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第二章・偽の恋人
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蒼司の自宅を訪問してから一週間が経っていた。この一週間、仕事終わりに母親の病院に毎日通いながらも菜那の頭の中から蒼司の存在が消えずにいる。
菜那の中で異様な存在感を示す蒼司のおかげで正直元カレのことはすっかり思い出すことはない。仕事で落ち込んでいたけれど、また頑張ろうという気持ちにもなれた。彼からもらう言葉によって、温もりによって、菜那の傷ついた心を確実に埋めていってくれるのだ。
付き合ってもいない男の人と、出会ったばかりのお客様に、慰めてもらうような優しいキス。突然のキスだったはずなのに、それはとても甘くて柔らかかった。思い出しただけでもキュンと胸が痛むほど。
「今日、伝えないとな」
大きく息を吸って、深く吐いた。菜那の目の前には高級マンションのインターホン。今日も蒼司に指名され、カジハンドの仕事として訪れた。料理の味を気に入ってくれたらしく、今日は作り置きの依頼が入っている。食材がたくさん入っている大きな買い物袋を持ち、腕には蒼司から借りていた傘とクリーニングに出したジャケットをぶら下げてきた。冬なのに今日は大荷物だったせいか、身体がいい感じに温まり、外でも寒さを感じない。
よし……。
心臓をドキドキと鳴らしながらインターホンへ指を伸ばす。ピンポーンと軽やかな音が鳴るとすぐに蒼司の声が聞こえた。
「菜那さん、来てくれてありがとう。開けたから入ってきてください」
顔が見えなくても分かるくらいに蒼司の声が弾んでいる。思わず菜那も嬉しくなり、頬が緩んだ。
「カジハンドの堀川です。失礼いたします」
蒼司の家に近づいていくほど、心臓が身体から駆け出しそうな程大きく跳ね続ける。
「ん? あれって、もしかして……」
歩き進めていると前から蒼司がこっちへ向かってきていた。今日は仕事だったのか、ワイシャツ姿に眼鏡をかけている。
「菜那さん」
「宇賀谷様! 本日もどうぞよろしくお願いいたします」
「菜那さんのハンバーグの味が忘れられなくてすぐに予約してしまいました」
「あ、ありがとうございます」
蒼司の言葉が素直に嬉しい。お客様に満足していただけてこそ、やりがいのある仕事だから。
「それ、貸してください」
蒼司はすっと菜那の持っていた買い物袋を手に取った。ワイシャツの裾から見える高級そうな腕時計がキラリと光り、この人は自分とは別世界の人だったと思い出す。
「あっ……自分で持ちますので大丈夫です!」
慌てて手を伸ばすも、蒼司に「いいですから」と腕を遮られてしまう。
「本当に、私の仕事ですのでっ」
「ん~、そうですか。じゃあ、そっちのと交換しましょうか」
指をさしたのは菜那の腕にかかっていた蒼司の傘とジャケットだった。
交換するもなにも、これは宇賀谷様のなのに……。
菜那は両手で傘とジャケットを持ち、蒼司の前に差し出した。
「あの日はありがとうございました。本当に何度お礼を言っても足りないくらいです。傘とジャケット、ありがとうございました」
「わざわざご丁寧にありがとうございます」
蒼司は嬉しそうに微笑むと傘とジャケットを片手で受け取る。
「じゃあ……」
買い物袋に菜那が手を伸ばすと蒼司はその手をスルーして歩き始めた。これでは全て蒼司が持っていることになる。菜那は歩き始めた蒼司の後を慌ててついていった。
「宇賀谷様っ、それでは話が違います! 私が何も持ててないじゃないですかっ」
「ん~? いいんですよ。それで」
後ろから話しかけた菜那の方に少しだけ顔を向けて、蒼司は満足げに口角を上げている。もう諦めて蒼司に甘えることにした。実際、重い荷物を持って歩いていたので体温が上昇していたので助かった。けれど、荷物を持っていないはずなのに、なんでだろうか。顔も、身体も真夏の太陽の下にいるかのように熱い。
「じゃあ、どうぞ上がってください」
「し、失礼いたします」
火照った身体のまま、玄関を上がり、リビングに入ると菜那はクリっとした大きな瞳をさらに大きく見開いた。
「わぁ……」
もう散らかっている。あっという間に身体の火照りは冷めていき、目の前の光景にただただ驚いた。菜那の驚いた様子に気が付いた蒼司は恥ずかしそうに頭を掻きながら口を開く。
「綺麗にしてもらったのに、すいません。どうも一人だと、手をぬいちゃうというか、なんというか……って言い訳なんですけどね」
その姿がクールな外見とは裏腹に物凄く可愛く見えた。
「いえ、その気持ちわかります。私も一人暮らしなんですけど、料理するのが面倒で鍋なんて一気に作って三日は食べますよ」
「へぇ、意外。でも手抜きっていいですよね、その分違うことに時間を使えますし」
「そう、ですかね。……では、早速ですが本日のご依頼に取り掛からせていただきます」
菜那は持ってきた買い物袋から順に食材を取り出していく。蒼司は菜那の邪魔にならないよう「お願いします」と一言残して、ソファーに座った。くいっと中指で眼鏡を押し上げ、パソコンを打ち始める。
……手抜きでもいい、か。
まさかそんな風に言われるとは思ってもいなかった。ジャガイモを洗いながら気が付かれないように蒼司をチラッと見る。仕事に集中しているのか菜那の視線には気が付かないようだ。
菜那はずっと全力で頑張ってきた。忙しい母親の代わりになるために家事にいそしみ、他の事に力を入れなかった菜那は家事だけが取り柄になってしまったというわけだ。
鍋に水を入れ、IHクッキングヒーターの電源を入れた。制限時間は二時間。洗ったジャガイモを茹でていくつかの料理に併用する。手際よく料理を進めていき、タコとブロッコリーのマリネ、ポテトサラダ、金平ごぼう、マッシュポテトの肉巻きを常備菜として作り、メンチカツを揚げ、ハンバーグを焼いて冷凍できるようにした。揚げ物だったらチンしても食べられるし、焼いてあるハンバーグを冷凍すれば凍ったまま電子レンジで温めて食べることも出来る。
蒼司に事前に用意しておいてもらったタッパーに出来上がった料理を詰め、冷ましている間にキッチンの掃除を済ませた。
よし、完成っ。
仕事に集中している蒼司を驚かさないように近づくと、パソコンの画面から何かの建築物らしきものが3D表示されているのが見えた。次に映し出されたのはヨーロピアンテイストの広々とした部屋。見てはいけないのかもしれないと思いつつも、蒼司が手掛けている建築物を見てみたいと思う気持ちが勝りじぃっと画面を見てしまう。
「凄い……」
思わず率直な感想が口から漏れた。菜那の小さな呟きの声に反応して蒼司が振り向く。
「びっくりした。全然気がつきませんでした」
「すいません、驚かしちゃいましたか?」
「ううん、大丈夫。凄いって、もしかしてこれを見てですか?」
画面を指さし、蒼司は首を傾げた。
「あ、そうです。見ちゃいけないと思いつつも凄くて……建築士さんって本当に凄いですよね。こんな素敵な部屋の設計を手掛けちゃうんですから」
菜那は瞳をキラキラさせながら腰を曲げ、パソコンの画面に顔を近づけた。
「俺は設計をして部屋のデザインまで考えますが、こういった細かなインテリアなどはデザイナーさんのお陰なんですよ。俺一人じゃ絶対にこんな素敵な部屋はつくれない」
「なるほど。皆さんの力が集まった素敵なお部屋ですね」
謙遜する蒼司にますます好感度が上がった。自分だけの手柄にするのではなく、しっかりと周りの力も大切にしてくれている。やっぱり優しい人なんだな、と思えた。
「俺もこのスイートはすごく気に入ってて、このホテルはあと半年くらいで完成予定なんです」
「凄い、スイートルーム。どうりで凄く豪華なんですね。こんな素敵な部屋、死ぬまでに一回くらいは泊まってみたいです」
「完成したら菜那さんを招待させてくださいね」
「そんなっ、今の発言は――」
気にしないで下さい、と言いたかったのに、顔を横に向けたら目と鼻の先に蒼司の顔が映し出され、思わず息を呑んだ。
ち、近っ……。
もう少し大きく顔を動かしていたら唇が当たっていたかもしれない。お互いの吐息が掛かりそうなくらいの距離に耐えきれず、菜那の方からバッと顔を逸らした。ドキドキと心臓が破裂しそうだ。
「もちろん泊まるのは俺と一緒に、ですけどね」
――え?
耳元で囁かれ、甘い吐息のせいでゾクリと背筋が震えた。
「あっ、あの! 作り置きの料理が完成しましたのでご確認をお願い致します!」
社交辞令なのか、それとも揶揄われているのか。恥ずかしさのあまり、少し声のボリュームがいつもより大きくなる。菜那は急いで立ち上がりキッチンへと素早い足取りで戻った。
追ってくるように眼鏡をはずした蒼司が菜那の隣に立つ。
「どれも美味そうですね」
感心した声でタッパーに綺麗に収まっている料理をまじまじと見ている。
「お口に合えば良いのですが」
「どれどれ~」
ひょいっと伸びた腕は親指と人差し指で金平ごぼうをひとつまみし、口に入れた。
「ん、うまい!」
蒼司が弾けた笑顔を見せる。また蒼司の長い腕が伸び、今度はタコを取りパクッと一口で食べてしまった。ペロリと汚れた指を舐める動作があまりにも色っぽい。人がつまみ食いする姿に思わず見入ってしまうのなんて初めてだ。
「菜那さんも食べますか?」
「へっ?」
いきなりの問いかけに間抜けな声を上げた時、ひょいっと口の中にタコが入ってきた。もちろん、蒼司の指先も口の中に触れ、慌てて唇を閉じたものだから蒼司の指に唇が触れてしまった。
「んんっ……」
噛み応えのあるタコを噛みしめながら蒼司を見ると漆黒の瞳が菜那を見つめていた。ゴクリとタコを飲み込んだ瞬間、蒼司がペロッと自分の親指を舐めたのだ。
やっ……!
舐めた指は菜那の口に触れた指だ。その指を美味しそうに舐めている姿に思わず息を呑む。まるで、自分の指を舐められているみたいな感覚になってしまう。ちゅっと音を鳴らして、蒼司は指を唇から離した。
「凄く、美味しいですよね」
甘すぎる声に身体から力が抜けそうになる。
「あっ、お、美味しいと言ってもらえてよかったです! で、では、冷蔵庫に閉まっておきますので食べるときは温めて食べてくださいね」
緊張からか話すスピードが速くなる。比例するように手元も素早く動き、菜那はテンポよくタッパーを冷蔵庫に閉まった。
「では、本日のご依頼は完了いたしましたので――」
帰ろうと終わりの挨拶をしているとテーブルの上で蒼司のスマートフォンが鳴り響いた。けれど蒼司は電話に出る気はなく、その場から動かない。着信は切れることなく、ずっと鳴っている。
「あの……お電話が鳴っていますので、お気になさらず出てください」
「あ~、すいません。気を使わせてしまいましたね。すぐ終わらせるんで、待っていてもらえますか?」
「わかりました」
蒼司はすみませんと軽く頭を下げながらテーブルの上のスマホを取り少し表情を歪めた。ほんの数秒、画面を眺めてからスマホを耳に当てる。菜那は聞いちゃいけないと思い、キッチンシンクの掃除を始めた。
「はい」
初めて聞くような低くて硬い蒼司の声色に驚いた。
今の声って宇賀屋様だよね? 別人みたい……。
聞いてはいけないとわかっているのに蒼司の事が気になってしまい、つい聞き耳を立ててしまう自分がいる。変わらず硬い相槌を打ちながら額に手を当て、明らかに困っている顔を見せた。
仕事でなにかあったのかな……? って、お客様のプライベートに踏み込んじゃダメダメ。
キュッキュッと音が鳴るくらいにシンクを綺麗に拭き上げて気を紛らわせた。
「何度も言ってるけど、俺はいかないからな」
「……いるんだよ。俺には決めた人が」
「勝手に話を進めるなよ。……って、切られたか」
――決めた人。
その言葉が菜那の中で妙にはっきり聞こえた。決めた人とは誰だろう。一般的に一番考えられるのは結婚相手、とかだと思うが蒼司の家には女の人の影は感じない。じゃあ、一体誰なんだろうか?
宇賀谷様、大丈夫かな……?
ちらりとバレないように横目で見ると、前髪を掻き上げ、蒼司は大きく溜息をついている。さりげなく見たはずなのに一瞬でばれてしまい、蒼司と目が合った。心臓を射抜かれてしまいそうなほどの鋭い目つきに思わず肩がビクッと震える。菜那は握っていた布巾を強く握りしめた。
「菜那さん」
あっという間に菜那の目の前に立つ蒼司はとても大きく見えた。けれど菜那を捉える瞳の鋭さは消えて、真剣で真っすぐな瞳が菜那を捉える。
「はい……、えっ?」
布巾ごと両手を握られ、蒼司の大きな手に菜那の小さな手はすっぽりと包み込まれた。
「菜那さん、俺と一緒にパーティーに参加してもらえませんか?」
「はい……?」
パーティー? 一緒に? 誰と誰が?
蒼司の言葉がなかなか理解できずにきょとんとしていると「菜那さん」と力強い声で名前を呼ばれてハッと我に返った。
「あ、あの……パーティーっておっしゃられていたような」
「そうです。言いました。菜那さんにしかこんなこと頼めないんです。お願いできませんか?」
闇のように真っ黒な瞳の中から小さな希望を求めている光が菜那を捉える。何度も助けてもらった人の頼みごとを「無理です」と断るなんて出来るはずない。
「私なんかでいいんでしょうか?」
少し、声が震えそうになる。自分に自信もない。取柄もない。できることは家事だけ。それでも蒼司の力になれるというのだろうか。
「俺は菜那さんがいいんです」
はっきり、菜那がいいと言われた。艶やかな唇が菜那と口にするたびに何故かドクンと心臓が反応する。
「……わかりました。参加します」
何度も自分を助けてくれた蒼司の役に立ちたい。その思いで菜那はハッキリと口にした。
蒼司の瞳の中の光が大きくなったような気がする。
「ありがとうございます。急なんですけどそのパーティーって明日なんです」
「へっ? 明日!?」
菜那の驚きを含んだ大きな声が広いリビングに響いた。
菜那の中で異様な存在感を示す蒼司のおかげで正直元カレのことはすっかり思い出すことはない。仕事で落ち込んでいたけれど、また頑張ろうという気持ちにもなれた。彼からもらう言葉によって、温もりによって、菜那の傷ついた心を確実に埋めていってくれるのだ。
付き合ってもいない男の人と、出会ったばかりのお客様に、慰めてもらうような優しいキス。突然のキスだったはずなのに、それはとても甘くて柔らかかった。思い出しただけでもキュンと胸が痛むほど。
「今日、伝えないとな」
大きく息を吸って、深く吐いた。菜那の目の前には高級マンションのインターホン。今日も蒼司に指名され、カジハンドの仕事として訪れた。料理の味を気に入ってくれたらしく、今日は作り置きの依頼が入っている。食材がたくさん入っている大きな買い物袋を持ち、腕には蒼司から借りていた傘とクリーニングに出したジャケットをぶら下げてきた。冬なのに今日は大荷物だったせいか、身体がいい感じに温まり、外でも寒さを感じない。
よし……。
心臓をドキドキと鳴らしながらインターホンへ指を伸ばす。ピンポーンと軽やかな音が鳴るとすぐに蒼司の声が聞こえた。
「菜那さん、来てくれてありがとう。開けたから入ってきてください」
顔が見えなくても分かるくらいに蒼司の声が弾んでいる。思わず菜那も嬉しくなり、頬が緩んだ。
「カジハンドの堀川です。失礼いたします」
蒼司の家に近づいていくほど、心臓が身体から駆け出しそうな程大きく跳ね続ける。
「ん? あれって、もしかして……」
歩き進めていると前から蒼司がこっちへ向かってきていた。今日は仕事だったのか、ワイシャツ姿に眼鏡をかけている。
「菜那さん」
「宇賀谷様! 本日もどうぞよろしくお願いいたします」
「菜那さんのハンバーグの味が忘れられなくてすぐに予約してしまいました」
「あ、ありがとうございます」
蒼司の言葉が素直に嬉しい。お客様に満足していただけてこそ、やりがいのある仕事だから。
「それ、貸してください」
蒼司はすっと菜那の持っていた買い物袋を手に取った。ワイシャツの裾から見える高級そうな腕時計がキラリと光り、この人は自分とは別世界の人だったと思い出す。
「あっ……自分で持ちますので大丈夫です!」
慌てて手を伸ばすも、蒼司に「いいですから」と腕を遮られてしまう。
「本当に、私の仕事ですのでっ」
「ん~、そうですか。じゃあ、そっちのと交換しましょうか」
指をさしたのは菜那の腕にかかっていた蒼司の傘とジャケットだった。
交換するもなにも、これは宇賀谷様のなのに……。
菜那は両手で傘とジャケットを持ち、蒼司の前に差し出した。
「あの日はありがとうございました。本当に何度お礼を言っても足りないくらいです。傘とジャケット、ありがとうございました」
「わざわざご丁寧にありがとうございます」
蒼司は嬉しそうに微笑むと傘とジャケットを片手で受け取る。
「じゃあ……」
買い物袋に菜那が手を伸ばすと蒼司はその手をスルーして歩き始めた。これでは全て蒼司が持っていることになる。菜那は歩き始めた蒼司の後を慌ててついていった。
「宇賀谷様っ、それでは話が違います! 私が何も持ててないじゃないですかっ」
「ん~? いいんですよ。それで」
後ろから話しかけた菜那の方に少しだけ顔を向けて、蒼司は満足げに口角を上げている。もう諦めて蒼司に甘えることにした。実際、重い荷物を持って歩いていたので体温が上昇していたので助かった。けれど、荷物を持っていないはずなのに、なんでだろうか。顔も、身体も真夏の太陽の下にいるかのように熱い。
「じゃあ、どうぞ上がってください」
「し、失礼いたします」
火照った身体のまま、玄関を上がり、リビングに入ると菜那はクリっとした大きな瞳をさらに大きく見開いた。
「わぁ……」
もう散らかっている。あっという間に身体の火照りは冷めていき、目の前の光景にただただ驚いた。菜那の驚いた様子に気が付いた蒼司は恥ずかしそうに頭を掻きながら口を開く。
「綺麗にしてもらったのに、すいません。どうも一人だと、手をぬいちゃうというか、なんというか……って言い訳なんですけどね」
その姿がクールな外見とは裏腹に物凄く可愛く見えた。
「いえ、その気持ちわかります。私も一人暮らしなんですけど、料理するのが面倒で鍋なんて一気に作って三日は食べますよ」
「へぇ、意外。でも手抜きっていいですよね、その分違うことに時間を使えますし」
「そう、ですかね。……では、早速ですが本日のご依頼に取り掛からせていただきます」
菜那は持ってきた買い物袋から順に食材を取り出していく。蒼司は菜那の邪魔にならないよう「お願いします」と一言残して、ソファーに座った。くいっと中指で眼鏡を押し上げ、パソコンを打ち始める。
……手抜きでもいい、か。
まさかそんな風に言われるとは思ってもいなかった。ジャガイモを洗いながら気が付かれないように蒼司をチラッと見る。仕事に集中しているのか菜那の視線には気が付かないようだ。
菜那はずっと全力で頑張ってきた。忙しい母親の代わりになるために家事にいそしみ、他の事に力を入れなかった菜那は家事だけが取り柄になってしまったというわけだ。
鍋に水を入れ、IHクッキングヒーターの電源を入れた。制限時間は二時間。洗ったジャガイモを茹でていくつかの料理に併用する。手際よく料理を進めていき、タコとブロッコリーのマリネ、ポテトサラダ、金平ごぼう、マッシュポテトの肉巻きを常備菜として作り、メンチカツを揚げ、ハンバーグを焼いて冷凍できるようにした。揚げ物だったらチンしても食べられるし、焼いてあるハンバーグを冷凍すれば凍ったまま電子レンジで温めて食べることも出来る。
蒼司に事前に用意しておいてもらったタッパーに出来上がった料理を詰め、冷ましている間にキッチンの掃除を済ませた。
よし、完成っ。
仕事に集中している蒼司を驚かさないように近づくと、パソコンの画面から何かの建築物らしきものが3D表示されているのが見えた。次に映し出されたのはヨーロピアンテイストの広々とした部屋。見てはいけないのかもしれないと思いつつも、蒼司が手掛けている建築物を見てみたいと思う気持ちが勝りじぃっと画面を見てしまう。
「凄い……」
思わず率直な感想が口から漏れた。菜那の小さな呟きの声に反応して蒼司が振り向く。
「びっくりした。全然気がつきませんでした」
「すいません、驚かしちゃいましたか?」
「ううん、大丈夫。凄いって、もしかしてこれを見てですか?」
画面を指さし、蒼司は首を傾げた。
「あ、そうです。見ちゃいけないと思いつつも凄くて……建築士さんって本当に凄いですよね。こんな素敵な部屋の設計を手掛けちゃうんですから」
菜那は瞳をキラキラさせながら腰を曲げ、パソコンの画面に顔を近づけた。
「俺は設計をして部屋のデザインまで考えますが、こういった細かなインテリアなどはデザイナーさんのお陰なんですよ。俺一人じゃ絶対にこんな素敵な部屋はつくれない」
「なるほど。皆さんの力が集まった素敵なお部屋ですね」
謙遜する蒼司にますます好感度が上がった。自分だけの手柄にするのではなく、しっかりと周りの力も大切にしてくれている。やっぱり優しい人なんだな、と思えた。
「俺もこのスイートはすごく気に入ってて、このホテルはあと半年くらいで完成予定なんです」
「凄い、スイートルーム。どうりで凄く豪華なんですね。こんな素敵な部屋、死ぬまでに一回くらいは泊まってみたいです」
「完成したら菜那さんを招待させてくださいね」
「そんなっ、今の発言は――」
気にしないで下さい、と言いたかったのに、顔を横に向けたら目と鼻の先に蒼司の顔が映し出され、思わず息を呑んだ。
ち、近っ……。
もう少し大きく顔を動かしていたら唇が当たっていたかもしれない。お互いの吐息が掛かりそうなくらいの距離に耐えきれず、菜那の方からバッと顔を逸らした。ドキドキと心臓が破裂しそうだ。
「もちろん泊まるのは俺と一緒に、ですけどね」
――え?
耳元で囁かれ、甘い吐息のせいでゾクリと背筋が震えた。
「あっ、あの! 作り置きの料理が完成しましたのでご確認をお願い致します!」
社交辞令なのか、それとも揶揄われているのか。恥ずかしさのあまり、少し声のボリュームがいつもより大きくなる。菜那は急いで立ち上がりキッチンへと素早い足取りで戻った。
追ってくるように眼鏡をはずした蒼司が菜那の隣に立つ。
「どれも美味そうですね」
感心した声でタッパーに綺麗に収まっている料理をまじまじと見ている。
「お口に合えば良いのですが」
「どれどれ~」
ひょいっと伸びた腕は親指と人差し指で金平ごぼうをひとつまみし、口に入れた。
「ん、うまい!」
蒼司が弾けた笑顔を見せる。また蒼司の長い腕が伸び、今度はタコを取りパクッと一口で食べてしまった。ペロリと汚れた指を舐める動作があまりにも色っぽい。人がつまみ食いする姿に思わず見入ってしまうのなんて初めてだ。
「菜那さんも食べますか?」
「へっ?」
いきなりの問いかけに間抜けな声を上げた時、ひょいっと口の中にタコが入ってきた。もちろん、蒼司の指先も口の中に触れ、慌てて唇を閉じたものだから蒼司の指に唇が触れてしまった。
「んんっ……」
噛み応えのあるタコを噛みしめながら蒼司を見ると漆黒の瞳が菜那を見つめていた。ゴクリとタコを飲み込んだ瞬間、蒼司がペロッと自分の親指を舐めたのだ。
やっ……!
舐めた指は菜那の口に触れた指だ。その指を美味しそうに舐めている姿に思わず息を呑む。まるで、自分の指を舐められているみたいな感覚になってしまう。ちゅっと音を鳴らして、蒼司は指を唇から離した。
「凄く、美味しいですよね」
甘すぎる声に身体から力が抜けそうになる。
「あっ、お、美味しいと言ってもらえてよかったです! で、では、冷蔵庫に閉まっておきますので食べるときは温めて食べてくださいね」
緊張からか話すスピードが速くなる。比例するように手元も素早く動き、菜那はテンポよくタッパーを冷蔵庫に閉まった。
「では、本日のご依頼は完了いたしましたので――」
帰ろうと終わりの挨拶をしているとテーブルの上で蒼司のスマートフォンが鳴り響いた。けれど蒼司は電話に出る気はなく、その場から動かない。着信は切れることなく、ずっと鳴っている。
「あの……お電話が鳴っていますので、お気になさらず出てください」
「あ~、すいません。気を使わせてしまいましたね。すぐ終わらせるんで、待っていてもらえますか?」
「わかりました」
蒼司はすみませんと軽く頭を下げながらテーブルの上のスマホを取り少し表情を歪めた。ほんの数秒、画面を眺めてからスマホを耳に当てる。菜那は聞いちゃいけないと思い、キッチンシンクの掃除を始めた。
「はい」
初めて聞くような低くて硬い蒼司の声色に驚いた。
今の声って宇賀屋様だよね? 別人みたい……。
聞いてはいけないとわかっているのに蒼司の事が気になってしまい、つい聞き耳を立ててしまう自分がいる。変わらず硬い相槌を打ちながら額に手を当て、明らかに困っている顔を見せた。
仕事でなにかあったのかな……? って、お客様のプライベートに踏み込んじゃダメダメ。
キュッキュッと音が鳴るくらいにシンクを綺麗に拭き上げて気を紛らわせた。
「何度も言ってるけど、俺はいかないからな」
「……いるんだよ。俺には決めた人が」
「勝手に話を進めるなよ。……って、切られたか」
――決めた人。
その言葉が菜那の中で妙にはっきり聞こえた。決めた人とは誰だろう。一般的に一番考えられるのは結婚相手、とかだと思うが蒼司の家には女の人の影は感じない。じゃあ、一体誰なんだろうか?
宇賀谷様、大丈夫かな……?
ちらりとバレないように横目で見ると、前髪を掻き上げ、蒼司は大きく溜息をついている。さりげなく見たはずなのに一瞬でばれてしまい、蒼司と目が合った。心臓を射抜かれてしまいそうなほどの鋭い目つきに思わず肩がビクッと震える。菜那は握っていた布巾を強く握りしめた。
「菜那さん」
あっという間に菜那の目の前に立つ蒼司はとても大きく見えた。けれど菜那を捉える瞳の鋭さは消えて、真剣で真っすぐな瞳が菜那を捉える。
「はい……、えっ?」
布巾ごと両手を握られ、蒼司の大きな手に菜那の小さな手はすっぽりと包み込まれた。
「菜那さん、俺と一緒にパーティーに参加してもらえませんか?」
「はい……?」
パーティー? 一緒に? 誰と誰が?
蒼司の言葉がなかなか理解できずにきょとんとしていると「菜那さん」と力強い声で名前を呼ばれてハッと我に返った。
「あ、あの……パーティーっておっしゃられていたような」
「そうです。言いました。菜那さんにしかこんなこと頼めないんです。お願いできませんか?」
闇のように真っ黒な瞳の中から小さな希望を求めている光が菜那を捉える。何度も助けてもらった人の頼みごとを「無理です」と断るなんて出来るはずない。
「私なんかでいいんでしょうか?」
少し、声が震えそうになる。自分に自信もない。取柄もない。できることは家事だけ。それでも蒼司の力になれるというのだろうか。
「俺は菜那さんがいいんです」
はっきり、菜那がいいと言われた。艶やかな唇が菜那と口にするたびに何故かドクンと心臓が反応する。
「……わかりました。参加します」
何度も自分を助けてくれた蒼司の役に立ちたい。その思いで菜那はハッキリと口にした。
蒼司の瞳の中の光が大きくなったような気がする。
「ありがとうございます。急なんですけどそのパーティーって明日なんです」
「へっ? 明日!?」
菜那の驚きを含んだ大きな声が広いリビングに響いた。
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入海月子
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