エリート建築士は傷心した彼女を愛し抜きたい

森本イチカ

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第三章・本物の恋人

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 心臓が一人でカーニバルを開催しているようだ。ドクドク早く動いてはきゅうっと締め付けられるように痛んだり、とにかく慌ただしく動いている。
「ゆっくりって言ってたのにっ……」
 インターホンに伸ばす菜那の指先がふるふると細かく震えている。これは冬の寒さでも恐怖からではなく、緊張からだ。
 三日前、蒼司に告白され、返事は保留にしている。貴方なんてお断り! と言えるような相手じゃないので尚更悩み、なかなか踏み込めないでいた。蒼司は自信のない菜那にゆっくり進んでいきましょうと言ってくれたのに、もうカジハンドの依頼として会うことになっている。仕事なので仕方ないことだが、心の準備期間はかなり短かった。
「でも、ちょうどよかったのかも」
 早く伝えなきゃ、と思っていたことを前回の依頼の時に伝えられていなかったから。
 菜那はえいっとインターホンを押した。
「はい、宇賀谷です」
 声だけでドクンっと心臓が反応し、痛んだ。いつも通り穏やかな蒼司の声。自分だけが意識しすぎているようで恥ずかしくなり、かぁっと顔が赤くなる。
「かっ、カジハンドの堀川です! 本日もどうぞよろしくお願い致します!」
「ははっ、顔真っ赤ですよ。どうぞお入りください」
「っ――。失礼いたします!」
 ゆっくりと開いた自動ドアに菜那は勢いよく入った。まだ数回、けれどなぜか通り慣れてしまった通路を歩き進める。蒼司の部屋の前につくとタイミングよく玄関が開いた。
「菜那さんに早く会いたくて最短で予約してしまいました」
「そんな……」
 蒼司が嬉しそうに笑うのでなんだか恥ずかしさが倍増する。告白され、自分に好意があるとわかった途端に蒼司の気持ちが透けて見えるようになるなんて。自分はどれだけ鈍感だったのだろう。
「寒かったでしょう、どうぞお入りください」
「お邪魔致します」
 蒼司は菜那を招き入れた。玄関は散らかっていない。歩き進めてリビングに入ると、散らかって……いなかった。二度、ここに来たがその時はペットボトルやら脱ぎっぱなしの服が散乱していたのに。菜那はキッチンで立ち止まり、部屋を見渡した。
「凄い。綺麗ですね!」
 感動のあまり胸元で両手を合わせ蒼司のほうを見ると、照れ隠しなのか頭を掻きながら恥ずかし気に小さく笑っている。
「少しは自分でやろうと思いまして。そしたら来てもらった時に菜那さんは料理に集中できるでしょう? 美味しいから沢山食べたいっていう貪欲な考えです」
 素直に嬉しかった。料理を美味しいと褒められ、菜那のことを気づかい、自分の苦手な掃除をしてくれた心遣いも。
「今日の料理も楽しみにしてます」
「はい。頑張ります」
「じゃあ、俺はいつも通り仕事をしていますので、何かあれば言ってくださいね。頼まれていた食材は全て冷蔵庫に入っています」
 蒼司が両面開きの冷蔵庫開ける。菜那も一緒になって中身を覗くと事前に頼んであった食材が頼んでいた量より多く入っていた。きっとこれも蒼司の気づかいかもしれない。足りなくなるより多い方がいいと思ったのかもしれない。まだ全然蒼司のことを知らないはずなのになぜかそう思えてしまう。
「たくさん作れそうです。事前に買い物していただきありがとうございました」
 ぱたんと冷蔵庫を閉めた蒼司は菜那の頭に手を伸ばし、ゆっくりと撫でおろした。
「菜那さんと一緒にスーパーに買い物に行くのも楽しくてよかったのですが、出来れば二人っきりの時間が長い方がいいなと思った俺の下心ですよ」
 髪に触れている蒼司の手を視線で追うと、そのまま頬で止まり、親指がちょんっと唇に触れた。驚き、目を見開いて蒼司の顔を見上げると、まるで宝石を見ているようなうっとりとした目で菜那を見つめている。
 ブラックホールのように、そのまま吸い込まれそうになった。甘い雰囲気に流されてはいけないと菜那はパッと顔を逸らし、キッチンボードの扉を開け始める。
「あははっ、では宇賀谷様の邪魔にならないよう開始させていただきます!」
「はい。宜しくお願い致します」
 慌ただしく動いて恥ずかしさを散乱させようとしている菜那を見て、蒼司はくすくすと上品に笑っている。告白されたのは自分のはずで、待たせてしまっているのも自分のはずなのに、なんだか蒼司は余裕そうに見えた。
「じゃあ、何かあったら遠慮なく呼んでくださいね」
「わ、分かりました!」
 筑前煮、ネギ塩レモンチキン、鶏もも肉と厚揚げの煮物、キノコの和風マリネは電子レンジで温めればすぐに食べられるものだ。
 ドキドキとうるさかった心臓も料理をしているうちに冷静さを取り戻し、料理が全て完成した頃には感情も落ち着いていた。カレーとミネストローネも作り、ジッパーに入れて小分け冷凍保存できるようにする。
「これでよしっ!」
 すべてを作り終え、冷ましている間に洗い物を済ませようとスポンジに洗剤を付けた。
「わぁ、今回も凄く美味しそうですね」
「っ……!」
 後ろから蒼司の声が聞こえ、振り返ると上半身裸の蒼司が首からタオルをかけて立っていた。普段から艶やかな黒髪は濡れてさらに光沢を増している。ほどよい筋肉で引き締まった身体、いつもは流されている前髪もお風呂上りだからか掻き上げられていて、普段と違う蒼司に思わずドキっとしてしまった。
「な、なんで裸なんですか!」
 まともに見るなんて不可能だと判断した菜那はぷいっと顔を戻し、シンクの中のお皿を手に取った。
「あぁ、これはちょっと煩悩退……アイディアに行き詰まってしまったのでささっとシャワー浴びてきたんです。そしたらいい匂いがするものですから誘われるように来てしまいました」
「何言ってるんですかっ」
 背中に感じる熱。シャワー上がりだから尚更感じてしまうのだろうか。恥ずかしさを紛らわすために菜那は次々と洗っていく。
「ん、美味しい。レモンの味がさっぱりしていていいですね」
 また蒼司がつまみ食いをしたようだ。横目でチラッと覗くと口をもぐもぐさせている。
 また食べてる。でも、気に入ってもらえてよかった。
 ふふっと笑みがこぼれた。
「本当に美味しいです。どうしてこんなに俺好みの味なんでしょうか?」
「え? ちっ……」
 もわんとした熱気を頬に感じ、横を向くと思わずつるっと皿を落としそうになった。近い。蒼司が腰を曲げ、漆黒の艶やかな瞳で菜那の顔を覗き、捉えている。
「貴女の全てが俺好みなんです」
 ようやく落ち着いてきたのに。また、心臓が壊れそうになる。息をするのを忘れてしまいそうになるくらい、蒼司の瞳から目が逸らせない。
「あの、私……」
 どう返せばいいのだろうか。なんの言葉も出てこない。私もです、は違うし、私は好みではありませんも違う。早く答えを返したい。でなければ見つめられ続け、確実に酸素不足で倒れそうになるに違いない。けれど糸のように絡み合った視線に捕まり、答えを解くことができずにいる。
どうしよう……何か言わないと……。
 ぼうっとする頭をフル回転させて出てきた言葉がこれだった。
「あ、あのっ、うちの会社倒産するんです!」
「え……?」
 蒼司の驚きを含んだ声に思わずぎゅっと目を瞑ってしまった。こんなタイミングで言う予定じゃなかったのに、と心の中で後悔する。
「えっと、倒産……知らなかったです。菜那さんの予約をするのにホームページの他のところなんて全く見ていなかったから」
「そ、そうなんです! 業績不振で今日は宇賀谷様だけのご予約なんで張り切って頑張らせていただきますね!」
 明らかにしぼんだ蒼司の声にゆっくりと瞼を開けると蒼司と目が合った。寂し気な瞳に思わず息を呑む。
「次の仕事先はもう決まってるんですか?」
「いっ、いえ、まだです。社長が次の就職先も用意してくれるとおっしゃってくれてるんですけど、なにか違うことに挑戦してもいいかなぁっとも思ってるんです」
 菜那は苦笑いしながら調理器具を洗い進める。正直、人付き合いにも少し疲れを感じてしまったし、新しい事に挑戦したいって気持ちがあるのは嘘ではない。でも特にコレに挑戦したい、というものがなかった。
 学生時代特別勉強ができたわけじゃない、運動もそこそこ、歌がうまいとか、絵がうまいとかも一切ないなんの取り柄もない女子高校生だった。毎日目の前の事に必死で未来を見据えて勉強、なんて考えたこともなかったから。今も何を挑戦したいのか分からない。自分の空っぽさに思わずため息が出そうになった。
「違うところですか……なら」
 蒼司にトントンと肩を叩かれ、振り返る。
「俺のところに来ませんか?」
「へ? 宇賀谷様のところに? 事務員とかですか?」
 菜那は首を傾げて蒼司を見た。すると拍子抜けしたように口を小さく開けて顎を触っている。
「あぁ、事務員か。確かにそれもいいかもしれません」
 クスクスと笑いながら蒼司はソファーに置いてあったパーカーを取りに行き、着ながら菜那の方へと戻ってくる。
「違いましたか?」
 蒼司は「ええ」と頷くと菜那の二の腕をツンと人差し指で突いた。たった指先一本分の面積しか触れていないのに、そこから発火していくような勢いで熱く感じる。
「菜那さんと結婚したいってさりげなく言いました。でも、貴女にはストレートに言わないとやはり駄目ですね」
「けっ……」
 結婚――。
 ぐしゃっと握っていたスポンジを強く握ってしまい、しゅわっと泡が溢れた。
「昔は俺のところに永久就職しませんか、っていうプロポーズもあったみたいですね。まさにそれのような気がします。俺のところに来てから、何か違うことに挑戦するのもありなんじゃないでしょうか?」
「けっ、結婚ってそんな……」
 確かに少し前の菜那は早く結婚したいと思っていた。病気で入院している母親の願いを叶えてあげたいと思ったからだ。まだ付き合うかもはっきりと決めていないのに結婚だなんて……展開の速さに頭と気持ちがついていかない。菜那は泡まみれになった右手を眺めた。しゅわしゅわ消えていく泡を見て妙に寂しい気持ちになる。この泡みたいに次々と自分の周りのものが消えて無くなってしまうのではないかと。
 ……宇賀谷様も?
 カジハンドが潰れてしまったら蒼司との繋がりは消えてしまう。今は細い糸一本で繋がっているようなもの。会わなくなったら蒼司も自分のことを忘れてしまうのだろうか。
 ――それは嫌だ。
「菜那さん?」
「あ……はいっ!」
 名前を呼ばれて我に返り、顔を上げた。
「すいません。俺がゆっくりでいいと言ったのに急かすようなことを言ってしまって。貴女との接点がなくなってしまうんじゃないかと少し不安になって焦ってしまいました」
 あ……私、宇賀谷様と同じ気持ちだ……。
「でもですね」
 力強い声に菜那は思わず蒼司を見る。
「結婚したいと思っているのは本当です。菜那さんとの未来を恋人で終わらせるつもりはありませんから」
 本気なのだと蒼司の声と表情だけで感じ取れた。未来を見据えた話に思わず息を呑む。自分には無いものをもっている蒼司が眩しく見えたと同時にその光に飲み込まれてしまいたい、そう思った。
「あの、宇賀谷様――」
 軽快なリズム音が二人の真剣な空気を壊した。
「菜那さんのスマホじゃないでしょうか? 電話、出てもらって大丈夫ですよ」
「いえ、大丈夫です。後で折り返しますので」
「でも……ずっと鳴ってますし急用かもしれません」
 急用という言葉にドクンと身体が脈打った。菜那は慌てて手の泡を水で流す。もしかして、とよぎる不安に並行して心臓がバクバクと鳴っていた。
「すいません。やっぱり電話に出させてもらいます」
「もちろん、どうぞ」
 ペコリっと蒼司に頭を下げて、菜那は自身のバッグからスマホを取り出した。
 やっぱり――。
 身体の違和感は見事的中した。母親の入院している病院からの電話だ。菜那は震えかける指で通話画面をタップした。
「もしもし――」
 カタカタと細かくスマホを握る手が震え始めた。どうしよう、怖い。負の感情で飲み込まれそうになる。
「菜那さん!」
「あ……」
 冷えていく身体が優しく包み込まれた。何度も感じたことのある温もりに底に落ちそうになっていた気持ちが段々と這い上がってくる。
「大丈夫ですよ。俺もいますから」
 どうしてこんなにも優しい人なんだろう。理由も分かっていないはずなのに、菜那の動作一つで気が付いてくれた。柔らかな声に目頭が熱くなる。蒼司に心配ばかりかけてしまっている自分が情けない。自分がもっとしっかりしないと。
 菜那は大きく深呼吸して、蒼司の腕の中からすり抜けた。
「すいません。ちょっと抜けさせてもらってもよろしいでしょうか? 母が入院しているんですけど、少し容体が悪いみたいなので」
 菜那その瞳にはしっかり力がこもっていた。
「なら一緒に行きましょう。俺の車に乗っていってください。送ります」
「仕事まで抜けさせてもらうのにそこまで甘えさせて貰うわけにはいきません」
「いいんです。俺も心配ですから一緒についていかせてください。それにほら、強がっていてもこんなに手が震えています」
 優しく包み込まれた両手は心は強がっていても身体は正直で、小さく震えていた。
「さぁ、急いで行きましょう」
 菜那は声に出すことが出来ずコクンと頷いた。多分声を出したら震えていたと思うから。
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