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8話
しおりを挟むさんざん泣いて泣き疲れたのか、レオは泣き止み、将生の腕の中で大人しくなった。
反応の鈍くなったレオに、ひとまず脱衣所にかけてあったバスローブを着せかけ、リビングのソファへと連れて行く。
「水……飲める?」
将生がキッチンにあったミネラルウォーターのキャップを開けて差し出せば、レオは無言で頷き、ゆっくりと飲み始めた。
濡れた髪を拭き、ドライヤーを当てている間も、レオはされるがままぼんやりとしている。
「……手の傷、見せて」
将生が言うと、レオは素直に両手を差し出してきた。痛々しい擦り傷に顔をしかめながら、フィルム状の絆創膏を貼りつける。
「こっちはちょっと腫れてるから、しばらくこれで冷やして」
鏡を殴っていた拳は、血がにじんで腫れていた。フィルムを貼り、タオルにくるんだ保冷剤を上から当てさせる。
「どこか、他に痛いところは?」
レオはうつむいたまま、ふるふると首を振った。
「とりあえずの応急処置だから……明日には、病院に行ってくださいね」
しばらくの沈黙のあと、頭が縦に揺れた。
手当が済んだのだから、もう帰るべきかもしれない。だが、今のレオをひとりにしておくのも心配だ。
「…………あ」
奇妙な沈黙が流れた時、ふと、壁に貼られた映画ポスターが目に入った。思わぬ偶然に、因縁めいたものを感じてしまう。
「あの映画、好きなんですか? 懐かしいな……実は俺、この映画に『シンイチ』役で出てたんですよ」
「……え……?」
レオの肩がぴくりと揺れた。信じられないと言った顔で、将生の顔を見つめてくる。
「俺……昔、役者をやっていたんです。ちょっと、事情があって辞めたんですが……それでも芝居や演技を観るのはやめられなくて。……レオ君の事も、実はずっと応援していました。初めてレオ君の演技を見た時、感動したんです」
「……斎藤、マサキ……?」
当時の芸名を呼ばれ、驚いた将生はハッとレオを見る。
「俺のこと、知ってたんですか」
「……やっぱり……峰守さんが、あのマサキなんだ……」
レオの目に涙が浮かび、泣き笑いのような顔になった。
「……ずっと、好きだったんです」
ドキリと心臓が跳ねた。ふと我に返り、斎藤マサキのことかと思い直す。
「子どもの時、あなたの『シンイチ』に救われて……あんなお兄ちゃんがいたらいいなって……俺のこと、守ってくれるだろうなって……一目惚れでした」
映画の中では、シンイチは死後の世界に迷い込んだシンジという少年を導き、元の世界へ戻る手助けをする役だった。シンイチは、実はシンジが生まれる前に亡くなった兄で、シンジは兄の存在を知らされていなかったが、死後も弟の事を見守っていたのだと物語の後半で明らかになる。
「光の扉」に出てくるシンイチは、原作の小説が好きだったこともあり、将生が演じた役の中でも特に印象深いキャラクターだ。
将生としても、役者を辞めたのは不本意な理由からだ。中途半端なところで逃げたような負い目や悔しさも感じていた。
しかし、自分の演技が応援している役者の支えになっていたと聞かされて、ぐっと胸が熱くなる。役者にならなければよかったと悔やんだ時もあったが、レオの言葉に過去の懊悩が癒されていくようだった。
「ありがとう……そう言ってもらえて、嬉しいよ」
「斎藤って苗字も、斎藤マサキからもらったんです。……いつか共演できたらと思ってた……」
「そうだったのか……ごめんね。ちょっと色々あって、役者を続けられなくなったんだ」
将生の言葉に、レオはふるりと首を振った。
「いい……だって、会えたから……本当に俺を、助けてくれたから。……夢みたいだ」
レオの頬に涙が伝った。赤くなった目が痛々しいのに、ひどく美しい。
ソファの隣に座ってなだめるように背を撫でると、倒れ込むように抱きついてきた。震える背に腕を回し、ぐっと抱きしめる。
「……俺にできることなら、何でも言ってくれ。……少しでも、レオ君の助けになりたいんだ」
「……何でも、いいの?」
「ああ、俺にできることなら」
レオはすんと鼻を鳴らして、涙を拭った。泣き腫らした目で、探るようにじっと将生を見つめてくる。
「……それじゃあ、俺のこと抱いてください」
ぎょっと目をみはった将生の目の前で、レオがばさりとバスローブをはだけた。血こそ出ていないが、白い肌に浮かぶ痛々しい歯型や痣に、視線が釘付けになる。
「あいつに触られたところ……どれだけ洗ってもきれいにならないんだ。あなたに……上書きしてほしい」
「レオ君、それは……」
「さっき、一目惚れだったって言ったでしょ。……あなたが初恋なんです。俺、あなたに抱かれることを想像して……ひとりでしてたんですよ。……あなたじゃなきゃ、嫌なんだ。お願いだから、上書きしてよ……!」
おかずにされていたという突然の告白に、将生の心臓が跳ねる。同時に、胸の奥に熱いものが生まれ、将生の全身へ広がっていく。
悲痛な叫びと同時に、レオの目元から涙が一筋こぼれ落ちた。
それを指先で拭い取り、そっとレオの頬に手を添える。
「――……わかった」
呟くと、レオが安心したようにふっと笑った。
彼を傷つけたくはない。だが、彼の美しい身体に、どこの誰とも知れない男の痕跡が残ったままというのも、許せない。
……何でもすると言ったのは自分だ。
男を抱いたことはなくても、彼のためなら何でもできる気がした。
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