夕凪の空 京の香り

志生帆 海

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第三章

白き花と夏の庭 11

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「夕凪……」

 目の前に立っているのが本当に夕凪のなのか、それとも幻なのか……夢現な気持ちだった。

 海風に教えてもらった寺には早い時間に辿り着いた。そこは北鎌倉の山奥に広大な敷地を誇る古寺だった。

 そのまま正門を潜る勇気が持てずに裏門から入った。

 少しだけ息を整え、心を整えたかったから。

 裏門は山の上に位置していたようで、坂道を下るような感じで私は歩いていた。

 生い茂った草花、そびえたつ竹林。そんな緑で覆いつくされたような世界の中に、突然飛び込んで来たのは白きもの。

 それは目を凝らすと白き花だった。夜空に輝く星のように凛とした六枚の乳白色の花弁。淡い黄色の花粉も芳しく、茎葉の緑も思慮深いものだ。眼下の岩場には滝があり、滝に沿ってその花は咲いていた。

「この花は……まるで夕凪のように気高く美しいな」

 視線をずらすと、その岩場にちらっと人影が遠目に見えた。花を取ろうとしているのか、岩場から身を乗り出し手を伸ばしているようだった。不審に思い、崖を降りてよく確かめようと思った。背格好がよく似ている。まさか……

「一体誰だ? もしや……」

 次の瞬間信じられない横顔を見た。

 楚々とした着物姿の青年は、この一年もの間ずっとずっと探し求め、逢いたくてたまらなかったかの人。

 夕凪……君だった。

「夕凪! 夕凪会いたかった! お願いだ、こっちを向いてくれ」

 大声で呼びかけると、彼もこちらを見た。目を大きく見開いて驚愕しているようだ。

 なんてことだ! やはり本人だ! 間違いない!

 海風の言った通り、やはりこの寺に夕凪はいたのだ。

 懐かしそうに、それでいてもどかしそうな表情のまま動かない夕凪。

 どうした? 一体何があった?

 聞きたいことは山ほどある。だが今はそんなことどうでもよかった。生身の夕凪をこの腕に抱きしめたかった。

「夕凪、こっちへ来い!」

 彼の眼は戸惑いで揺れていた。

「本当に信二郎なのか……そんな」
「あぁ俺だ! 君を迎えに来た」
「俺を……?」
「当たり前だ、一年前からずっと探し求めていた。ずっと逢いたかった、さぁ」

 大きく手を伸ばした。こちらに来て欲しい。だが彼は寂しげに首を振った。そんな態度を取る理由が分からぬ。

「駄目だ……駄目だよ……信二郎、俺はもう昔の俺じゃない」

 寂し気に揺れる白い顎、首……儚げさが増したその姿。一体この一年の間に、君に何があったのだ。

「夕凪、何を言っている? 君は君じゃないか。今そこにいるのは夕凪だろう」
「俺はもう……以前とは……」

 もどかしい。
 やはり何かあったのだ。
 じゃなければ、一年もの間、こんなところにいるはずがない。

 一体何が……列車の中でか、それとも途中下車した大船でか。嫌な光景が過る。いやそんなことはどうでもいい。

「夕凪は夕凪だ。さぁ来い! 何があっても私は君が好きなんだ」
「……何があっても? 」

 寂し気な笑みだ。
 何故そんな諦めたような表情を。

「さぁ来い! 私のもとへ帰ってこい、迎えに来た」

****

 この手を取っても良いのか。

 俺の身はもう穢され汚れているのに……
 この手を取るのは許されるのだろうか。

 もうこのまま寺で一生を過ごすのかもしれない。
 それも良いのかもしれない。

 そんな風に思っていた矢先の出来事。
 まさか信二郎、君が俺を探し求め、迎えに来てくれるなんてな。

「さぁ来い! 」

 力強い一言だった。

 一歩の勇気、あと少しの……勇気を俺にくれ。まだ足が動かないよ。

 そんな時あの母の墓で邂逅した、彼の顔を思い出した。隣に立つ男性としっかり手を繋ぎ、幸せそうな笑みを浮かべた彼の顔は、俺とそっくりだった。

 彼のようになりたい。
 彼のように生きたい。

 この手を取れば、そうなれるのか。

(そうだよ。夕凪……さぁ進んで、真っすぐに)

 そんな優しい声が聴こえた。

 トンっと見えない手で背中を押されたような気がした。
 その反動で一歩足が前に出た。

「信二郎……」
「夕凪、さぁ手を寄こせ。そこは足場が悪い」
「あぁ」

 もう一歩。
 手を俺の方からも伸ばした。

 あと少し……
 あと少しで一年ぶりに信二郎に触れられる。







 ところが差し出した手が、信二郎に触れるか否かの瞬間だった。
 突然視界が左右にぶれた。


「あっ!」

 足元の岩場が突然崩れたのだ。ぐらりと揺れる躰を支えきれない。

「信二郎っ!」

 短く悲鳴のような声!!

「夕凪っ」

 信二郎の手を掴もうと伸ばしたのに、どんどん離れていく。

 真っ逆さまに、躰が落ちていく!

 必死に何かを掴もうと手を振り回し、俺の手にやっと触れたのは白き花だった

 白き花がぱっと散らばる中、俺は落ちていく。

 真っ逆さまに!









****
本日は別途連載中の『重なる月』花の咲く音 12・13とリンクしています。


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