上 下
5 / 35

笑顔と涙

しおりを挟む
「忘れる……って」
 言葉を失う蓮を見て、詩音は困ったような笑みを浮かべた。
「何年か前にさ、俳優が告白して話題になったじゃん。ほら、朝ドラの……」
 詩音が、かつて人気だった俳優の名前を挙げる。同時にワイドショーを騒がせた彼の病も思い出した蓮は、ゆっくりと口を開く。
「……『ATTWN症候群』」
「ふふ、知ってた? 結構話題にもなったもんね。そう、その病気。And Then There Were None……そして誰もいなくなった。本当にその通りの病気なんだって」
 笑顔を浮かべている詩音だけど、その表情は泣き出す寸前のように見えた。
 ATTWN症候群と名づけられたその病気は、人物の顔とその人にまつわる思い出を失っていくのだという。数年前にその病気を告白した俳優は、自分の頭の中にある部屋の中から毎日誰かがひとりずついなくなり、最後はきっと自分だけになるだろうと自らの病状を説明していた。
 そして誰もいなくなった――そう表現するのがぴったりな病気であると。
 彼は今どうしているのだろう。テレビや雑誌でその姿を見なくなって久しいことに、今更気づく。
 
 
「詳しくは分からないけど、忘れるのは人物と、その人に関する思い出だけなの。だから普段の生活には、今のところ困ってないんだけどね」
 小さく笑った詩音は、ごめんねと言って蓮を見た。
「だから、蓮くんのことも次に会うまで覚えてるか分かんないんだ。新しく会った人のことは、なかなか覚えてられないみたいなの」
 そう言って、詩音はベッドサイドのテーブルから手帳を取ると開いた。
「でもこうして手帳に書いておいたら、蓮くんのことは忘れても約束したことは残るでしょう。私が忘れてても、ピアノを聴かせてくれたら嬉しいな。音はきっと、覚えてるから」
「詩音ちゃん……」
 掠れた声でつぶやいた蓮を見て、詩音は笑みを浮かべる。その表情は、笑顔なのに泣いているように見えた。
「ごめんね、引いたよね。ヤバい奴と関わっちゃったって思ってる?」
「……っそんなこと」
 慌てて首を振ると、詩音はうつむいて手帳のページをめくる。カレンダーにはいくつか人物名と時間が書いてあるのが見えて、そうやって彼女が誰かと約束をしていることが見てとれる。
 蓮は、検査や誰かの約束の予定が入っていない空白の日付を指差した。
「この日とこの日。あとここなら俺も空いてる」
「蓮くん……」
 驚いたように顔を上げた詩音を見て、蓮は笑いかける。
「たくさん会えば、忘れないかもしれない。ピアノだけじゃなくて、俺のことも覚えてて」
 大きく見開かれた黒い瞳に、みるみるうちに涙が盛り上がる。美少女は泣き顔まで可愛いなと一瞬見惚れかけて、蓮は慌ててハンカチを差し出した。
 
「ありがとう、蓮くん。約束の日まで、毎日手帳を確認して忘れないようにするね」
 手帳に加わった蓮の名前を指先で撫でながら、詩音が嬉しそうに笑う。
「……だけど、蓮くんが嫌になったら来なくていいからね」
「約束は、ちゃんと守るよ」
 子供っぽいかと思いつつも小指を差し出すと、おずおずと詩音の細い指が絡められた。
「うん、約束」
 涙を拭いながら笑う詩音を見て、蓮も笑顔でうなずく。
 
 この時、笑顔の裏で詩音がどんな気持ちを抱えていたのか、蓮はまだ知らなかった。
 そっと絡めた小指のぬくもりを、この日交わした約束を、蓮はこのあと幾度となく思い出すことになる。

 
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

運命の番?棄てたのは貴方です

ひよこ1号
恋愛
竜人族の侯爵令嬢エデュラには愛する番が居た。二人は幼い頃に出会い、婚約していたが、番である第一王子エリンギルは、新たに番と名乗り出たリリアーデと婚約する。邪魔になったエデュラとの婚約を解消し、番を引き裂いた大罪人として追放するが……。一方で幼い頃に出会った侯爵令嬢を忘れられない帝国の皇子は、男爵令息と身分を偽り竜人国へと留学していた。 番との運命の出会いと別離の物語。番でない人々の貫く愛。 ※自己設定満載ですので気を付けてください。 ※性描写はないですが、一線を越える個所もあります ※多少の残酷表現あります。 以上2点からセルフレイティング

【完結】忘れてください

仲 奈華 (nakanaka)
恋愛
愛していた。 貴方はそうでないと知りながら、私は貴方だけを愛していた。 夫の恋人に子供ができたと教えられても、私は貴方との未来を信じていたのに。 貴方から離婚届を渡されて、私の心は粉々に砕け散った。 もういいの。 私は貴方を解放する覚悟を決めた。 貴方が気づいていない小さな鼓動を守りながら、ここを離れます。 私の事は忘れてください。 ※6月26日初回完結  7月12日2回目完結しました。 お読みいただきありがとうございます。

選ばれたのは美人の親友

杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。

夫の不貞現場を目撃してしまいました

秋月乃衣
恋愛
伯爵夫人ミレーユは、夫との間に子供が授からないまま、閨を共にしなくなって一年。 何故か夫から閨を拒否されてしまっているが、理由が分からない。 そんな時に夜会中の庭園で、夫と未亡人のマデリーンが、情事に耽っている場面を目撃してしまう。 なろう様でも掲載しております。

春の真ん中、泣いてる君と恋をした

佐々森りろ
ライト文芸
 旧題:春の真ん中  第6回ライト文芸大賞「青春賞」を頂きました!!  読んでくださった方、感想をくださった方改めまして、ありがとうございました。  2024.4「春の真ん中、泣いてる君と恋をした」に改題して書籍化決定!!  佐々森りろのデビュー作になります。  よろしくお願いします(*´-`)♡ ────────*────────  高一の終わり、両親が離婚した。  あんなに幸せそうだった両親が離婚してしまったことが、あたしはあたしなりにショックだった。どうしてとか、そんなことはどうでも良かった。  あんなに想いあっていたのに、別れはいつか来るんだ。友達だって同じ。出逢いがあれば別れもある。再会した幼なじみと、新しい女友達。自分は友達作りは上手い方だと思っていたけど、新しい環境ではそう上手くもいかない。  始業式前の学校見学で偶然出逢った彼。  彼の寂しげなピアノの旋律が忘れられなくて、また会いたいと思った。

雨の庭で来ぬ君を待つ【本編・その後 完結】

ライト文芸
《5/31 その後のお話の更新を始めました》 私は―― 気付けばずっと、孤独だった。 いつも心は寂しくて。その寂しさから目を逸らすように生きていた。 僕は―― 気付けばずっと、苦しい日々だった。 それでも、自分の人生を恨んだりはしなかった。恨んだところで、別の人生をやり直せるわけでもない。 そう思っていた。そう、思えていたはずだった――。 孤独な男女の、静かで哀しい出会いと関わり。 そこから生まれたのは、慰め? 居場所? それともーー。 "キミの孤独を利用したんだ" ※注意……暗いです。かつ、禁断要素ありです。 以前他サイトにて掲載しておりましたものを、修正しております。

お飾りの侯爵夫人

悠木矢彩
恋愛
今宵もあの方は帰ってきてくださらない… フリーアイコン あままつ様のを使用させて頂いています。

私のことを愛していなかった貴方へ

矢野りと
恋愛
婚約者の心には愛する女性がいた。 でも貴族の婚姻とは家と家を繋ぐのが目的だからそれも仕方がないことだと承知して婚姻を結んだ。私だって彼を愛して婚姻を結んだ訳ではないのだから。 でも穏やかな結婚生活が私と彼の間に愛を芽生えさせ、いつしか永遠の愛を誓うようになる。 だがそんな幸せな生活は突然終わりを告げてしまう。 夫のかつての想い人が現れてから私は彼の本心を知ってしまい…。 *設定はゆるいです。

処理中です...