仕方なく結婚したはずなのに貴方を愛してしまったので離婚しようと思います。

森本イチカ

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三章・大きな手に撫でられて

――4

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 写真撮影に満足したのか車内は玲司の鼻歌がBGMになっている。なんの歌なのか聞いてみたら「幸せのうた。僕の作詞作曲」とかいう怖すぎる返事が返ってきた。


「あの、私桃果の病院に寄りたいんですけど、病院で下ろしてもらってもいいですか?」


「ああ、もちろんだよ。でも僕今から仕事に行かないといけなくて帰りはタクシーで帰ってきなさい。いいね?」


 休みじゃなかったんかい、とツッコミたくなったがやめた。


「いえ、お金が勿体ないのでバスで帰りますよ。確かバスが出てましたよね?」


 この家に引っ越すにあたって桃果の入院している病院が遠くなるから事前に交通機関を調べておいたのだ。確かバスが出ていたはず。


「いや、駄目だ。タクシーで帰ってきなさい。それか秘書の原口を迎えにいかせるよ」


 さっきまであんなに鼻歌を歌って上機嫌だったのに玲司の声のトーンが少し下がった。


「でも……」


「いいんだよ。タクシーのほうが安全だろう? それが嫌なら病院には送っていけないな」


  助手席から見る横顔は鋭い瞳で不機嫌そうに見える。


 ……なんか、怒ってる?


 別についでに送ってもらおうと思っただけなのに。一度帰ってから病院に行けばなんの問題もない。


「家に帰ってからバスで行こうとするのも駄目だ。かならずタクシーを使いなさい。お金のことは気にしなくていいから。このカードを穂乃果に渡すから好きに使って」


 タイミングよく赤信号で止まり、財布からカードを渡してきた。


「なっ……」


 考えている事がバレていた。お金はもったいないけれど玲司が出してくれるということなのでありがたく、黒光りしているクレジットカードを受け取った。


「さ、着いたよ」


 桃果の入院している東総合病院に着いたので車から降りる。少し心臓がザワザワしてきた。どうしても父がなくなった日のことをここにくると思いだしてしまう。手が小刻みに震えだす。


「穂乃果」


 運転席の窓が開き、玲司が手招きをしてくる。


 玲司さん? なにか忘れ物でもしたかな?


 首を傾げながら窓に近づく。


「んっ――」


 窓の中から伸びてきた手に頭を掻き抱かれぐいっと寄せられたときにはもう避けられなかった。柔らかな感触が強張った唇を解いていく。


 や……なんでっ……。


 こんな公共の場でキスをしてくるなんて恥ずかしい。玲司にはという感情が無いのだろうか? 息をするようにキザなことを穂乃果にしてくる。




「な、なにするんですか!」


「ん? 特に意味はないよ。穂乃果にキスがしたかっただけ」


 ハハッと笑いながら玲司は穂乃果の手を握り離さない。


「じゃあ、僕は会社に行くけど、必ず家についたら連絡すること。分かったね?」


 視線を逸らす穂乃果の顔を玲司は覗き込む。


「ん……わ、わかりました」


 小さく返事をすると玲司はそっと微笑んだ。


「いい子だね。じゃあ、行ってくる」


 すっと離された手には玲司の温もりがまだ残っている。


 あ……。


 いつのまにか震えが止まっていた。


 ま、まさか手の震えに気づいていたわけじゃないわよね……?


 病院の扉に向かって歩く。背中に視線を感じるので後ろを振り返ると玲司がまだ穂乃果のことを見届けていた。目が合うと優しくほほえみ返してくる。


「っ……!」


 玲司の視線を感じながら病院に入るとずっと不安で震えながら入っていた病院の扉にもすんなりと入ることができた。もしかしたら、玲司のお陰なのかもしれない。こうして穂乃果の気を紛らわしてくれたのではないかと率直に思えた。ほんの少しずつ、玲司への印象が変わりつつあることは嫌でも自分で感じている。


 慣れた足取りで桃花の病室に向かい、扉を開けた。


「桃果、しばらく来られなくてごめんね」


「お姉ちゃん! 待ってたよ! なんで結婚したことすぐに教えてくれなかったの!?」


 ベッドから落ちそうなくらい前のめりな姿勢で桃果は嬉しそうに笑顔を向けてきた。


「な、なんで結婚のこと桃果が知ってるの!?」


 思わず後ずさり、桃花を見開いた目で見る。


 桃果にはもう少し落ち着いてから言おうと思っていたし、工場の人たちにも誰にも言っていないのになんで知ってるの!?


 満面の笑みで桃花は両手を胸の前でパチンと合わせた。


「お姉ちゃんの旦那さんが来てくれたんだよ! 玲司さん、とってもいい人だね!」


 ……あの男、いつの間に来てたのよ。


「ほらみて! このパジャマだって玲司さんが買ってきてくれたんだよ。このクマの人形もそうだし、このお花もそう! あとこの可愛いゴムも!」


 確かに桃果の病室が少し華やかになっていた。肩までの長さの綺麗な黒髪は小さな花のビーズがたくさんついたゴムでポニーテールに縛られている。窓際には色鮮やかな花が飾られており、ベッドには一緒にクマのぬいぐるみが寝転んでいる。なかなか花も高くて買ってあげられなかったし、パジャマだって穂乃果が小さい頃に着ていたおさがりばかり。今桃果が着ているのは小花柄のかわいいピンクのパジャマ。花が大好きな桃果が喜ぶはずだ。


 父が亡くなってかなり落ち込んでいた桃果がこんなにもはち切れそうな笑顔を見せてくれるなんて。玲司のおかげとはいえツンと鼻の奥が痛んだ。


「玲司さんはいつ来てくれたの?」


「んーとね、確か昨日このパジャマを買ってきてくれて、その前の日は初めて来てくれてお花とこのクマを持ってきてくれたよ! お姉ちゃんと結婚したって聞いた時は嘘だと思ったけど、お姉ちゃんの写真も見せてくれたし、なによりお姉ちゃんの話をしている時の玲司さんがすっごくニコニコしてたから本当なんだなぁって!」


 昨日と一昨日、つまり自分が熱を出しているときにいつのまにか来てたのね。それに写真って……いったいなんの写真かしら。


 油断も隙きもありゃしない。もう既に桃果は玲司のことをいい人だと思っている。仕方ないので穂乃果もそこは玲司はいい人で話を合わせることにした。


「そう、桃果が喜んでくれてよかった」


 穂乃果はニッコリと笑って窓際の花に近づいた。


「今度は玲司さんと一緒に来てね!」


「分かったわよ。でも玲司さんは仕事で忙しいから時間が合ったときにね」


 桃果は残念そうに「は~い」と返事をした。かなり玲司のことを気に入っているみたいだ。


「じゃあ花瓶の水変えてくるから」


「うん、お願いします。長生きしてほしいんだぁ」


「そうだね……」


 声が震えそうになった。神様はどうしてこうも意地悪なんだろう。こんなに素直で優しい桃果をどうにか救ってほしい。そのためだったら何でもするのに。


 その手始めに自分の恋を売ったのだから。お金の為に結婚して、周りの人が幸せになってくれれば自分の幸せなんて望まない。穂乃果は花瓶をギュッと握りしめて病室を出た。

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