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第二章
捕らわれる 8
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疲れた。
躰が悲鳴を上げている。
庭掃除の後は、夕食の片づけを手伝い、ようやく自分の夕食といっても信じられないほど粗末な食事を口に出来たのは、もう夜の二十一時を回っていた。
冷たい。
誰もいない台所の片隅で食事を一人口にすると、米は冷たくパサついていた。
まずい。
いつも炊き立ての熱々の白米が出てくるのが、当たり前だった。
酷く惨めな気持ちになり、涙が込み上げてくるのをくっと堪え、とりあえずご飯を腹に入れた。空腹というものがこんなにも辛いなんて……俺は何一つ知らなかった。
「なんだ、まだここにいたのか。お前の風呂の番だから早くしろっ」
下男頭に声をかけられたので、急いで片づけをして部屋に戻った。一日の労働で汗と泥にまみれ穢れた躰を洗いたくてしょうがなかった。
大鷹屋は京都一の呉服屋で、敷地面積も広大なので使用人専用の棟が屋敷内にある。屋敷の北側に立つ棟は、どこか暗く陰湿な雰囲気で満ちていた。
自分にあてがわれた部屋は個室ではなく、男四人の共同部屋で、部屋に足を踏み入れるなり、無遠慮な視線を受けた。
「ヒューヒュー」
いやらしい口笛の音が、かび臭い湿った部屋に鳴り響く……
「お前がもと若旦那って奴か。どれ顔をよく見せろ」
腕を強く掴ま高と思うと、くいっと顎を掴まれ、灯りの方を向かされた。ざらついた中年の男の手に触れられる嫌悪感で、胸が潰れそうになってしまう。
「離れろ!俺に気安く触るな」
「はははっお前っまだ若旦那時代のことが抜けきれないんだな。だが本当に品がある綺麗な顔立ちなんだ。ほぅ……噂通りの美形だな」
「っつ」
一体何だ。
俺に何を求める…
昨夜、暴漢に押さえつけられ怪我した部分がズキッと痛みだす。
まるで心の痛みと呼応しているかのようだ。
「放せっ」
着替えを持って、逃げるように風呂場へ向かうと、幸い風呂の最後の一人だったようで誰もいなかった。ほっと安堵の溜息を漏らしながら湯船につかれば、視界が霞んでくる。
いつの間に両目から涙があふれ出て来ていたのか。もう本当に嫌になってくる。どうしたらこの悪夢から逃れられるのか。れ以上、あんな風に卑猥な目で見られたりするのはたまったものじゃない。俺は男なのに……
明けない夜はないというが、俺にはこの先の日々が暗黒の世界のように広がっているようだ。あのの部屋に戻るのも、朝になって大旦那に呼ばれるのも、何もかも辛い。果たして自分の力で立ち上がることが出来るだろうか……今の自分にはそんな自信はない。このまま流されるように、ここで時が過ぎるを待つのみなのか…
風呂上がりにすぐに部屋に戻る気がしなくて、庭で時間を潰した。あの中年の男の厭らしい手つきや眼を思い出すと、部屋に戻るのが怖かった
「夜空は綺麗だ……どこまでも澄んでいる」
庭先で空を見上げると、煌く星空がどこまでも透き通るように広がっていた。吸い込まれるように綺麗な青い青い世界……遠い彼方で瞬く星に近づきたい。
あの宇宙(そら)の向こうへ自由に羽ばたけたら……
もし羽があったのなら、俺は真っ先に君の元へ行くよ。
信二郎、今すぐ君に会いたい。
****
「信二郎、随分飲んでいるな。一体どうしたんだ?」
「あぁ?お前か」
祇園の行きつけの店で酒を浴びるように飲んでいると、染物屋の旦那に声をかけられた。
「何でそんなに荒れてんだ?」
「……ちょっとな」
「何かあったのか」
「どうやら……大事なものをなくしたみたいなんだ」
「ふむ、それはもう取り戻せないのか」
「わからん」
分からないんだ。夕凪が忽然と姿を消してしまったのは何故なのか。
あれから夕凪の店の前を何度通っても、夕凪の姿を捉えることは一度もなかった。
店に入って話を聞きたくても、門前払いをされて状況が分からない。
分からないこと……
会えないこと……
すべてのことに苛立ってしまう。
「くそっ……もう一合、酒をくれ」
躰が悲鳴を上げている。
庭掃除の後は、夕食の片づけを手伝い、ようやく自分の夕食といっても信じられないほど粗末な食事を口に出来たのは、もう夜の二十一時を回っていた。
冷たい。
誰もいない台所の片隅で食事を一人口にすると、米は冷たくパサついていた。
まずい。
いつも炊き立ての熱々の白米が出てくるのが、当たり前だった。
酷く惨めな気持ちになり、涙が込み上げてくるのをくっと堪え、とりあえずご飯を腹に入れた。空腹というものがこんなにも辛いなんて……俺は何一つ知らなかった。
「なんだ、まだここにいたのか。お前の風呂の番だから早くしろっ」
下男頭に声をかけられたので、急いで片づけをして部屋に戻った。一日の労働で汗と泥にまみれ穢れた躰を洗いたくてしょうがなかった。
大鷹屋は京都一の呉服屋で、敷地面積も広大なので使用人専用の棟が屋敷内にある。屋敷の北側に立つ棟は、どこか暗く陰湿な雰囲気で満ちていた。
自分にあてがわれた部屋は個室ではなく、男四人の共同部屋で、部屋に足を踏み入れるなり、無遠慮な視線を受けた。
「ヒューヒュー」
いやらしい口笛の音が、かび臭い湿った部屋に鳴り響く……
「お前がもと若旦那って奴か。どれ顔をよく見せろ」
腕を強く掴ま高と思うと、くいっと顎を掴まれ、灯りの方を向かされた。ざらついた中年の男の手に触れられる嫌悪感で、胸が潰れそうになってしまう。
「離れろ!俺に気安く触るな」
「はははっお前っまだ若旦那時代のことが抜けきれないんだな。だが本当に品がある綺麗な顔立ちなんだ。ほぅ……噂通りの美形だな」
「っつ」
一体何だ。
俺に何を求める…
昨夜、暴漢に押さえつけられ怪我した部分がズキッと痛みだす。
まるで心の痛みと呼応しているかのようだ。
「放せっ」
着替えを持って、逃げるように風呂場へ向かうと、幸い風呂の最後の一人だったようで誰もいなかった。ほっと安堵の溜息を漏らしながら湯船につかれば、視界が霞んでくる。
いつの間に両目から涙があふれ出て来ていたのか。もう本当に嫌になってくる。どうしたらこの悪夢から逃れられるのか。れ以上、あんな風に卑猥な目で見られたりするのはたまったものじゃない。俺は男なのに……
明けない夜はないというが、俺にはこの先の日々が暗黒の世界のように広がっているようだ。あのの部屋に戻るのも、朝になって大旦那に呼ばれるのも、何もかも辛い。果たして自分の力で立ち上がることが出来るだろうか……今の自分にはそんな自信はない。このまま流されるように、ここで時が過ぎるを待つのみなのか…
風呂上がりにすぐに部屋に戻る気がしなくて、庭で時間を潰した。あの中年の男の厭らしい手つきや眼を思い出すと、部屋に戻るのが怖かった
「夜空は綺麗だ……どこまでも澄んでいる」
庭先で空を見上げると、煌く星空がどこまでも透き通るように広がっていた。吸い込まれるように綺麗な青い青い世界……遠い彼方で瞬く星に近づきたい。
あの宇宙(そら)の向こうへ自由に羽ばたけたら……
もし羽があったのなら、俺は真っ先に君の元へ行くよ。
信二郎、今すぐ君に会いたい。
****
「信二郎、随分飲んでいるな。一体どうしたんだ?」
「あぁ?お前か」
祇園の行きつけの店で酒を浴びるように飲んでいると、染物屋の旦那に声をかけられた。
「何でそんなに荒れてんだ?」
「……ちょっとな」
「何かあったのか」
「どうやら……大事なものをなくしたみたいなんだ」
「ふむ、それはもう取り戻せないのか」
「わからん」
分からないんだ。夕凪が忽然と姿を消してしまったのは何故なのか。
あれから夕凪の店の前を何度通っても、夕凪の姿を捉えることは一度もなかった。
店に入って話を聞きたくても、門前払いをされて状況が分からない。
分からないこと……
会えないこと……
すべてのことに苛立ってしまう。
「くそっ……もう一合、酒をくれ」
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