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第五章
彷徨う人 2
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「彩子、もう……駄目だ。辰子が近くにいるし……」
「湖翠さんは酷い人、あなたから求めてくださらないから、私に朝から……こんなことをさせて」
唾液が漏れるほど濃厚な口づけを、妻から長い時間をかけて施された。紅の味が口腔内に徐々に広がって、少しの嫌悪感を抱くが、決して悟られてはいけない。
「お母さまーどこなの?」
障子越し、中庭から辰子の無邪気な声が聞こる。
「まぁ辰子だわ。湖翠さん、少しお待ちになって、辰子に朝食を食べさせてきます。あ……それからさっきの、京都の温泉の件ですけど、次の週末でよろしい?」
「あぁ……彩子の好きなようにするといい。迷惑を掛けるな」
「そんな、私はあなたを愛しているのですから、当然ですわ。それに早く目を治していただかないと……そろそろもう一人……子供が欲しいし」
「……そうか」
視界が白くぼやけるようになってしまってから、僕はひとりで外出出来なくなってしまっていた。だから頼れるのは、妻と子供。
流水のことを思って人知れず泣き過ぎたせいなのか。原因不明のまま、半年が過ぎようとしていた。祖父が生きていたら、情け容赦ない言葉を浴びていただろう。避けられたのがせめてもの救いだ。妻は優しい。時折、さっきのように僕を強引に求めてくるのも、夫婦なのだから自然の行為なのだ。
辰子を妊娠出産してから、僕は数えるほどしか妻を抱いていない。
僕の躰の内部に残された流水の残滓……その名残りが、妻を抱けば抱くほど薄れてしまうような気がして怖かった。
酷いのは、全部僕だ。
実の弟を愛してしまった僕のせいで、彼を遠くに旅立たせ……彩子を最初から裏切りながら結婚してしまった。
全部、その報いだろう。
今……僕がこのような状態なのも。
それにしても、京都か。
京都には夕凪がいる。
末の弟のような可愛い夕凪……
彼は達者だろうか。
今頃何をしているのだろうか。
夕凪からの便りは、一度だけだった。僕と流水への風呂敷の贈り物が梱包された荷物が届いてから……残念ながら、それ以降は音沙汰がなかった。
夕凪の元を尋ねてみたい。
住所を……あぁ今の僕の目では、あの荷札を入れた箪笥の中を、確かめられない。
確か、京都の宇治の住所が書かれた荷札をきちんと箱に入れてしまっておいたはずだ。
彩子には、絶対に夕凪のことは話せない。話したくない。
夕凪の身に起きた悲劇……夕凪の出生にまつわる悲劇……それを知るのは、僕と流だけでいい。あとは夕凪を愛する二人の男、信二郎さんと律矢さんとの間の秘密だ。
墓場まで持っていく秘密だから、そう易々と彩子に、荷札を探してもらうわけにはいかない。
「お父さま!何か心配ごと?」
相当悩まし気な顔をしていたのか、部屋に可愛い足音で入ってきた愛娘の辰子の手が、僕の手のひらに重なった。
「あ……辰子」
そうだ、幼い辰子なら……
「辰子、一つ用事を頼まれてくれるか」
「うん、できるわ。たつこ、もう五歳ですもの!」
「ありがとう。あのね……僕のお部屋の桐箪笥は分かるかな。そこの一番上の引き出しなんだけど、そこに大事なものがあってね。そこまで僕を連れて行ってくれる?……お母さまに見つからないようにできるかな」
「なんだか楽しいわ!秘密の探検みたいねぇ」
幼い辰子の肩に手を乗せて、水先案内人をしてもらう。
「お父さま、そっとよ。ほらここがその箪笥よ。引き出しの取っ手はこちらよ」
可愛い案内人だった。引き出しの取っ手を引き、中の箱を探すと、すぐに見つかった。ところが……中を探っても、空っぽだ。どういうことだ?
ここに確かに、夕凪が染めてくれた風呂敷と一緒に、宇治の住所の記載された荷札を入れて置いたはずなのに。
僕の風呂敷は翡翠のような深い森のような色合いで、流水のは蒼い海のような色だった。月影寺の庭先で、流水と風呂敷を重ねて心を通じあった時が懐かしい。
その時、雷に打たれたようにはっとした。
もしや流水は、夕凪の所へ行ったのではないか。
荷札を持ち出したのは、彼しかいない。
ここにあの荷札が入っているのを知っているのは、流水しかいないじゃないか。
も……もしかしたら宇治に行けば、流水に会えるのでは。
そう思うと躰が震え、双眸から涙がはらはらと溢れ出してしまった。
「お父さま、どうなされたの?ん……雨?つめたいわ。あぁ……お目々からまた涙がそんなに零れて。困ったわぁ。泣いてしまう病気なのかしら。今、お母さまを呼んでくるわ」
「待って、辰子、行かないで。僕は大丈夫だから。これは希望の涙なんだよ。だから大丈夫……」
僕は小さな辰子をぎゅっと抱きしめて、涙を隠した。僕が流水のことを未だに探していることを、周りに知られてはいけない。隠し通さないといけないことだ。
「湖翠さんは酷い人、あなたから求めてくださらないから、私に朝から……こんなことをさせて」
唾液が漏れるほど濃厚な口づけを、妻から長い時間をかけて施された。紅の味が口腔内に徐々に広がって、少しの嫌悪感を抱くが、決して悟られてはいけない。
「お母さまーどこなの?」
障子越し、中庭から辰子の無邪気な声が聞こる。
「まぁ辰子だわ。湖翠さん、少しお待ちになって、辰子に朝食を食べさせてきます。あ……それからさっきの、京都の温泉の件ですけど、次の週末でよろしい?」
「あぁ……彩子の好きなようにするといい。迷惑を掛けるな」
「そんな、私はあなたを愛しているのですから、当然ですわ。それに早く目を治していただかないと……そろそろもう一人……子供が欲しいし」
「……そうか」
視界が白くぼやけるようになってしまってから、僕はひとりで外出出来なくなってしまっていた。だから頼れるのは、妻と子供。
流水のことを思って人知れず泣き過ぎたせいなのか。原因不明のまま、半年が過ぎようとしていた。祖父が生きていたら、情け容赦ない言葉を浴びていただろう。避けられたのがせめてもの救いだ。妻は優しい。時折、さっきのように僕を強引に求めてくるのも、夫婦なのだから自然の行為なのだ。
辰子を妊娠出産してから、僕は数えるほどしか妻を抱いていない。
僕の躰の内部に残された流水の残滓……その名残りが、妻を抱けば抱くほど薄れてしまうような気がして怖かった。
酷いのは、全部僕だ。
実の弟を愛してしまった僕のせいで、彼を遠くに旅立たせ……彩子を最初から裏切りながら結婚してしまった。
全部、その報いだろう。
今……僕がこのような状態なのも。
それにしても、京都か。
京都には夕凪がいる。
末の弟のような可愛い夕凪……
彼は達者だろうか。
今頃何をしているのだろうか。
夕凪からの便りは、一度だけだった。僕と流水への風呂敷の贈り物が梱包された荷物が届いてから……残念ながら、それ以降は音沙汰がなかった。
夕凪の元を尋ねてみたい。
住所を……あぁ今の僕の目では、あの荷札を入れた箪笥の中を、確かめられない。
確か、京都の宇治の住所が書かれた荷札をきちんと箱に入れてしまっておいたはずだ。
彩子には、絶対に夕凪のことは話せない。話したくない。
夕凪の身に起きた悲劇……夕凪の出生にまつわる悲劇……それを知るのは、僕と流だけでいい。あとは夕凪を愛する二人の男、信二郎さんと律矢さんとの間の秘密だ。
墓場まで持っていく秘密だから、そう易々と彩子に、荷札を探してもらうわけにはいかない。
「お父さま!何か心配ごと?」
相当悩まし気な顔をしていたのか、部屋に可愛い足音で入ってきた愛娘の辰子の手が、僕の手のひらに重なった。
「あ……辰子」
そうだ、幼い辰子なら……
「辰子、一つ用事を頼まれてくれるか」
「うん、できるわ。たつこ、もう五歳ですもの!」
「ありがとう。あのね……僕のお部屋の桐箪笥は分かるかな。そこの一番上の引き出しなんだけど、そこに大事なものがあってね。そこまで僕を連れて行ってくれる?……お母さまに見つからないようにできるかな」
「なんだか楽しいわ!秘密の探検みたいねぇ」
幼い辰子の肩に手を乗せて、水先案内人をしてもらう。
「お父さま、そっとよ。ほらここがその箪笥よ。引き出しの取っ手はこちらよ」
可愛い案内人だった。引き出しの取っ手を引き、中の箱を探すと、すぐに見つかった。ところが……中を探っても、空っぽだ。どういうことだ?
ここに確かに、夕凪が染めてくれた風呂敷と一緒に、宇治の住所の記載された荷札を入れて置いたはずなのに。
僕の風呂敷は翡翠のような深い森のような色合いで、流水のは蒼い海のような色だった。月影寺の庭先で、流水と風呂敷を重ねて心を通じあった時が懐かしい。
その時、雷に打たれたようにはっとした。
もしや流水は、夕凪の所へ行ったのではないか。
荷札を持ち出したのは、彼しかいない。
ここにあの荷札が入っているのを知っているのは、流水しかいないじゃないか。
も……もしかしたら宇治に行けば、流水に会えるのでは。
そう思うと躰が震え、双眸から涙がはらはらと溢れ出してしまった。
「お父さま、どうなされたの?ん……雨?つめたいわ。あぁ……お目々からまた涙がそんなに零れて。困ったわぁ。泣いてしまう病気なのかしら。今、お母さまを呼んでくるわ」
「待って、辰子、行かないで。僕は大丈夫だから。これは希望の涙なんだよ。だから大丈夫……」
僕は小さな辰子をぎゅっと抱きしめて、涙を隠した。僕が流水のことを未だに探していることを、周りに知られてはいけない。隠し通さないといけないことだ。
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