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 館を出た瞬間、ファテナは勢いよく駆け出した。精霊が教えてくれた通り、外はすでに真っ暗で冷たい雨が降り始めていた。
 ひたすら息を切らして走り、村の井戸のそばにある小屋の中に入って扉を閉めると、ファテナは荒くなった呼吸を整えながらその場にしゃがみこんだ。
 ディアドたちに嫌がらせを受けるのはいつものことなのに、今日は酷く胸が苦しい。きっと、あの少女にもらったシュクリの実を守れなかったからだ。
 潰れて割れたシュクリの実を、ファテナは両手でそっと包み込んだ。果汁が滴り落ちて、真っ暗な部屋の中に甘い香りを振りまく。
 ふと、締め切った部屋の中に柔らかな風が吹いた。言葉はなくとも、優しく頬を撫でるようなその風に、ファテナは顔を上げると泣き笑いの表情を浮かべた。
「慰めてくれるの? ありがとう、私は平気よ」
 滲んだ涙を袖口でぐいと拭うと、ファテナは立ち上がった。
 祭壇に火を灯すと、部屋の中が明るくなる。精霊が好む白一色で統一された部屋は、大きな祭壇のほかには硬く狭い寝台と小さなテーブルと椅子があるだけの殺風景なものだ。ファテナは、物心ついた頃からずっとここで一人暮らしをしている。穢れがつかないよう真っ白なこの小屋で寝起きし、白い服を常に身に纏う。精霊は殺生を嫌うからと肉や魚を一切口にせず、日々祭壇に向かって精霊に祈りを捧げることがファテナの役目だ。
 幼い頃は家族と離れて暮らすのは寂しいと泣いたこともあったけれど、家族の代わりにファテナのそばには精霊たちがいた。眠れない夜は精霊が耳元で歌ってくれたし、ファテナが祈りを捧げると精霊は嬉しそうに笑ってくれた。
 姿は見えなくとも精霊は常にファテナに話しかけ、すべきことを教えてくれた。
 今もまた、シュクリの実を欲しがる精霊の声を聞いて、ファテナは祭壇にそっと黄色い果実を供えた。
「雨が降る前に、収穫は終わらせられたかしら」
 急いで収穫作業に戻っていった親子に思いを馳せていると、返事をするように風がふわふわと前髪を揺らした。
「さて、着替えなくちゃ。濡れたままだと風邪をひいてしまうわ」
 つぶやいて、ファテナは寝台の下の引き出しから白い長衣を取り出した。雫が滴るほどに濡れていた服を軽く絞って椅子の背にかけると、あたたかな風が服を揺らす。火の精霊と風の精霊が、乾かしてくれるらしい。シュクリの実を供えた礼だろうか。
 その時、小屋の扉が小さく叩かれた。
「姫様、お食事をお持ちしました」 
 外からかけられた声に返事をして、ファテナは扉へと向かう。館の厨房で働く女性が、雨に濡れながら立っていた。
「ありがとう、雨の中悪いわね」
「いえ。……あの、今日はいつもより品数が」
 申し訳なさそうに盆を差し出され、ファテナは黙って笑みを浮かべた。いつもはパンか粥、それからスープと一品のおかずがあるはずなのだが、今日は盆の上には粥しか乗っていない。恐らく、シュクリの実をもらったからだろう。妹が手を回したに違いない。野菜入りの粥であることが、せめてもの救いだろうか。
「今日は、あまりお腹が空いていないから」
 ファテナはそう言って笑う。彼女らはファテナを心配してくれるが、それでも長やディアドに楯突くことはできない。強がりであることは分かっているはずだが、何も言わずに彼女は頭を下げて帰っていった。
 
 冷えきった粥を食べたあと、ファテナは寝台に横になった。明日も陽がのぼる前に館に行って厨房の竈に火をつけなければならない。村の中心に置いた小さな蝋燭には、誰もがいつでも使えるようにと火を絶やさないようにしているけれど、長の食事を作るための火は、毎朝新しく火の精霊に祈ったものでなければならないと命じられている。寝坊でもしようものなら、どんな叱責を受けるか分からない。
 小さな椀に入った粥だけでは足りず、空腹を訴えるお腹を押さえつつ、ファテナは目を閉じて掛布を頭からかぶった。
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