エリート建築士は傷心した彼女を愛し抜きたい

森本イチカ

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 昨日降った雪はやはり積もるほどのものじゃなかったようだ。その代わり冬の寒さで地面が凍結していた。アイススケート場、とまではいかないが歩いていてもかなり滑る。何度か滑りかけながら歩いて事務所に向かう途中、自動車が電信柱に突っ込んでいた。
「わ……運転手さんは大丈夫だったのかな……?」
 なかなかの酷い光景に思わず足が止まってしまった。
 仕事で車を運転することがあるので、就職してから運転免許証を取得したが菜那はいわゆるペーパードライバーだ。免許は持っているものの、たまにしか運転しないと怖さもあり、今じゃ沙幸に運転を任してしまっている。なにより菜那の運転だと怖くて乗っていられないと言われているので自分でも沙幸が運転した方がいいと思う。
 やっぱり運転は怖いなぁ……。
 菜那は足に力を入れて滑らないように歩き進めた。なのに、やってしまった。
「きゃっ……!」
 慎重に歩いていたはずなのに、つるりと足元が滑り身体のバランスが後ろに一気に崩れる。
「おっと、大丈夫ですか?」
「へ……?」
 盛大に尻もちをつくはずだった自分の身体がそうじゃない。どこも痛くないのだ。驚いて顔を見上げると見知らぬ男性が菜那の身体を引き寄せ、抱きしめてくれている。
 あまりにも一瞬の出来事でなかなか今の状況が整理できない。目をぱちくりさせていると先に男性が口を開いた。
「昨日の雪のせいで今日は道路が滑りやすいですからね。転ぶ前に助けられてよかった」
 ニコッと微笑む男性の笑顔があまりにも優しくてドキッと小さく胸が高鳴った。
「あっ……」
 そうだ、滑って転びそうになったんだ、と思いだしたと同時に自分が男性に抱きしめられている状況にようやくハッとした。
「す、すみません! 助けてもらってしまって! 助かりましたっ」
 慌てて男性から身体を離し、菜那は勢いよく頭を下げる。穴があったら入りたいとはこういうことを言うのかと、一気に羞恥心が湧き上がり自分でも分かるくらいに顔が熱くなった。多分、今顔を上げたら耳まで真っ赤に違いない。
「いえ、間一髪ってところでしたから、もしかしたら間に合わなかったかもしれないですし。では、気を付けてくださいね」
「はいっ、本当にありがとうございました」
 彼が立ち去るのを見送ろうと顔をあげると、ばっちりと目が合ってしまった。
 わ……。
 かっこいい。サラサラな黒髪と同じ漆黒の瞳は色気のある切れ長の双眸で、前髪が流されているので瞳がよく見える。高い鼻梁にすっきりとした顎と首筋は男性的なラインで魅了されてしまうほど。しなやか色気をまといながらもクールな印象の彼だが、さっき見せてくれた笑顔は物凄く優しい表情だった。
 肩幅の広い、大きな背を向け彼は歩いて行ってしまった。スーツ姿だから、どこかの会社員だろうか。
 ……優しくて、素敵な人だったな。
 そう思いながら菜那は一歩一歩、さらに気を付けながら歩き進めた。
 事務所に着き、元気よくドアを開ける。
「おはようございます!」
 中に入ると社長と沙幸が眉を八の字に曲げてなにやら不穏な表情をしている。他の社員はまだ来ていないようだ。なんだか嫌な予感を感じ取った菜那は慌てて二人のもとへ駆け寄った。
「おはようございます。あの、何かあったんですか?」
「あぁ、菜那ちゃんおはよう。それがね……」
 沙幸が言葉を詰まらせた。絶対に何かあったのだと予感が確信に変わる。
「菜那ちゃん……昨日、近藤様のお宅に仕事にいったでしょう? その、何か変な事はなかったかしら?」
 沙幸の代わりに社長が話し始めた。けれどいつもハキハキしている社長がなんだか言葉を選んでゆっくりと話しているように感じる。
「あ、はい。沙幸さんと一緒に行きましたけどゴミの量が凄いくらいで特に変なことは無かったかと思いますが……」
「その近藤様からさっきクレームがあってね」
「クレームですか!?」
 その言葉にドクンと心臓が大きく反応した。
「そんな……どんな内容なんですか……?」
 昨日の事を思い返すが全く心当たりがない。ただゴミを捨てていただけだ。まさかゴミ捨てしか出来なかった事を怒っているのだろうか。
「それがね、近藤様の大切にしていた腕時計がなくなっているっていうのよ。心当たりはある?」
「腕時計、ですか?」
 昨日はたくさんのゴミを処分して、ダイニングテーブル周りのものを片しただけだ。腕時計なんて見てもいないし、ましてやそんな高級なものを勝手に捨てるはずがない。菜那は毎回しっかりとお客様に確認するほどの慎重ぶりだ。勝手に捨てることは絶対にしないと言い切れる。
「腕時計は見ていません」
 菜那は社長の目を見てハッキリと口にした。
「そうよね。菜那ちゃんが勝手に捨てるだなんて思ってもないし、ましてや盗むだなんてありえないわ。とりあえず私が直接謝罪にいってくるから」
「えっ、近藤様は私が盗んだかもしれないと思われているんですか?」
「あ……まぁそうね、そういう内容の電話だったわ。そんなことはあり得ないのは分かってるけどお客様に不満を持たせてしまった以上、今から謝りにいってくるわね」
 社長はデスク近くにかけてあったコートを羽織り、出かける準備を始めた。菜那は社長の前に立ち深く頭を下げる。
「私も一緒に行きます。盗んだなんてことは絶対にはないですけど、私が招いてしまったことなので同行させてください!」
「菜那ちゃん……わかったわ。一緒に行きましょう」
「はい」
 沙幸にすいません、と頭を下げ、菜那は社長の後をついていった。
 社長に、会社に迷惑をかけてしまったという申し訳ない気持ちでいっぱいだ。それに、誠心誠意頑張ったつもりのお客様に泥棒扱いされているなんて……泣きそうなったがグッと飲み込んで、菜那はしっかりと前を向いた。きっと近藤もちゃんと説明すれば分かってくれるはず。社長の運転する車の助手席に乗り、途中で菓子折りを買って近藤の家に向かった。
 インターホンを押す指先がフルフルと恐怖で震える。
「堀川さん、大丈夫?」
 堀川と呼ばれてビシッと活を入れられたような気がした。菜那は大きく息を吸い、呼吸を整えて背筋を伸ばした。
「大丈夫です」
 インターホンを押すとすぐに近藤が家から出てきた。睨むような視線、明らかに不機嫌な表情で菜那の身体に緊張が走る。
「近藤様っ――」
「近藤様、この度は不快な思いをさせてしまい誠に申し訳ございませんでした」
 菜那の言葉を遮るように社長が一歩前に出て近藤に頭を上げた。菜那もすかさず社長に続いて頭を下げる。
「金を払わせておいて、客のものを盗むなんてとんだ詐欺業者だな」
 怒鳴るわけでもなく、地鳴りがしそうなほどの低い声。
「近藤様、そのことに関してなんですが私は昨日腕時計をこの目では見ておらずっ……」
「あぁ? お前、この俺が嘘をついているとでもいいたいのか!? お前が盗んだんだろうが! 弁償しろ!」
 急に空気が張り裂けそうなほどの怒鳴り声にビクッと身体が後ずさり、ひゅっと喉が閉まった。単純に怖いという感情に身体が支配され、声を出すことができない。
 菜那の様子にいち早く気が付いた社長が怒鳴り散らす近藤にひたすら謝ってくれているのが視界には映っている。映っているはずなのに、自分は暗い闇の底にいるようで、音が何も聞こえてこなかった。
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