狙われた楽園~20〷年日本国滅亡への序章~

44年の童貞地獄

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断ち切られた絆、残された祈り

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正一は自宅での葬儀の席で深い悲しみとともに座っていた。
妻の芳江が亡くなる前の数日間、彼は彼女の側を離れず、ずっとその手を握り続けていたものだ。

あれは昨年娘の繭が自分たちに罵声を浴びせて出て行き、音信が途絶えてからほどなくだった。
急に体調を崩した芳江は病院ですい臓がんと診断される。
そしてもはや手遅れであった。
今や57歳の芳江の体はすでにがんにむしばまれ続けて助かる見込みはもうなく、ただ死を待つだけとなっている。

彼女はやせ細った顔と弱々しい声で、高齢で授かったたった一人の子供、繭の名前をうわごとのように何度も何度も繰り返していた。

「繭…繭…を呼んで、…会いたい。あの子のことだけが心配…」

芳江の瞳は遠くを見つめるように、涙で潤んでいた。
正一はそのたびに、彼女の手を強く握り、優しい言葉で励ます。

「大丈夫だ。繭はきっと戻ってくる。心配するな、芳江。居場所が分かったし…ここに母さんがいると伝えたから。だからお前も…」

だが、芳江は正一の言葉を遮るように疲れた声で言った。

「私が死んだら…神様に会ったら…、どうか繭を幸せにしてほしいとお願いするつもり…正ちゃん…」

正一は妻の言葉に、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「大丈夫。あの子はきっと戻ってくるし…、それまでお前も…」彼は強い夫であろうとし、妻を安心させるために元気づけて微笑もうと努めたが、その笑顔は涙でかすんだ。

結局、妻は彼の手を握ったまま、静かに息を引き取ることになる。

正一の心には、妻の最後の言葉が何度もこだました。

「繭…幸せになってね…」

その願いは、彼の胸を鋭く貫く。
芳江が亡くなった後、正一は涙を流さず、ただ静かに妻の亡骸を見つめていた。
彼自身、自分がこの悲しみをどう扱えばよいのか、全くわからず呆然として…。

ついこないだのことを思い出しつつ自宅での葬式が進行する中、正一はふと参列する親戚たちの背後の窓の外に何かを感じる。
彼の目が何気なく窓の外の生垣に向けられたその瞬間、生垣越しに確かに誰かが覗き込んでいるのが見えた。
薄暗い影のようなその人影はこちらが見ているのに気付いたかのように、まるで風に揺れるかのようにゆらりと動いてその場を離れようとする。

「まさか…!」

正一は胸が高鳴るのを感じた。
彼の心の中で一筋の希望が湧き上がる。

急に立ち上がり、よろめきながらも、外へと向かう。

「繭!繭なのか!?」

正一の声がかすれ、震えながら座敷を後にして玄関口に向かう。
娘がこの場所に戻ってきてくれたのでは?
いそいそと入口のドアを開ける。

しかし、外に出たときには、その人影はどこにも見当たらなかった。
彼は何度も周囲を見渡し、娘の姿を探したが、そこにはただの風だけが吹き抜けていた。

「…繭…」

正一はかすかな声でつぶやきながら、虚ろな目で辺りを見回す。
娘の姿はどこにもない。
ただ、冷たい風が彼の頬を撫で、こぼれた涙が顔を濡らしていった。

「芳江…どうか、あの子を守ってくれ…」

正一が亡き妻に向かって心の中でそう祈りながら、足を引きずるようにして再び家の中へと戻って行った時、繭はまだ喜多見駅にいた。

上りホームの待合室に座り、新宿方面へ向かう電車を何度も見送っている。
彼女は人目もはばからず涙を流して呆然と座り、心の中では母の死の知らせが繰り返し響いている。

「どうして…どうして私は…」

繭の視界は涙でぼやけ、肩を震わせて泣き続けていた。
母親の顔が脳裏に浮かぶ。
どんな時でも温かく迎えてくれ、自分を何度も励まし、無条件で心から愛してくれていた母。
彼女の顔が、まるで夢のように浮かんでは消える。

「今戻れば、まだ間に合う…」繭は心の中で必死に自問自答する。

「今ならまだ…父さんに謝れる。母さんにも…ごめんなさいって言える…」

でも、そんな思いにすがりつく自分を、もう一人の自分が冷たく諭す。
「何を迷っているの?今さら何を取り戻せるの?あんなに酷い言葉を浴びせた後で…母さんが生きているうちに戻らなかったくせに…。」

その瞬間、横に誰かが座る気配。
繭が顔を上げると、そこには寮長の新藤香菜が立っていた。
冷たい目で繭を見つめながら、彼女は手に持っていたハンカチを差し出した。

「涙を拭きなさい」

その声は静かで、鋭く、現実に引き戻すような響きがあった。
繭は一瞬驚いたように香菜を見つめたが、すぐに目をそらす。
ハンカチを受け取る手は震えていた。

「…何でここに?」繭は低い声で聞いた。

「教会の家族が心配しているの。みんなあなたの帰りを待っているのよ」

その言葉が繭の胸に鋭く突き刺さる。
教会の家族…新しい家族…彼らは本当に自分を待っているのだろうか?このままここにいていいのか?

「でも…母さんが…」繭の声は震えていた。

「母さんが…亡くなって…」

「わかっているわ、でも、あなたの居場所はここじゃない。あなたには、もっと大切な場所があるでしょ?あなたの本当の家族、それは私たちがいるところよ」

香菜の言葉は、まるで冷水を浴びせられたようだった。
繭の心の中に、再び教会の教義が浮かび上がる。
家族とは教会の仲間、同志たち。
彼らこそが自分を新しい道へと導いてくれる、本当の家族だと何度も教えられてきたではないか。

「…でも、母さんが…」繭はもう一度、かすかな声で繰り返した。

香菜は繭の肩に手を置き、ゆっくりと彼女の耳元で囁く。

「母親のことを忘れる必要はない。でも、あなたには今、もっと重要な使命がある。私たちと一緒に、共栄教会のために生きるという使命」

繭の中で、何かがまた音を立てて崩れた。
香菜の言葉が、教会で聞かされた言葉と重なって響く。

「自分の使命は、教会のために生きることだ…」

母のことを思い出すと、胸が痛む。
けれども、新藤香菜の冷静な視線が彼女を捕らえて離さない。
心の中で何度も「帰れ」と繰り返す声が聞こえる。

香菜の言葉が続く。

「私たちには、あなたを必要としている人たちがたくさんいるの。あなたがいることで、多くの人が救われる。あなたの選んだ新しい家族が、あなたを愛し、支え、必要としているの」

その瞬間、繭の中で何かが固まった。
母のために涙を流すのは、ここまでだ。
もう過去の自分を振り返ることはしない。
彼女には新しい家族が待っている。
そこに戻ることこそが自分の本当の使命なのだ。

繭はゆっくりと顔を上げ、香菜を見つめた。
涙はまだ頬を伝っていたが、その瞳には決意が宿っていた。

「…帰ります」

繭の言葉に香菜がうなずき、彼女の手をしっかりと握り締める。
繭はその手の温もりを感じながら、立ち上がった。
もう迷うことはない。
彼女の心には、ただ一つの道しか残されていなかった。

教会のために生きること。
新しい家族とともに、これからの道を進むこと。
繭の胸にはかすかな痛みが残っていたが、それはもう過去のものだと決めつけるように、彼女は深く息を吸い込み、前を向いた。

「じゃあ、帰りましょう」

香菜の言葉にうなずくと、繭は彼女の隣に並び、ホームの出口に向かって歩き始めた。
背後に残る駅の風景は、もはや彼女の心を引き留めるものではなかった。
彼女の未来は、もうそこにはないのだから。
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