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 館で眠っていたはずの両親や妹は、そして消火のために動いてくれていた村の男たちや、避難した者たちは無事なのだろうか。
 あらためてテミム族の残虐な噂が脳裏を過って、ファテナの身体は小さく震えだす。
「嘘、そんな……」
 青ざめてつぶやいたファテナを見て、ザフィルが思い出したようだなと笑う。あんなことをしておいて悪びれる様子のないその口調に、ファテナは顔を上げるとザフィルをにらみつけた。
「夜中に奇襲をかけて火をつけるなんて、卑怯だわ。ウトリド族があなたに何をしたというの。私たちはただ、穏やかに暮らしていただけなのに」
 声を震わせるファテナをのぞき込むようにして、ザフィルが笑いかける。
「心配しなくても、村人はすぐに降伏したから傷つけてないし、あんたの家族だってまだ生きてるよ。あんたらはどうも俺たちを残酷非道な行いをする野蛮な一族だって思いたいみたいだけど、俺は必要のない殺しはしない主義なんだ」
「生きて……」
 ほっと安堵した表情を浮かべたファテナを見て、ザフィルは今度は残忍な笑みを浮かべる。
「まぁ、ウトリド族はこの辺りでは色々と有名だからね。長の首をとるところはたくさんの人に見てもらう予定だけど。首だけぽんと見せても、俺がやったって分からなきゃ意味ないからね」
「そんな……」
 長である父の公開処刑を暗に示されて、ファテナは目を見開いた。
「ま、安心しな。まだ殺しはしないよ。あんたの妹が顔に火傷をしていてね。どうせなら全員の首、綺麗に並べたいからね」
 軽い口調で残酷なことを言いながら、ファテナの瞳から零れ落ちる涙をザフィルは楽しそうにぬぐう。

 ふとファテナは、何故自分だけがここにいるのかということに思い至った。ファテナとて、族長の娘。父の後継となるのは妹とその夫だが、精霊の力を誰よりもうまく使えるファテナは、ウトリドの巫女姫としても名を知られている。
 処刑するというのなら、ファテナもその筆頭に並ぶはずだ。真っ白なこの容姿を持つのは、ウトリド族の中でファテナただ一人だから。
「ならば、何故私はここに……?」
 その言葉を待っていたかのように、ザフィルはにっこりと笑った。まるで舌舐めずりをしているかのような、凄みのある表情に、ファテナは背筋がぞくりとするのを感じる。
「ウトリド族の姫さんは美人だって聞いたからね。精霊に愛された純白の巫女姫を堕とすのも楽しそうだなと思って」
 のぞき込むように顔を近づけられて、ファテナは思わず身構えた。だけど先ほどから続いている身体の妙な怠さで、倒れないように支えるのが精一杯という状態だ。
「あぁ、ふらふらするだろう。精霊が嫌う香を焚きしめてるんだ」
 よろめいて寝台に手をついたファテナを見て、ザフィルがほらと言って窓辺を指さした。そこには黒い香炉が置かれていて、薄白い煙をくゆらせていた。殺生を嫌う精霊を寄せつけないため、象牙を使った香炉と獣の血を混ぜ込んだ香を使っているという。
 精霊に愛されているがゆえに自身もなるべく殺生を避けて暮らしてきたファテナは、なるべく香を吸わないようにと思わず口元を押さえる。そんなファテナの仕草を無駄だと笑いながら、ザフィルは立ち上がると香炉を寝台のそばまで持ってきた。甘い香りが更に濃くなり、強い吐き気と眩暈に襲われる。
「ここに来る前にも嗅がせただろう。あれはちょっと濃すぎたな、意識まで朦朧とさせるつもりはなかったんだけど」
「やめて、気分が悪くなるわ……、向こうにやって」
 ファテナが本気で気持ち悪そうにしていることに気づいたからか、ザフィルは香炉を再び窓辺に戻した。距離が離れた分気持ち悪さはましになったが、それでも身体に纏わりつくような甘い香りが不快でたまらない。
「あんたにさえこの効果だ。だからこの部屋に精霊は入ってこれないし、あんたの声は精霊には届かない」
 そう言われて初めて、ファテナは周囲に精霊の気配がないことに気づいた。いつもそばにいてくれた存在を感じ取れなくて、声すら聞こえない。ファテナは急に不安に襲われる。まるで一人きりになってしまったようだ。
「そんなの、嘘だわ」
 震える声で虚勢を張ってみても、ザフィルにはお見通しだったのだろう。にやりと笑うと顔をのぞき込んできた。
「じゃあ、試してみるといい。ウトリドの巫女姫は、精霊の力を借りて火だって起こせるんだろう? ほら、精霊を呼んで、今すぐ俺を燃やしてみろよ」
 挑発するような言葉に唇を噛み、ファテナは両手を組んで目を閉じた。火の精霊に呼びかけて、力を貸してほしいと願う。さすがに目の前の男を燃やすことはできないが、敷布にでも火をつけてやれば脅かすことはできるだろう。
 いつもなら、ファテナの願いにすぐ火の精霊が応えてくれる。ファテナはそうして、毎日祭壇や長の館に火を灯していたのだから。
 なのに、今は何の反応もない。心の中で呼びかけた声が、行き場を失ってぽとりと床に落ちたような気がした。
「……っ」
 動揺を隠せないまま、ファテナは震える手を再度組み直す。だけど、何度祈っても呼びかけても、精霊の気配を感じ取れない。
「ウトリドの巫女姫の危機なのに、精霊は誰も助けに来てくれないね」
 青ざめるファテナを憐れむように笑いながら、ザフィルが顔をのぞき込む。するりと髪を撫でた手が頬に触れて、その感触にファテナの肌が粟立つ。
「まぁ、どっちにしてもあんたはもう、二度と精霊を呼べなくなるけどね」
「どう、いう……意味」
「精霊は、清らかな乙女の願いにしか応えない。あんたが純潔を失えば、精霊は見向きもしなくなる。ウトリドの巫女姫が精霊から見限られたとなれば、あんたの首を他の家族と一緒に並べるより効果があると思わないか?」
 顎を掴み、息がかかりそうなほど近くに顔を寄せてザフィルは笑う。まるで口づけするかのような距離に、ファテナは必死で顔を逸らした。
「つれないお姫様だなぁ。捕虜って立場を分かってる? あんまり我儘を言うようなら、優しくしてあげられなくなるけど」
「その手で私に触れないで。……汚らわしい」
 顎を掴む手を振り払って吐き捨てたその言葉に、ザフィルの目がすうっと細くなる。その瞬間、彼の纏う空気が一気に冷え込んだような気がして、ファテナは思わず口をつぐんだ。
 黙ってこちらを見つめているだけなのに、何という威圧感。実力でテミムの族長にまで上り詰めたという噂は、真実だったようだ。
「気の強いとこも嫌いじゃないけどね、ちょっと言葉が過ぎたな。優しくしてやろうと思ってたけど、気が変わった」
 平坦な口調でそうつぶやくと、ザフィルは自らの上衣を脱ぎ捨てて床に放った。無駄なく引き締まった褐色の肌は、松明の灯りを背にしているせいか、より濃く見える。
 殴られるのだろうかと身構えたファテナの肩を掴むと、ザフィルはそのまま乱暴に押し倒した。寝台の柔らかさに受け止められて痛みはないけれど、衝撃で息が一瞬止まる。
 そのせいで声をあげるタイミングを失ったファテナは、目を見開いて固まることしかできなかった。
 片手でファテナの両手首を掴んだザフィルは、敷布の上に縫い止めるように押しつけるともう片手でファテナの服の胸元を掴み、勢いよく手を引き下ろした。
「……っ!」
 身に纏っていた白い長衣が、まるでファテナの代わりに叫ぶような音を立てて足元まで引き裂かれた。
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