深海 shinkai(改訂版)

志生帆 海

文字の大きさ
上 下
70 / 116
出逢いの章

集う想い 20

しおりを挟む
 微かな水音に確信した。

「松本さん!」
「優也さん!」

 俺とKaiの声が重なった瞬間、松本さんがはっとこちらを見た。

「え……なんで二人が」

 動揺した震える声。

 小鹿のような黒目がちな目は、夜露を含んだようにしっとりと濡れていた。

 こんな場所で独り泣いていたのか。

「優也さん心配したよ。さぁこっちへ」

 Kaiが手を松本さんへ向かって大きく差し伸ばす。

 お願いだ。早くその手を掴んで!

 なのに松本さんは大きく一歩下がってしまった。

 何故?今しかないのに……その深海から抜け出るのは今だ!

「優也さんどうしたんだ?俺を怖がらなくてもいい」
「そうじゃないんだ、僕は……汚れていて」

 雲に隠れていた月が再び姿を現し、松本さんの躰を照らした。

 着ている白いシャツのボタンが取れているようで、ひらひらと風に棚引いて、松本さんの素肌が見え隠れしていた。視線をずらすと嫌でも目に入って来るのは首、胸元についた赤いまばらな痕。それは……さっきの東谷さんの額の傷と結びつく。

 そんな俺達の視線に気が付いたようで、松本さんは慌てて胸元を手で覆い、また一歩後退してしまった。首を必死に横に振っている。

 見られたくない!知られたくない!
 その気持ちが俺には痛いほど分かる。

「こんな姿……君に見せたくなかった」

 今にも逃げ出していきそうな松本さんの姿に、胸が詰まる。


****


 その時茂みが揺れ、信じられないことにKaiくんと洋くんが、僕の目の前に現れた。

 でも差し伸ばされ手は、どうしても掴めなかった。

 翔と会わなかったら、あのままKaiくんと駅ですぐに会えていたら、真っすぐに飛び込むはずだった胸に、今は飛び込めない。

 じりじりと自然に自分の足が後退して行く。
 だって無理だろう……こんな姿なんだ。今の僕は……

「……こんな姿見せたくなかった」
「松本さん待って。そのまま動かないで下さい。Kaiごめん。少しだけでいい、もう少し下がって後ろを向いていてくれ」

 洋くんはKaiくんを遠ざけたあと、一人で僕のもとへ近づいて来た。そして持っていた鞄から、カーディガンを取り出し羽織らせてくれハンドタオルを湧き水で濡らし、僕の唇をそっと拭ってくれた。それから首筋と胸元まで数か所つけられた痕の上を拭いてくれた。

「松本さん大丈夫ですか。さっき実は東谷さんと駅で会いました。だから察しは……でも大丈夫。これ以上のことは何もなかったのですよね。痕はこれで清めれば大丈夫。お願いです。どうかKaiを拒まないで……Kaiはすべてを知っても受け入れてくれます。とても心が広い奴なんです」

 静かな瞳、何もかも知っているのか。それとも洋くん自身にもこんな経験があったからなのか。洋くんの思慮深い瞳はそれ以上は何も語らず、黙々と僕の震える唇や首筋を拭き続けた。

「もしかして……僕の過去を……翔とのことを、Kaiくんは全部知ってしまったのか」

 返事がない。

 ということは……

 思わず洋くんの手を停めてしまった。

 もう何もかも恥ずかしくて、思わずこの場から逃げ出したくなった。

「松本さん落ち着いて!松本さんが恥じることじゃない!だってその瞬間瞬間で確かに東谷さんと愛しあっていたのだから。それが終わってしまったとしても、その時の気持ちまで否定しないで……少なくとも東谷さんはそう思っているんじゃないですか」

「でも……僕は」
「彼、さっき俺達に、松本さんをよろしくって俺たちに向かって頭を下げたんです」
「えっ翔が……」

 翔がそんなことを?信じられない。あの翔が僕のために頭を下げるなんて……

 そうだ、僕も変わったが翔も変わったのだ。

 別れてからの月日は、決して無駄じゃなかった。

「ええ、確かに車の中で無理強いをしたのは良くないことですが、途中でやめ、そしてもうすべてを終わらせてくれたのですよね?」

「うん……そうだ。翔は落ち着いたら、無理したことを謝ってくれた。いや僕も……僕も、翔に悪かったんだ。ずっと言いたいことも言わず中途半端で。だからなんだ、僕たちが上手くいかなかったのは」

「それならば……もういいじゃないですか!お互い納得したのだから」

「……僕たちは『さよなら』と言い合えた」


 そうか……そうなのか。

 こんな恋の終わりもある。

 そしてこんな恋の始まりもある。

 洋くんも今、僕と全く同じことを考えているような気がした。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

懐いてた年下の女の子が三年空けると口が悪くなってた話

六剣
恋愛
社会人の鳳健吾(おおとりけんご)と高校生の鮫島凛香(さめじまりんか)はアパートのお隣同士だった。 兄貴気質であるケンゴはシングルマザーで常に働きに出ているリンカの母親に代わってよく彼女の面倒を見ていた。 リンカが中学生になった頃、ケンゴは海外に転勤してしまい、三年の月日が流れる。 三年ぶりに日本のアパートに戻って来たケンゴに対してリンカは、 「なんだ。帰ってきたんだ」 と、嫌悪な様子で接するのだった。

キサラギムツキ
BL
長い間アプローチし続け恋人同士になれたのはよかったが…………… 攻め視点から最後受け視点。 残酷な描写があります。気になる方はお気をつけください。

彼の理想に

いちみやりょう
BL
あの人が見つめる先はいつも、優しそうに、幸せそうに笑う人だった。 人は違ってもそれだけは変わらなかった。 だから俺は、幸せそうに笑う努力をした。 優しくする努力をした。 本当はそんな人間なんかじゃないのに。 俺はあの人の恋人になりたい。 だけど、そんなことノンケのあの人に頼めないから。 心は冗談の中に隠して、少しでもあの人に近づけるようにって笑った。ずっとずっと。そうしてきた。

別れの夜に

大島Q太
BL
不義理な恋人を待つことに疲れた青年が、その恋人との別れを決意する。しかし、その別れは思わぬ方向へ。

キンモクセイは夏の記憶とともに

広崎之斗
BL
弟みたいで好きだった年下αに、外堀を埋められてしまい意を決して番になるまでの物語。 小山悠人は大学入学を機に上京し、それから実家には帰っていなかった。 田舎故にΩであることに対する風当たりに我慢できなかったからだ。 そして10年の月日が流れたある日、年下で幼なじみの六條純一が突然悠人の前に現われる。 純一はずっと好きだったと告白し、10年越しの想いを伝える。 しかし純一はαであり、立派に仕事もしていて、なにより見た目だって良い。 「俺になんてもったいない!」 素直になれない年下Ωと、執着系年下αを取り巻く人達との、ハッピーエンドまでの物語。 性描写のある話は【※】をつけていきます。

【完結】遍く、歪んだ花たちに。

古都まとい
BL
職場の部下 和泉周(いずみしゅう)は、はっきり言って根暗でオタクっぽい。目にかかる長い前髪に、覇気のない視線を隠す黒縁眼鏡。仕事ぶりは可もなく不可もなく。そう、凡人の中の凡人である。 和泉の直属の上司である村谷(むらや)はある日、ひょんなことから繁華街のホストクラブへと連れて行かれてしまう。そこで出会ったNo.1ホスト天音(あまね)には、どこか和泉の面影があって――。 「先輩、僕のこと何も知っちゃいないくせに」 No.1ホスト部下×堅物上司の現代BL。

上手に啼いて

紺色橙
BL
■聡は10歳の初めての発情期の際、大輝に噛まれ番となった。それ以来関係を継続しているが、愛ではなく都合と情で続いている現状はそろそろ終わりが見えていた。 ■注意*独自オメガバース設定。■『それは愛か本能か』と同じ世界設定です。関係は一切なし。

ハッピーエンド

藤美りゅう
BL
恋心を抱いた人には、彼女がいましたーー。 レンタルショップ『MIMIYA』でアルバイトをする三上凛は、週末の夜に来るカップルの彼氏、堺智樹に恋心を抱いていた。 ある日、凛はそのカップルが雨の中喧嘩をするのを偶然目撃してしまい、雨が降りしきる中、帰れず立ち尽くしている智樹に自分の傘を貸してやる。 それから二人の距離は縮まろうとしていたが、一本のある映画が、凛の心にブレーキをかけてしまう。 ※ 他サイトでコンテスト用に執筆した作品です。

処理中です...