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「菜那ちゃん、大丈夫? 今日のところはもう帰っていいわ」
「あ……」
ガタガタと震えて社長の後ろにいることしか出来ず、いつの間にか会社の駐車場に着いていた。ついていったところで近藤の怒りはさらに増し、社長に迷惑しかかけていない自分に悔しさで涙がこぼれそうになる。
「社長……本当に申し訳ございませんでした……」
「いいのよ。私は菜那ちゃんがやったなんて一ミリも思ってないから。今回はちょっと相手が悪かっただけ。いつも優しいお客様ばかりじゃないってことね。家に帰ってゆっくり休みなさい」
肩を優しくポンっと叩かれ、スイッチを押されたように涙が頬を伝った。
「ほら、泣かないの」
「すいません、すいませんっ……」
「気を付けて帰りなさい。私は上に戻るわね」
菜那はコクリと頷いて涙で滲む社長の背中を見送った。
「っ……ぐすっ……」
今までクレームというクレームをもらったことのなかった菜那には悪意のこもった怒鳴り声に心をえぐられてしまった。鞄からハンカチを取り出し、濡れた瞳や頬を拭く。泣いている姿を他の人に見られたらまた心配をかけてしまうかもしれない。ここに居ても今は何もできない。大きく深呼吸をして、気持ちを無理矢理落ち着かせた。
「帰ろう……」
ハンカチをしまおうと鞄を開くとスマートフォンがちょうど鳴った。メッセージアプリを開くと樹生からだった。
『悪い。忙しくて連絡遅れた。風邪ひいてちょっとダウンしてるからしばらく会えないわ』
そうだったんだ……大丈夫かな?
仕事が忙しくて体調を崩してしまったのだろうか。もしかしたら忙しさを理由にちゃんとご飯を食べていなかったのかもしれない。樹生は忙しいとカップラーメンばかり食べて野菜を全く取らないから。
『大丈夫? 何か必要なものがあったら買っていくよ』
すぐに返信をしたが既読にはならなかった。もしかしたら、熱でも出して寝込んでいるのかもしれない。
心配だし、樹生の様子見に行こうかな……。
それに、今日は一人でいたくない。一人でいると昼間の事を思い出して泣きそうになる。色々と余計なことまで考えてしまいそうだ。菜那はスマホを握りしめてスーパーに向かって歩き出した。
エコバッグに卵やネギ、しばらくの作り置き料理を作れるようにある程度の食材を買って樹生の家に向かった。あまり使うことのない合鍵が自分のアパートの鍵と一緒にぶら下がっている。樹生のアパートの鍵を選び、玄関を開けた。
「樹生? 大丈夫?」
え――?
入ってすぐに目に入ってきたのは女物のヒール。一瞬自分のものかと思ったがピンクベージュの可愛らしい色のものなんて自分は持っていない。ドッドッドッドッと心臓が痛いくらいに早く動き出した。
お、お客さんが来ているのかもしれないし……。
そっと息を呑んで一歩一歩進んでいく。リビングに入っても樹生の姿は見当たらない。残るはリビングの隣にある寝室だけだ。でももう分かり切っている。寝室から漏れてくる女の甘い声に気が付かないはずがない。
で、でも、もしかしたらAVでも見てるのかもしれないし……。
なんて現実逃避をしようとさえ思ってしまう。
「あぁっ……気もちぃっ、生樹もっとおっ……んぁぁ!」
「くっ……すげぇ気持ちいい……アイツとは比べもんになんねぇよ。あ~最高~っ」
扉越しに聞こえる女の声に樹生の声も交えて聞こえてきた。
「ひっ……」
喉が閉まり、息が苦しくなる。
あぁ、これは現実なんだ……。
力ない手で引き戸を開くと二人で一緒に何度も寝たシングルベッドの上で樹生が必死に腰を振っていた。
「っ!? 菜那!? なんでっ……」
立ち尽くす菜那を見た樹生が慌てて動きを止め、布団で女を隠した。
隠しても無駄なのに……。
はっきりとこの目で樹生に抱かれている女の姿を見てしまった。本来ならばあそこにいるのは自分のはずなのに、なんで一人でここに立っているのだろう?
「風邪、引いたって言ってたから……」
エコバッグを握っていた右手に必要以上の力が入る。
「なのに、どういうこと……?」
震えそうになる唇を噛みしめながら樹生を見た。とてもじゃないけれど、布団の中に隠れている女の方を見る気にもなれない。樹生は悪びれる様子もなくベッドから降り、ボクサーパンツを履いた。
「見てのまんまだよ。浮気した。だから別れてくんね?」
……え?
自分に言われたであろう言葉が信じられなくて、信じたくなくて、言葉が出てこない。喉のすぐそこまで「嘘でしょう?」と出てきているのに声に出すことが出来ずに、唇が震えだす。
樹生は髪をガシガシと掻きながらボスンッとベッドに腰かけた。
「もうさ、菜那のこと女として見れないんだわ。なんつーかおかんみたいなんだよね。エコバッグにネギってまさにおかんじゃん」
「なっ……」
それは樹生が風邪をひいたって言うからおかゆを作ろうかと思って買ってきたものだ。心配して買ってきたものをそんな風に言われるなんて思いもしなかった。
樹生って、こんな人だったの……?
毎日一緒というわけではなかったが樹生とは高校も一緒だったし、五年も側にいた。それなのに、この五年で初めて見る樹生の姿に驚きが隠せない。
「ねぇ、もういい加減布団の中苦しいんだけどぉ?」
ばさりと布団から顔を出した女が気だるげに前髪を掻き上げ、ふっと鼻で笑った。明らかに菜那の方を見て勝ち誇ったように笑ったのだ。
「……っ」
菜那の顔が耳まで真っ赤に染まり上がった。今、完全に自分が負け犬になっていることの恥ずかしさと、悲しさと、苛立ちと、何種類もの感情に身体が侵食され視界がぐらつく。
もう、この場にはいられない。
菜那は零れ落ちてきそうな涙を堪えながら走って樹生の家を出た。きっとこの場で悲しみの声を出したらばらばらと崩れ落ちながら泣いてしまいそうだったから。
「なんで……っ」
どうしてこうなってしまったんだろう?
樹生には自分なりに精一杯尽くしてきたつもりだった。料理の苦手な樹生のために得意な自分が作って、休日は二人で過ごしたり、インドアだったけれどたまに二人で出かけたりするのが凄く楽しかった。樹生も同じ気持ちだと思っていたのに……おかんと思われていたなんて……。
今日の近藤だってそうだ。一生懸命部屋のゴミを捨てて、片づけをして、次の時はもっと早く進められるように頑張ろうと思っていたのに、泥棒扱いされるなんて。頑張った結果がこれとは世の中はなんて理不尽な世界なのだろうか。
「ははっ……うぅ……ッ」
息が苦しい。自分の周りに酸素がなくなってしまったかのように浅くしか呼吸ができない。
全力で走って樹生の家から離れたからだろうか。それとも、苦しい感情に押しつぶされそうになっているからだろうか。分からない。足も疲れた。走る速度はだんだんと遅くなり、菜那の足はピタリと止まった。
「っ……くっ……」
必死で堪えようと思うほど感情が涙になって零れ落ちてくる。真昼間の街中で泣いている女ほど視線を集めるものはない。通りすがりの人の不思議そうな視線をひしひしと感じる。
止まれっ……止まってっ……。
強く思っても瞳から溢れる雫は止まることを知らないらしい。何度も自分の手で涙を拭い、手の甲はびしょびしょだ。
「はぁっ……んっ……」
頬に冷たさを感じた。雨だ。ポツポツと降り始めた雨は次第に強くなっていく。
「天気予報、振るなんて言ってなかったのに……」
折り畳み傘は鞄に入っていない。突然の大雨に周りの通行人も慌て雨から逃れようと走り出している。
もう、ちょうどいいや……。
雨がきっとこの涙を隠してくれる。菜那はゆっくりと歩き始めた。人々は雨に気を取られて泣いている自分なんかに気が付くはずがない。身体を派手に濡らす雨など気にせずにふらふらと家へ向かった。視界も雨なのか、涙のせいなのか分からないくらいぼんやりとしている。
あ、なんか黒い影――と思った時にはもう遅かったらさい。菜那の身体は目の前に現れた黒い影に力なくぶつかっていた。
「っと、大丈夫ですか?」
「……っあ」
ぶつかった小さな反動で後ろに倒れそうになったはずの身体が抱きしめられている。頬に冷たい雨の粒を感じない。
「また、会いましたね」
優しい声が頭上に降りそそぐ。ゆっくり顔を上げると菜那を抱きとめてくれたのは昨日、足元を滑らせたときに助けてくれた彼だった。
「あ……」
視界がぼやけていたはずなのに、この雨の中でもわかる。目を柔らかに細めて、優しい表情。
ぶつかってしまったのは自分なのに責めることもなく、優しい顔を向けてくれている。名前も知らない赤の他人なのに、弱っている菜那にはその柔らかな視線だけで十分だった。プツンと糸が切れたように感情が沸騰して吹き出す。
「うぅっ……わわぁ――……」
泣き崩れる菜那を名前も何も知らない彼は人目から隠すように抱き寄せ、傘で隠してくれた。力強いのに優しいという矛盾する彼の腕の中はとても心地よい。だからだろうか。優しさに触れ、降っている雨に負けないくらい涙が溢れてくる。
何分泣いたか分からない。雨も大分小雨になりかけている。
段々と冷静になった菜那は自分が余りにも大胆なことをしてしまったことに気が付いた。
やだっ……私ったら全然知らない人なのに……。
「……す、すみませんでしたっ」
すっと身体を彼から離し、小さく頭を下げた。
「突然の雨でしたから。泣きたくなりますよね」
「え……あ、はい……ッ!?」
彼の親指が菜那の頬に触れた。驚いて大きく目を見開いてしまったが彼は拭き残した涙をぬぐってくれたようだ。過剰反応してしまった自分が恥ずかしい。
「す、すみません……」
「いえ、まだ涙が頬に残っていたから、つい。ご自宅は近いんですか?」
「あ、はい……」
「そうなんですね。ちょっと傘をもっていてくれませんか?」
傘を手渡され、反射的に持ってしまった。彼が濡れないように手を差し伸ばす。彼は着ていたジャケットを脱ぎ、菜那に羽織らせた。
「えっ? あ、あのっ」
「自宅まで送っていきたいですけど、さすがに成人男性が会ったばかりの女性の自宅まで行くのは怖いでしょう? 気を付けて帰ってくださいね」
「え、ちょっと!」
菜那が断わる隙を与えずに彼は走り去ってしまった。パシャパシャと小さな水飛沫を飛ばしながら走り去る背中に菜那は呟いた。
「……ありがとうございます」
理不尽な世の中だと思ったけれど、やっぱり世界は優しいのかもしれない。たった一人に優しくしてもらえただけなのに、ぱぁっと心が晴れた気がした。
また、明日から頑張ろう。そう思えた。
「あ……」
ガタガタと震えて社長の後ろにいることしか出来ず、いつの間にか会社の駐車場に着いていた。ついていったところで近藤の怒りはさらに増し、社長に迷惑しかかけていない自分に悔しさで涙がこぼれそうになる。
「社長……本当に申し訳ございませんでした……」
「いいのよ。私は菜那ちゃんがやったなんて一ミリも思ってないから。今回はちょっと相手が悪かっただけ。いつも優しいお客様ばかりじゃないってことね。家に帰ってゆっくり休みなさい」
肩を優しくポンっと叩かれ、スイッチを押されたように涙が頬を伝った。
「ほら、泣かないの」
「すいません、すいませんっ……」
「気を付けて帰りなさい。私は上に戻るわね」
菜那はコクリと頷いて涙で滲む社長の背中を見送った。
「っ……ぐすっ……」
今までクレームというクレームをもらったことのなかった菜那には悪意のこもった怒鳴り声に心をえぐられてしまった。鞄からハンカチを取り出し、濡れた瞳や頬を拭く。泣いている姿を他の人に見られたらまた心配をかけてしまうかもしれない。ここに居ても今は何もできない。大きく深呼吸をして、気持ちを無理矢理落ち着かせた。
「帰ろう……」
ハンカチをしまおうと鞄を開くとスマートフォンがちょうど鳴った。メッセージアプリを開くと樹生からだった。
『悪い。忙しくて連絡遅れた。風邪ひいてちょっとダウンしてるからしばらく会えないわ』
そうだったんだ……大丈夫かな?
仕事が忙しくて体調を崩してしまったのだろうか。もしかしたら忙しさを理由にちゃんとご飯を食べていなかったのかもしれない。樹生は忙しいとカップラーメンばかり食べて野菜を全く取らないから。
『大丈夫? 何か必要なものがあったら買っていくよ』
すぐに返信をしたが既読にはならなかった。もしかしたら、熱でも出して寝込んでいるのかもしれない。
心配だし、樹生の様子見に行こうかな……。
それに、今日は一人でいたくない。一人でいると昼間の事を思い出して泣きそうになる。色々と余計なことまで考えてしまいそうだ。菜那はスマホを握りしめてスーパーに向かって歩き出した。
エコバッグに卵やネギ、しばらくの作り置き料理を作れるようにある程度の食材を買って樹生の家に向かった。あまり使うことのない合鍵が自分のアパートの鍵と一緒にぶら下がっている。樹生のアパートの鍵を選び、玄関を開けた。
「樹生? 大丈夫?」
え――?
入ってすぐに目に入ってきたのは女物のヒール。一瞬自分のものかと思ったがピンクベージュの可愛らしい色のものなんて自分は持っていない。ドッドッドッドッと心臓が痛いくらいに早く動き出した。
お、お客さんが来ているのかもしれないし……。
そっと息を呑んで一歩一歩進んでいく。リビングに入っても樹生の姿は見当たらない。残るはリビングの隣にある寝室だけだ。でももう分かり切っている。寝室から漏れてくる女の甘い声に気が付かないはずがない。
で、でも、もしかしたらAVでも見てるのかもしれないし……。
なんて現実逃避をしようとさえ思ってしまう。
「あぁっ……気もちぃっ、生樹もっとおっ……んぁぁ!」
「くっ……すげぇ気持ちいい……アイツとは比べもんになんねぇよ。あ~最高~っ」
扉越しに聞こえる女の声に樹生の声も交えて聞こえてきた。
「ひっ……」
喉が閉まり、息が苦しくなる。
あぁ、これは現実なんだ……。
力ない手で引き戸を開くと二人で一緒に何度も寝たシングルベッドの上で樹生が必死に腰を振っていた。
「っ!? 菜那!? なんでっ……」
立ち尽くす菜那を見た樹生が慌てて動きを止め、布団で女を隠した。
隠しても無駄なのに……。
はっきりとこの目で樹生に抱かれている女の姿を見てしまった。本来ならばあそこにいるのは自分のはずなのに、なんで一人でここに立っているのだろう?
「風邪、引いたって言ってたから……」
エコバッグを握っていた右手に必要以上の力が入る。
「なのに、どういうこと……?」
震えそうになる唇を噛みしめながら樹生を見た。とてもじゃないけれど、布団の中に隠れている女の方を見る気にもなれない。樹生は悪びれる様子もなくベッドから降り、ボクサーパンツを履いた。
「見てのまんまだよ。浮気した。だから別れてくんね?」
……え?
自分に言われたであろう言葉が信じられなくて、信じたくなくて、言葉が出てこない。喉のすぐそこまで「嘘でしょう?」と出てきているのに声に出すことが出来ずに、唇が震えだす。
樹生は髪をガシガシと掻きながらボスンッとベッドに腰かけた。
「もうさ、菜那のこと女として見れないんだわ。なんつーかおかんみたいなんだよね。エコバッグにネギってまさにおかんじゃん」
「なっ……」
それは樹生が風邪をひいたって言うからおかゆを作ろうかと思って買ってきたものだ。心配して買ってきたものをそんな風に言われるなんて思いもしなかった。
樹生って、こんな人だったの……?
毎日一緒というわけではなかったが樹生とは高校も一緒だったし、五年も側にいた。それなのに、この五年で初めて見る樹生の姿に驚きが隠せない。
「ねぇ、もういい加減布団の中苦しいんだけどぉ?」
ばさりと布団から顔を出した女が気だるげに前髪を掻き上げ、ふっと鼻で笑った。明らかに菜那の方を見て勝ち誇ったように笑ったのだ。
「……っ」
菜那の顔が耳まで真っ赤に染まり上がった。今、完全に自分が負け犬になっていることの恥ずかしさと、悲しさと、苛立ちと、何種類もの感情に身体が侵食され視界がぐらつく。
もう、この場にはいられない。
菜那は零れ落ちてきそうな涙を堪えながら走って樹生の家を出た。きっとこの場で悲しみの声を出したらばらばらと崩れ落ちながら泣いてしまいそうだったから。
「なんで……っ」
どうしてこうなってしまったんだろう?
樹生には自分なりに精一杯尽くしてきたつもりだった。料理の苦手な樹生のために得意な自分が作って、休日は二人で過ごしたり、インドアだったけれどたまに二人で出かけたりするのが凄く楽しかった。樹生も同じ気持ちだと思っていたのに……おかんと思われていたなんて……。
今日の近藤だってそうだ。一生懸命部屋のゴミを捨てて、片づけをして、次の時はもっと早く進められるように頑張ろうと思っていたのに、泥棒扱いされるなんて。頑張った結果がこれとは世の中はなんて理不尽な世界なのだろうか。
「ははっ……うぅ……ッ」
息が苦しい。自分の周りに酸素がなくなってしまったかのように浅くしか呼吸ができない。
全力で走って樹生の家から離れたからだろうか。それとも、苦しい感情に押しつぶされそうになっているからだろうか。分からない。足も疲れた。走る速度はだんだんと遅くなり、菜那の足はピタリと止まった。
「っ……くっ……」
必死で堪えようと思うほど感情が涙になって零れ落ちてくる。真昼間の街中で泣いている女ほど視線を集めるものはない。通りすがりの人の不思議そうな視線をひしひしと感じる。
止まれっ……止まってっ……。
強く思っても瞳から溢れる雫は止まることを知らないらしい。何度も自分の手で涙を拭い、手の甲はびしょびしょだ。
「はぁっ……んっ……」
頬に冷たさを感じた。雨だ。ポツポツと降り始めた雨は次第に強くなっていく。
「天気予報、振るなんて言ってなかったのに……」
折り畳み傘は鞄に入っていない。突然の大雨に周りの通行人も慌て雨から逃れようと走り出している。
もう、ちょうどいいや……。
雨がきっとこの涙を隠してくれる。菜那はゆっくりと歩き始めた。人々は雨に気を取られて泣いている自分なんかに気が付くはずがない。身体を派手に濡らす雨など気にせずにふらふらと家へ向かった。視界も雨なのか、涙のせいなのか分からないくらいぼんやりとしている。
あ、なんか黒い影――と思った時にはもう遅かったらさい。菜那の身体は目の前に現れた黒い影に力なくぶつかっていた。
「っと、大丈夫ですか?」
「……っあ」
ぶつかった小さな反動で後ろに倒れそうになったはずの身体が抱きしめられている。頬に冷たい雨の粒を感じない。
「また、会いましたね」
優しい声が頭上に降りそそぐ。ゆっくり顔を上げると菜那を抱きとめてくれたのは昨日、足元を滑らせたときに助けてくれた彼だった。
「あ……」
視界がぼやけていたはずなのに、この雨の中でもわかる。目を柔らかに細めて、優しい表情。
ぶつかってしまったのは自分なのに責めることもなく、優しい顔を向けてくれている。名前も知らない赤の他人なのに、弱っている菜那にはその柔らかな視線だけで十分だった。プツンと糸が切れたように感情が沸騰して吹き出す。
「うぅっ……わわぁ――……」
泣き崩れる菜那を名前も何も知らない彼は人目から隠すように抱き寄せ、傘で隠してくれた。力強いのに優しいという矛盾する彼の腕の中はとても心地よい。だからだろうか。優しさに触れ、降っている雨に負けないくらい涙が溢れてくる。
何分泣いたか分からない。雨も大分小雨になりかけている。
段々と冷静になった菜那は自分が余りにも大胆なことをしてしまったことに気が付いた。
やだっ……私ったら全然知らない人なのに……。
「……す、すみませんでしたっ」
すっと身体を彼から離し、小さく頭を下げた。
「突然の雨でしたから。泣きたくなりますよね」
「え……あ、はい……ッ!?」
彼の親指が菜那の頬に触れた。驚いて大きく目を見開いてしまったが彼は拭き残した涙をぬぐってくれたようだ。過剰反応してしまった自分が恥ずかしい。
「す、すみません……」
「いえ、まだ涙が頬に残っていたから、つい。ご自宅は近いんですか?」
「あ、はい……」
「そうなんですね。ちょっと傘をもっていてくれませんか?」
傘を手渡され、反射的に持ってしまった。彼が濡れないように手を差し伸ばす。彼は着ていたジャケットを脱ぎ、菜那に羽織らせた。
「えっ? あ、あのっ」
「自宅まで送っていきたいですけど、さすがに成人男性が会ったばかりの女性の自宅まで行くのは怖いでしょう? 気を付けて帰ってくださいね」
「え、ちょっと!」
菜那が断わる隙を与えずに彼は走り去ってしまった。パシャパシャと小さな水飛沫を飛ばしながら走り去る背中に菜那は呟いた。
「……ありがとうございます」
理不尽な世の中だと思ったけれど、やっぱり世界は優しいのかもしれない。たった一人に優しくしてもらえただけなのに、ぱぁっと心が晴れた気がした。
また、明日から頑張ろう。そう思えた。
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