エリート建築士は傷心した彼女を愛し抜きたい

森本イチカ

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 デミグラスソースのかかったハンバーグからはゆらゆらと熱々の証拠の湯気が立っている。ブロッコリーと人参の付け合わせに白米でハンバーグプレートが完成した。
「宇賀谷様、出来上がりました」
 買い物から帰ってきてからもパソコンに向かっていたので、そっと後ろから話しかける。
「凄く良い匂いがするなって思いながら待ってました。菜那さんの手料理、楽しみだ」
 ぐーっと両肩を伸ばしながら立ち上がった蒼司は嬉しそうにダイニングテーブルに向かってくる。料理を目にすると笑っている時以外はクールな瞳がまん丸になり、まるで子供のように瞳がキラキラしていた。
「凄く美味しそうです。お店のハンバーグより綺麗です」
「そんな、普通ですよ。一般家庭の味かな、と思います。お口に合うかはわかりませんがどうぞ召し上がってください」
 蒼司の食事の邪魔にならないよう、菜那はキッチンに戻った。
「あ、そうか、菜那さんは食べないのか……家事代行は初めてだから勝手がわからなくて、次は一緒に食べませんか?」
「……一緒にですか?」
 ダイニングテーブルに一人分だけ用意された料理に蒼司は少しだけ肩を落としているように見える。一緒に食べたいとお客様から言われたのは初めてで、拭いていたお皿を思わず落としそうになった。
「あ、業務中だから規則があるんですかね。すみません、困らせてしまいましたね」
「いえ、困るだなんてことは。でも申し訳ございません」
「謝らないでください。業務外、ならいいんですもんね?」
 真っすぐに菜那を見つめてくる蒼司とキッチン越しに目が合う。
「え……?」
「いえ、じゃあ食べようかな。いただきます」
 蒼司は指の先まで綺麗に揃えて両手を合わせ、いただきますをした。その姿があまりにも綺麗で思わず見惚れてしまう。
 綺麗な姿勢……ってダメダメ、見すぎちゃ!
 蒼司から視線を外し、菜那はキッチンの後片づけに没頭した。
 綺麗にコンロを掃除したところで蒼司が食べ終わったらしくキッチンにお皿を運んできた。
「ご馳走様でした。久しぶりに凄く美味しいご飯を食べられました。美味しかったです」
 お礼の言葉を言いながらふわりと優しい笑顔を見せる蒼司にぽわんと心が温かくなる。素直に嬉しかった。
 あぁ、そうだ、私……。
 この言葉が嬉しくて、家事が好きになったんだ。
 小学生の時、目玉焼きを焼いただけの夜ご飯を初めて母の為に作った時のことを今でも鮮明に覚えている。涙ぐんだ瞳の母の口から出た「美味しかった」が凄く嬉しかったこと。
 美味しかった、そのたった一言が菜那の原動力の源だった。
「……菜那さん?」
 蒼司の驚いたような声。いつの間にか菜那の頬に涙が一筋、伝っていた。
「あっ、す、すみません。本当に気にしないでくださいっ。あれ? どうしたのかな? 目にゴミが入ったのかも」
 あふれ出す涙になんとか苦し紛れの言い訳を言いながら、蒼司に背を向けた。止まれ、止まれ。何度も自分の服の袖で涙を拭くが一向に止まらない。それほど蒼司の美味しかったという言葉は傷心していた菜那の心には深く突き刺さったようだ。同時に母の事も思い出してしまい尚更涙が壊れてしまった蛇口のように溢れ出る。
 ぎゅっと、背中に熱を感じた。
「っ……」
 大きな身体が菜那の泣き震える小さな身体をきつく抱きしめている。
「何があったかは分からないけど、我慢しないで泣いていいんですよ」
 自分を後ろから包み込んでくれている蒼司が耳元で優しく囁いた。
「貴女はよく頑張っています。汚かった俺の部屋をこんなにも綺麗にしてくれて、美味しいご飯を作ってくれて、少なくても俺は菜那さんにとても感謝しています」
「っ、私、う、宇賀谷さんの前で泣いてばっかりで……ごめっ、ごめんなさいっ……まだ仕事中、なのにっ……」
「気にすることなんてありません。でも、泣くのは俺の前だけにして」
 ――え?
 くるりと身体を動かされ、涙でぐしゃぐしゃになった瞳が蒼司と真剣な視線と絡み合った。
「宇賀谷、様……?」
「こんなにも可愛くて、無防備な姿、他の男に見せたくない」
「なっ――」
 引き寄せられてしまいそうな熱い視線に菜那は大きく目を見開く。あまりにもストレートすぎる言葉に菜那は返す言葉も見つからない。驚きのあまり止まらなかった涙は少し減り、瞳に溜まっている。
 そっと蒼司の大きな手が右頬に触れ、一瞬の出来事だった。
 自分の唇に蒼司の熱い唇が重なっている。
「んっ……」
 腰はきつく抱き寄せられ、離れることができない。けれど、突飛ばそうとは到底思えなかった。それよりも蒼司から感じる熱が心地よくて、ズタズタに傷ついて壊れそうだった心を修復してくれるかのよう。ポロリと溜まっていた涙が一粒の雫となって頬を流れた。
 ゆっくりと離れていく唇にじわじわと現実に引き戻される。
「菜那さん」
「あ……」
 キスしてしまった。しかもお客様と。
「あっ、えっと、そのっ……」
 菜那が口籠っているとタイミングよくスマホのアラームがピピピ、ピピピと鳴った。
「あ、お時間になってしまいましたのでこれにて失礼いたしますっ!」
「えっ、ちょっとっ」
 呼び止める蒼司の事を無視して、勢いよく自分の荷物を鞄に詰め込み、走り去るようにして蒼司の家を出た。
 どどどどどどどうしよう!
 ――キス、してしまった。
 バックン、バックンと心臓が破裂しそうな勢いで動いている。エレベーターという小さな個室に一人だからだろうか。余計に心臓の音が大きく感じる。
 どうしていいのか分からなくて逃げてきちゃってけど……でも……。
 菜那は両手で緩む口元を隠した。
 嬉しかった。
 蒼司の言葉が、蒼司の温もりが、彼から与えられるもの全てが菜那の中に溶け込むように入ってくる。出会った時から彼は優しかった。だからきっと、傷だらけの菜那の心を彼は絆創膏を張ってくれたのかもしれない。
「また、頑張ろう……」
 頬を緩ませながら菜那はボソリと呟いた。
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