって、夫の食事を作るのは妻の役目でしょう?」
きらきらと目を輝かせて、シェイラは調理中の様子を教えてくれる。その生い立ち故に、きっと料理なんてしたこともなかっただろうに、イーヴのためにと頑張ってくれたのだろうか。
身振り手振りを交えて話すシェイラの指先に小さな傷を見つけて、イーヴは思わずその手を掴んでいた。
「……イーヴ?」
「怪我を、してる」
左手の人差し指に、薄っすらと走った赤い線。ナイフで切ったのだろうか。白く柔らかそうな指先に滲む赤は酷く目立って見える。
「あ、やっぱり不慣れだったせいでちょっとだけ切っちゃいました」
「もう血は止まってるみたいだが、念のため包帯を巻いておくか」
薬と包帯を探して立ち上がろうとしたイーヴの前に、シェイラが焦ったように立ちふさがる。
「え、そんな大げさな! 大丈夫ですって、舐めといたら治りますよ、こんな傷」
「それなら」
ほとんど無意識のうちに、イーヴはシェイラの指先に唇を押し当てていた。そしてその小さな傷に向けて保護魔法をかける。
竜族が唯一使うことのできる保護魔法は、地上に住む人間には大いなる力だと捉えられているようだけど、実際のところそれほど役に立つ能力ではない。ドレージアを守るための結界にはその力が使われているものの、竜族なら誰もが持つ力なので珍しくも何ともないのだ。だから竜族が表立ってこの保護魔法を使うのは、かつて世話になったラグノリアを守る時だけだ。
そして、竜族が私的に保護魔法を使うことがひとつだけある。それは大切な相手に捧げるおまじないで、親が子に幸せを祈ってかけるようなものだ。効果を期待してかけるわけではなく、ただ愛しい人の幸せと安全を願うもの。竜族の子は、一度は親から優しい口づけと共に保護魔法をかけてもらったことがあるはずだ。イーヴだって、今は亡き両親からそうして保護魔法をかけてもらったから。
微かに青い光がシェイラの指先を覆い、傷口に吸い込まれるように消えていくのを確認してイーヴは小さくうなずいた。
確認するようにもう一度唇を触れさせて、まだ赤みの残る傷口をなぞるように舌を這わす。もう血は止まっているはずなのに、シェイラの肌は酷く甘い。このままいつまででも舐めていられるかもしれないと思いかけた時、シェイラの悲鳴が耳に届いた。
「……っイーヴ……!」
ハッと我に返って、イーヴは慌てて手を離す。今、自分は何をしていただろう。一体何を考えただろう。
止められなかったら、何をしでかしたか分からない自分が怖くなる。
「っ、悪い、ほらあの、舐めたら治るっていうから」
「ふふ、それは自分で舐めとけばって意味ですよ」
しどろもどろになりながら言い訳をするイーヴを見て、シェイラは小さくふきだした。どうやら、嫌がってはいないことを確認して内心でほっとため息をつく。照れているのか彼女の頬は赤く染まっているけれど、きっとイーヴだって同じくらい真っ赤だ。
「でも、おかげで治ったかも」
とんでもないことをしでかしたはずなのに、シェイラは指を確認してありがとうと笑う。シェイラを守りたいとイーヴは思っているけれど、本当はイーヴの方が彼女の優しさに守られているのかもしれない。
「というわけで、食堂へ行きましょう。イーヴの大好きなお肉料理も、たくさん作ったんだから」
「うん、楽しみだ」
「愛情たっぷり込めたから、きっと美味しいはずです!……味つけは、アルバンさんだけど」
照れたように笑いながら、シェイラがイーヴを見上げる。その笑顔に引き寄せられるように頭を撫でると、彼女は嬉しそうに目を細めた。
「あのね。私、決めたんです」
頭を撫でるイーヴの手に自らの手を重ねて、シェイラは微笑む。まっすぐに見つめる澄んだ青い瞳の奥には、何かを決意したかのような強い光。
「決めた……何を?」
「イーヴの妻として愛されるように、もっと頑張ろうと思います」
「え? 愛さ……」
「形だけの妻なんて、嫌なの。これは、ラグノリアのためじゃなくて、私自身の願い。だからね、イーヴに好きになってもらえるように頑張ります!」
「いや、え? シェイラ、それは……」
思いがけない言葉に動揺するイーヴの手を、シェイラがぐいっと引っ張った。油断していたからかそのまま引き寄せられて、顔が近づく。間近で見つめるシェイラの青い瞳がにっこりと細められたと思った瞬間、頬に柔らかなものが触れた。
ちゅ、と微かな音を響かせて離れて行ったのは、間違いなく彼女の唇。
「絶対にイーヴにも私のことを好きになってもらうので、覚悟しててくださいね!」
照れたように頬を染めたシェイラは、笑顔でそんな宣言をするとくるりと身を翻して部屋から出て行った。耳まで真っ赤だったその横顔を見送って、イーヴは呆然とその場に立ちつくした。
まだ頬に残る柔らかな感触と、彼女の宣言。
人間は庇護すべき存在で、恋愛対象にはならないはずなのに。
イーヴが必死で線引きをしたのに、彼女はあっさりとそれを飛び越えてしまう。
「……本当に、何もかもあの子とは違うな」
ため息まじりにつぶやいて、イーヴは食堂へ向かうべくゆっくりと歩きだした。
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