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ウトリド族 1
しおりを挟む疲れた表情で眠るファテナを確認して、ザフィルはそっと彼女の両手を拘束していた枷を外した。激しく抵抗したからだろう、赤く痕が残っている。朝になっても消えていなければ、薬を塗った方がいいかもしれない。
軽く身体を清め、破り捨てた服の代わりに新しい夜着を着せてやっても、彼女は目を覚ます気配がない。随分と深い眠りの中にいるようだ。
敷布に染みついた赤い血が純潔を失った証であることをあらためて確認すると、ザフィルは規則正しい呼吸を繰り返すファテナの髪を撫でてその隣に身体を横たえた。波打って広がる彼女の髪は、夜空のような美しい濃紺。根元まで綺麗にその色が続いていることを確認して、ザフィルは一房掬ったその髪に口づける。
「……ざまぁみろ、だ」
勝ち誇った笑みを浮かべて、ザフィルは窓の外に視線を向ける。そこにはもう、精霊の気配はない。きっと、もともと棲んでいた森に戻ったのだろう。
ファテナのことはかなりお気に入りの餌のようだったから心配だったが、さすがに純潔を失った娘を餌にする気はないようだ。
そもそも、森に棲む精霊は餌を必要としない。それを、ウトリド族は無垢な娘を餌にすることで自分たちのもとに呼び寄せて、土地を発展させてきたのだ。
「これで、あんたは自由になったはずなのにな。……悪いが、手放してやれない」
ゆっくりと髪を梳きながら、ザフィルはひとりごとのようにつぶやいた。
テミム族の長として村を治める中、ウトリド族の話題はよく耳にしていた。よそ者を拒むようにぐるりと高い壁に囲まれた土地に住む、閉鎖的な一族。だが彼らの小さな集落は、何故か周囲とは一線を画すほどに豊かだった。精霊に愛された巫女姫の力で守られていると聞いていたが、ザフィルはそれを信用していなかった。精霊は、そう簡単に人間に手を貸す存在ではない。
それを知っていたから、ザフィルは精霊の力に頼ることなく生活をしていく知恵を身につけてきた。
雲の動きや風の流れで天候を読み、水源を探して各地を転々としながら永住の地を探した。
荒れた土地を耕し、作物を育て、急な飢饉に備えて食料の備蓄も絶やさないようにしながら、テミム族は少しずつ繫栄してきた。
精霊の力に守られたウトリド族と、精霊の力を一切使わないテミム族は正反対の存在だったためか、暮らす場所は近かった割にお互いに干渉することなく過ごしてきた。
だがここ数年、ウトリドの集落付近で行方不明になる者が続出した。偶然とは考えられない数の多さに、ウトリド族には何かあるとザフィルは警戒を強めていた。
つい先日にも、狩りの最中に行方が分からなくなった者が複数出たため、ザフィルは仲間の行方を捜して単身ウトリド族の集落に近づいた。その時に、泉のそばでファテナの姿を見たのだ。雪のように真っ白な容姿を持つという、ウトリド族の巫女姫。
噂通りに純白の髪を持つ彼女は、泉のそばで目を閉じて祈りを捧げているようだった。
周囲に漂う白い光は、恐らく精霊の姿だろう。精霊の力を使う気はないザフィルだが、その姿を見ることはできる。彼女のまわりに寄り添う光を見る限り、精霊に愛されているという噂は嘘ではないようだ。
神聖なその空気に圧倒されて、ザフィルは思わず息を詰めて彼女を見守ってしまった。
やがて目を開けた彼女は、おもむろに服を脱ぐと泉の中に飛び込んだ。白い裸体が躍るように水中に潜り、長い髪がそのほっそりとした身体のまわりをゆらゆらと泳ぐ。
ザフィルが見ていることなど気づいていないだろうファテナは、水面に浮かび上がると仰向けにぷかりと浮いた。心地よさそうなその表情は妙に妖艶で、ザフィルは彼女から視線を外すことができなかった。身体を隠すように髪が肌に貼りついているものの、豊かな胸のふくらみやくびれた腰の細さから目が離せず、もっと近くで見たいという欲望が湧き上がってくる。
気配を殺しながらそっと近づいてみると、さっきまでゆったりと水面に浮かんでいたはずのファテナがいくつかの小さな泡だけ残してゆっくりと泉の底に沈んでいくのが見えた。まさか溺れたのかと慌てて身を乗り出したが、どうやら水に潜っただけだったらしい。彼女が周囲を警戒するような表情で水面から顔を出すのを見て、ザフィルは急いで身を隠した。
純白の巫女姫として知られるファテナと同様に、ザフィルもその目立つ容姿で知られている。母譲りの金の髪と青い目は、このあたりの部族にはない色だ。頭から布をかぶって髪を隠してはいるものの、目ばかりは隠しようがない。うっかり姿を見られれば、テミム族のザフィルだと見破られてしまう。
そわそわと落ち着きなく周囲を見回しながら衣服を身につけていくファテナを遠目に確認して、ザフィルは気づかれないように距離を開けながら彼女のあとを追った。
精霊に愛された巫女姫の噂通り、ファテナの周囲には常に精霊がいた。だが彼女のまわりを漂う淡い光は、ウトリドの村人どころかファテナにも見えていないようだった。
時折精霊がファテナの髪を揺らし、それに反応して何かを話しているような様子から、声を聞くことに特化しているのだろうと推測する。
あちこちで呼び止められ、そのたびに穏やかな表情で対応するファテナは村人からも慕われているようだ。果物や野菜を手渡されて、眉を下げつつ笑って礼を言う表情が印象的だった。
やがて昼になり、村の中央にある大きな館からは肉の焼けるいい匂いがしてきた。食事時は警備も手薄になりがちなので、ザフィルは気配を殺して館へ侵入した。
館の内部には高価そうな装飾があちこちに施されていたし、中庭には水の流れる噴水があった。明らかに観賞用の噴水を設置できるほどに、ウトリド族は潤沢に水を使えるのかと、ザフィルは思わず眉を顰める。
ふわふわと水の精霊らしき光が見えることから、水源は巫女姫ファテナが水浴びをしていたあの泉だろうか。精霊から力を借りる代わりに、ウトリド族は何を対価に差し出しているのだろう。
考え込んでいると、機嫌の良さそうな大きな笑い声が聞こえてきてザフィルは周囲を見回した。
声は一際大きな扉の向こうから聞こえていて、小さな飾り窓の向こうにはでっぷりと太った男が食事をしているのが見える。立派な髭をたくわえたその男にはザフィルも見覚えがあった。ウトリド族の族長、イザートに違いない。隣に座っているのは、年頃からして族長の妻だろう。
ザフィルは息を殺してこっそり室内をのぞき込んだ。
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