上 下
81 / 236
忍ぶれど……

父になる 16

しおりを挟む
 樹齢六百年の大銀杏が見守る中、俺と兄さんはコートの先っぽで、そっと手を繋ぎ、高台から眼下に悠然と広がる鎌倉の冬景色を見下ろしていた。

 それにしても兄さんの手の温もりが、心地良すぎる。

 この手で女を抱いた。赤ん坊を抱いたと思うと、もう触れてはいけない存在になったと感じ、ずっと近寄れなかったのに。

 今は俺のすぐ隣にいて、しかも手を繋いでくれている。温もりを分かちあえる距離にいられることが嬉しくて、男泣きしそうだ。

 俺はこんなにも兄さんに飢え、渇望していたのか。少しでも動いたら離れてしまいそうで動きたくなかった。

「くしゅっ……」

 だが師走の北風は無情だ。病み上がりの兄さんが、鼻の頭を少し赤くしていたので流石にそろそろ潮時だと思った。

「そろそろ帰るか」
「えっ、もう?」

 そう告げると、兄さんも名残り惜しそうな表情を浮かべるんだから参った。

 おいっ、そんな切ない表情を浮かべんな。
 
 このままどこかへ連れ去りたくなる。

 どこかに、俺と翠だけの世界があればいいのに。

 この世界の果てにでも──

「兄さんがまた風邪ひいたら、母さんに怒られるのは俺だぜ」
「……そうだね。流に迷惑かけるわけにいかないな」
「マフラーが取れかかっているぞ。兄さんは案外不器用だな。その巻き方じゃ用を成さないだろう。ほら巻きなおしてやるから貸せよ」

 翠の襟元のマフラーが強風に煽られたせいで乱れていたので、巻きなおしてやろうと手にとった。

 途端に翠の喉仏が露わになる。翠の細い首もと、項、鎖骨まで、何もかも丸見えになる。ほっそりと美しい顎のラインも。

「ありがとう、流」

 そう喋る口の中にちらっと覗く赤い舌にさえ、ゾクゾクする。

 俺は本当に何でこんなに実の兄を、やましい視線で見てしまうのか。

 禁欲的な翠を乱すのは俺でありたい。

 これは過去からの衝動だ。

 俺をまっすぐ突きあげるように起こるのは、翠への思慕を通り越した、兄弟としてあってはならない行き過ぎた欲情だ。

 その時、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。

 煩悩に溺れていた俺の緩んだ指先のせいで、手に持っていたはずのマフラーが北風に攫われてしまった。

「あっ!」

 あっという間に天高くマフラーが舞い上がり、そのまま足元の崖に迫り出した大木にひっかかってしまった。

 くそっ! なんてことだ! 俺としたことが!

「兄さん、悪い。取ってくるよ」

 足場が悪そうだ。少々危険を伴うが、せっかく俺が贈ったばかりのものだ。兄さんによく似合っていたし、兄さんも気に入っていたのだから、なんとしてでも取り戻してやりたい。

「流、駄目だ! 行くな!」
「大丈夫だって。ちょっと崖に降りて手を伸ばせば取れる距離だろう」

 翠に背を向けて、崖を降りようとした。

 その瞬間、ふわっと翠が俺の腰に手を回してきた。こんな風に後ろから抱きしめられたことがないので、動揺してしまった。

「なっ、どうしたんだよ」
「行くなっ! お前に何かあったら嫌だ! お前が消えてしまいそうで怖くなる!」

 あまりに必死な声なので、気になって振り返ると、翠が真っ青な顔でブルブルと震えていた。

「おいおい兄さん、随分大袈裟だな。まるで俺が死ぬみたいなことを」
「うっ……駄目だ。流……そんな言葉を口にするな。僕は……僕は」

 あまりに翠が狼狽えているので、こっちまで不安になる。まるで遠い昔、そんな悲しい別れがあったみたいじゃないか。

 お願いだから、そんな顔すんなよ。俺が翠を置いて何処かに行くなんて、あるはずないじゃないか。置いていったのは兄さんだろう?

 翠は軽いパニックを起こしたように、明るい色の瞳からぽろぽろと涙を零す始末だ。

 こんな時でも俺は……

 翠が俺だけを考えていてくれる。

 俺だけを見てくれていることに喜びを感じてしまう。

 もし俺に本当に何かあったら、実の兄に欲情してる俺のせいだ。

 因果応報だ。

「落ち着けって、兄さん。ほら、もう泣くなよ」
「うっ……うっ……」

 幼子のように涙を零す翠の頭をそっと抱き寄せ、肩に乗せて?そのまま背中に手を回し擦ってやる。

「ごめんよ。僕……病み上がりのせいかな。感情がコントロールできないみたいで、もう父親なのに恥ずかしいな。これじゃ兄としても父としても失格だな」

 まだそんなことを言うのか。こんな頼りなく儚げな背中で、父として夫として奮闘する翠は健気だ。

 もう疲れただろう。

 俺の元に戻って来いよ。

 戻って来たらいいのに──
 


しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

バイト先のお客さんに電車で痴漢され続けてたDDの話

ルシーアンナ
BL
イケメンなのに痴漢常習な攻めと、戸惑いながらも無抵抗な受け。 大学生×大学生

我儘王女は目下逃亡中につき

春賀 天(はるか てん)
恋愛
暴君と恐れられている父王から 愛妾である母と同様に溺愛されている 第四王女は、何でも自分の思い通りに になるのが当たり前で、 その我儘ぶりから世間からも悪名高い 親子として嫌われていた。 そんなある日、突然の父の訃報により 自分の周囲が一変し国中全てが敵になり、 王女は逃げる、捕まる、また逃げる。 お願いだから、もう放っておいてよ! 果たして王女は捕まるのか? 【別サイト**~なろう(~読もう)さん でも掲載させて頂いてます**休止中】

イケメン大学生にナンパされているようですが、どうやらただのナンパ男ではないようです

市川パナ
BL
会社帰り、突然声をかけてきたイケメン大学生。断ろうにもうまくいかず……

貧乏大学生がエリート商社マンに叶わぬ恋をしていたら、玉砕どころか溺愛された話

タタミ
BL
貧乏苦学生の巡は、同じシェアハウスに住むエリート商社マンの千明に片想いをしている。 叶わぬ恋だと思っていたが、千明にデートに誘われたことで、関係性が一変して……? エリート商社マンに溺愛される初心な大学生の物語。

浮気な彼氏

月夜の晩に
BL
同棲する年下彼氏が別の女に気持ちが行ってるみたい…。それでも健気に奮闘する受け。なのに攻めが裏切って…?

アラフォーの悪役令嬢~婚約破棄って何ですか?~

七々瀬 咲蘭
恋愛
スーパー特売に走っていたはずですが、気がついたら悪役令嬢でした。 …悪役令嬢って何? 乙女ゲームをプレイしたこともないアラフォー主人公が突然、悪役令嬢?になって国を巡る陰謀に巻き込まれたり、恋をしたり、婚約破棄されたり、と忙しい毎日を送る話。 ※「グリッターズ」スピンオフ作品になります。 ※ 初心者です。誤字脱字スペース改行ミスは持病です。お許し下さい。 ※更新ペースは不定期です。ガラスのメンタルですので、温かく見守って下さい。

異世界に来たようですが何も分かりません ~【買い物履歴】スキルでぼちぼち生活しています~

ぱつきんすきー
ファンタジー
突然「神」により異世界転移させられたワタシ 以前の記憶と知識をなくし、右も左も分からないワタシ 唯一の武器【買い物履歴】スキルを利用して異世界でぼちぼち生活 かつてオッサンだった少女による、異世界生活のおはなし

束縛系の騎士団長は、部下の僕を束縛する

天災
BL
 イケメン騎士団長の束縛…

処理中です...