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その時、部屋の扉が小さく叩かれた。自分の名前を呼ぶ声に、ザフィルは少し待つよう伝えて立ち上がった。
眠るファテナの身体に掛布をかぶせ、寝台の前に衝立を置いてから扉へと向かう。訪ねてきたのは、ザフィルの側近であるエフラだ。すらりと背の高い彼は、五つほど年下だがザフィルがもっとも信頼する部下の一人だ。
弓の腕に長け、頭の切れる彼は、常にザフィルのそばにいて族長としての仕事を支えてくれている。
「見計らったかのように来るな」
「ちょっと外で待ってました。邪魔しちゃ悪いかなって思ったので」
ザフィルの言葉に、エフラは小さく肩をすくめた。かつて彼の命を助けたことから、エフラはザフィルに生涯の忠誠を誓っている。だが普段のやり取りはかなり気安く、その仲は兄弟に近い。それゆえ彼は、族長であるザフィルに辛辣な物言いさえも許されている。
「立ち聞きとか、趣味悪いな」
「別に、耳澄ましたりしてませんって。……それで、彼女は」
「寝てる。精霊との縁は切れたし、これでもう精霊も餌にしようなんて考えないだろう」
「念のため、目覚めた彼女が本当に精霊を呼べなくなったのか確認はすべきでしょうね。彼女にとって我々は、ウトリド族を滅ぼした憎むべき相手だ。おとなしそうに見えても、いつ牙をむくか分かりませんよ」
淡々と話すエフラに、ザフィルもうなずく。長の娘としてウトリド族を取り戻さねばと、ファテナが考える可能性は充分にある。だがザフィルは、彼女はそうしないだろうと思っていた。
ふと、自らの右手の人差し指を見つめる。そこに残る傷跡は、舌を噛んで自害しようとしたファテナを止めた時にできたものだ。あの時彼女は、ザフィルの手を傷つけたことに酷く動揺していた。あの表情を見て、ファテナは他人を傷つけることに慣れていないことを確信した。自分を襲う相手に、こんな些細な傷をつけたことにさえ怯えていた彼女が、ザフィルを殺すことなどできるはずがない。
「とりあえず、世話係としてアディヤをつける。あいつなら戦いにも長けているし、女同士なら常にそばで見張ることが可能だからな」
「分かりました、すぐにアディヤを呼びます。彼女が目覚める前に、見張りの手はずを整えておかなければ」
足早に立ち去ろうとしたエフラを止めて、ザフィルは彼の肩に手を置く。
「あいつは今、色々なことで混乱してる。自分が精霊の餌だったことすら知らなかったし、家族がどんな罪を犯していたかも知らない。疑いの気持ちを持つのは分かるが、捕虜として丁重に扱え」
「でも、そう簡単に信用なんてできません。目を離した隙に、何をするか分かりませんよ」
「ウトリド族を滅ぼしたことに対するあいつの怒りは、俺が全て受け止める。族長として、それは当然のことだからな」
「それであなたが傷つけられでもしたら、困るんですけど」
眉を顰めたエフラは、酷く不機嫌そうだ。だがその表情は、不安からきていることもザフィルは知っている。
「あんまり人を疑ってばかりだと疲れるぞ、エフラ」
眉間の皺を揶揄うように指さしながら、ザフィルは小さく笑う。ザフィルも自身の身辺には常に警戒を怠らないが、エフラはその上をいく慎重さだ。
実力主義のテミム族では、次の族長を目指してザフィルを打ち倒す機会を密かに狙っている者だっている。反逆の芽はいつどこで育つか分からないし、ザフィルが弱みを見せれば今は黙って従っている者たちが反旗を翻す可能性はある。
もしもザフィルがファテナに殺されるようなことがあれば、テミム族は一気に崩壊する。エフラはそれを、心配しているのだろう。
額を手で隠すように押さえながら、エフラは深いため息をついた。その表情は、先程よりも暗い。
「身内すら信用できない僕にとって、常に他人を疑うのは当たり前のことなんですよ」
「それはまぁ、分かってるけど」
その言葉に、ザフィルも肩をすくめて口をつぐむ。エフラの弟は、兄とは違ってザフィルを打ち倒したいと思っている側の人間だ。今のところ表立って反抗的な態度をとることはないが、野心に燃える彼はずっと族長の地位を狙っている。
幼い頃は仲の良い兄弟だったというが、今は同じテミム族の集落で暮らしていながら、滅多に顔を合わせることもない。
もしも弟がザフィルに刃を向けることがあれば、エフラは間違いなく弟を倒すだろうが、そんな日が来ることを彼は恐れている。
同じように、ファテナがザフィルに敵意があると判断すれば、彼女を切り捨てるのは自分の役目だと考えているのだろう。忠実で優しいこの男は、ザフィルのためなら自らが傷つくことも厭わないのだ。
「まぁ心配しなくても部屋に武器の類は置いてないし、あの細腕で俺をどうこうできるとも思えない」
「ですが、どうかご自分の身を守ることを最優先にしてくださいね。捕虜として丁重に扱うことは承知しましたが、もしも彼女が……」
「分かってるって。ほら、早くアディヤを呼んでこい」
思い詰めたようなエフラの表情に苦笑して、ザフィルは早く行けと手を振った。
目覚めたファテナがザフィルを罵りでもしたら、エフラの反応が怖いなと小さくため息をついた。
眠るファテナの身体に掛布をかぶせ、寝台の前に衝立を置いてから扉へと向かう。訪ねてきたのは、ザフィルの側近であるエフラだ。すらりと背の高い彼は、五つほど年下だがザフィルがもっとも信頼する部下の一人だ。
弓の腕に長け、頭の切れる彼は、常にザフィルのそばにいて族長としての仕事を支えてくれている。
「見計らったかのように来るな」
「ちょっと外で待ってました。邪魔しちゃ悪いかなって思ったので」
ザフィルの言葉に、エフラは小さく肩をすくめた。かつて彼の命を助けたことから、エフラはザフィルに生涯の忠誠を誓っている。だが普段のやり取りはかなり気安く、その仲は兄弟に近い。それゆえ彼は、族長であるザフィルに辛辣な物言いさえも許されている。
「立ち聞きとか、趣味悪いな」
「別に、耳澄ましたりしてませんって。……それで、彼女は」
「寝てる。精霊との縁は切れたし、これでもう精霊も餌にしようなんて考えないだろう」
「念のため、目覚めた彼女が本当に精霊を呼べなくなったのか確認はすべきでしょうね。彼女にとって我々は、ウトリド族を滅ぼした憎むべき相手だ。おとなしそうに見えても、いつ牙をむくか分かりませんよ」
淡々と話すエフラに、ザフィルもうなずく。長の娘としてウトリド族を取り戻さねばと、ファテナが考える可能性は充分にある。だがザフィルは、彼女はそうしないだろうと思っていた。
ふと、自らの右手の人差し指を見つめる。そこに残る傷跡は、舌を噛んで自害しようとしたファテナを止めた時にできたものだ。あの時彼女は、ザフィルの手を傷つけたことに酷く動揺していた。あの表情を見て、ファテナは他人を傷つけることに慣れていないことを確信した。自分を襲う相手に、こんな些細な傷をつけたことにさえ怯えていた彼女が、ザフィルを殺すことなどできるはずがない。
「とりあえず、世話係としてアディヤをつける。あいつなら戦いにも長けているし、女同士なら常にそばで見張ることが可能だからな」
「分かりました、すぐにアディヤを呼びます。彼女が目覚める前に、見張りの手はずを整えておかなければ」
足早に立ち去ろうとしたエフラを止めて、ザフィルは彼の肩に手を置く。
「あいつは今、色々なことで混乱してる。自分が精霊の餌だったことすら知らなかったし、家族がどんな罪を犯していたかも知らない。疑いの気持ちを持つのは分かるが、捕虜として丁重に扱え」
「でも、そう簡単に信用なんてできません。目を離した隙に、何をするか分かりませんよ」
「ウトリド族を滅ぼしたことに対するあいつの怒りは、俺が全て受け止める。族長として、それは当然のことだからな」
「それであなたが傷つけられでもしたら、困るんですけど」
眉を顰めたエフラは、酷く不機嫌そうだ。だがその表情は、不安からきていることもザフィルは知っている。
「あんまり人を疑ってばかりだと疲れるぞ、エフラ」
眉間の皺を揶揄うように指さしながら、ザフィルは小さく笑う。ザフィルも自身の身辺には常に警戒を怠らないが、エフラはその上をいく慎重さだ。
実力主義のテミム族では、次の族長を目指してザフィルを打ち倒す機会を密かに狙っている者だっている。反逆の芽はいつどこで育つか分からないし、ザフィルが弱みを見せれば今は黙って従っている者たちが反旗を翻す可能性はある。
もしもザフィルがファテナに殺されるようなことがあれば、テミム族は一気に崩壊する。エフラはそれを、心配しているのだろう。
額を手で隠すように押さえながら、エフラは深いため息をついた。その表情は、先程よりも暗い。
「身内すら信用できない僕にとって、常に他人を疑うのは当たり前のことなんですよ」
「それはまぁ、分かってるけど」
その言葉に、ザフィルも肩をすくめて口をつぐむ。エフラの弟は、兄とは違ってザフィルを打ち倒したいと思っている側の人間だ。今のところ表立って反抗的な態度をとることはないが、野心に燃える彼はずっと族長の地位を狙っている。
幼い頃は仲の良い兄弟だったというが、今は同じテミム族の集落で暮らしていながら、滅多に顔を合わせることもない。
もしも弟がザフィルに刃を向けることがあれば、エフラは間違いなく弟を倒すだろうが、そんな日が来ることを彼は恐れている。
同じように、ファテナがザフィルに敵意があると判断すれば、彼女を切り捨てるのは自分の役目だと考えているのだろう。忠実で優しいこの男は、ザフィルのためなら自らが傷つくことも厭わないのだ。
「まぁ心配しなくても部屋に武器の類は置いてないし、あの細腕で俺をどうこうできるとも思えない」
「ですが、どうかご自分の身を守ることを最優先にしてくださいね。捕虜として丁重に扱うことは承知しましたが、もしも彼女が……」
「分かってるって。ほら、早くアディヤを呼んでこい」
思い詰めたようなエフラの表情に苦笑して、ザフィルは早く行けと手を振った。
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