上 下
1,646 / 1,743
小学生編

冬から春へ 38

しおりを挟む
前置き

 こんにちは! 志生帆海です。今日からまた通常運転に戻りますね。

 だいぶ間が空いてしまったので、少しおさらいを。

『冬から春へ』は、軽井沢の潤のアパートが火事で燃えてしまうショッキングな事件から始まりました。幸い全員無事でしたが、アパートが全焼してしまい、潤家族は家を失い路頭に迷いそうになります。そこにくまさんとお母さん、瑞樹達が駆けつけてくれました。

 潤は火事の第一発見者だったので警察や消防での手続きがあり、また仕事もあります。その合間に新しい家を見つける必要があるので、自ら軽井沢に残る選択をしますが、いっくんと菫さんは宗吾さんの家で預かってもらうことにしました。火事を目の当たりにしたいっくんや美樹さんとの思い出の家を失ってしまった菫さんの心情を気遣っての潤らしい優しい決断です。
 
 現在、菫さんはいっくんと東銀座の『テーラー桐生』に、芽生のダウンコートの修理に訪れ、瑞樹も花の生け込みで『Barミモザ』を訪れています。

 潤と大沼のお父さんとお母さんは軽井沢のキャンプ場に仮住まい中です。

 それでは本編をどうぞ!

 また『幸せな存在』のハートフルな世界に浸っていただけたら嬉しいです。


****

 軽井沢

 オレはイングリッシュガーデンを飛び出し、焼けてしまったアパートに向かった。

 瓦礫の山になったアパートのありのままの姿を、最後にもう一度、この目に焼き付けておこう。

 このアパートで菫は、美樹さんと新婚生活を始めた。

 駆け落ち結婚だったと聞いている。

 二人だけの力で漕ぎ出した新しい生活。

 きっと結婚生活は慎ましい暮らしぶりだったろう。

 初めてアパートに招かれた時、正直驚いた。

 とても小さな子供がいる家には見えなかった。

 質素で簡素で寂しい部屋だった。

 ここで菫はいっくんを守り、いっくんを育てて来た。

 美樹くんとの別れの夜、涙の雨が降った場所でもある。

 だから……オレにとって、どこまでも神聖な場所だった。

 だが火事で全焼し、美樹さんの思い出は悉く消えてしまった。

 本棚の片隅に残っていた付箋の付いた医学書や、引き出しの片隅に残っていた持ち主を失った使いかけのペン。

 それらは、ひっそりとオレたちの生活を見守ってくれているようだった。

 菫の喪失感は計り知れない。

 オレだって、こんなに物寂しい気分になっているのだから。

 黒い燃えかすを手で掬うと、胸の奥からこみ上げてくるものがあった。

 美樹さん、完全に……逝ってしまったのですね。

 何もかも引き払うかのように、残っていた物も、この世から消してしまうなんて。

 耳を澄ましても、オレには美樹さんの声は聞こえない。

 だが、きっとこう言っているのだろう。

 前に進んでおくれ――

 それでも、それでも……片隅にいてくれても良かったのに……

 アパートの部屋の様子は、目に焼きついている。

 だから寂しい。

 膝をついて炭で汚れた黒い手を見つめていると、涙がこみ上げてきた。

 真っ黒だ。

 暗闇って怖いな。

 美樹さんもこの世を離れるのは怖かったろう。

 だがきっと今は、心穏やかに雲の上から見守ってくれている。

 そう思うようにした。

「ちょっと、あんた……そんな手で目を擦っちゃ駄目だよ」
「えっ……」

 しわがれた声に顔を上げると、オレが火事場で助けたばーちゃんが立っていた。

「ばーちゃん! あれから無事だったのか」
「あぁ、あんたが助けてくれたから、この通り、まだこの世にいるよ」
「よかった。あの後、姿が見えなくなって気になっていたんだ」
「それはこっちの台詞だよ。私を助けてくれてありがとう。礼が言いたくて、娘と一緒にずっとあんたを探していたんだよ。職場にも行ってみたが会えなくてもう諦めていたんだけど、ダメ元で、ここに来てみて良かったよ」

 そうか、職場に来てくれたのって、ばーちゃんだったのか。

 足が悪いのにアパートの2階に住んでいて、いつも気がかりだった。

 何度かおんぶして上がり、重たい荷物も持ってあげた。

 昔のオレだったら素通りする場面だったが、瑞樹兄さんだったらどうするだろうと置き換えると、自然と行動出来た。

「ばーちゃん、無事で良かったよ。ばーちゃん、住まいはどうするんだ?」
「あぁ、これを機に娘夫婦のところに厄介になるよ」
「おかあさんってば、私たちは前から大歓迎だったのに遠慮して」

 隣りに立っていた娘さんが微笑んだ。

「逃げ遅れた母を助けて下さってありがとうございます。日頃から母がお世話になっているのにちゃんとお礼もせず……」
「いえ、お互いさまなので気にしないで下さい。それより無事で良かった」
「火事場のあんたはかっこ良くて、お父ちゃんには悪いけど惚れ惚れしたよ」
「お母さんってば」
「ははっ、光栄です」
「……あんたはいい男だ。菫ちゃんはご主人が亡くなって苦労したが、あんたのような人と出逢えて良かった。あぁ、口が悪くて悪いね。あんたじゃないね。潤は……葉山 潤は男の中の男で100点満点だ!」

 手放しで褒められて気恥ずかしいやら嬉しいやら……

 こんな時兄さんならどう応じる?

 きっとこうだ。

 胸を張って顔を上げて

 今のオレを見てくれている人に、伝えたい言葉は

「ありがとうございます!」


****

 東銀座の路地裏に、こんな立派な石造りのビルがあるなんて。

 一体いつ頃建てられたのかしら?

 クラシカルな雰囲気の佇まいに惚れ惚れしちゃう。

「ここが俺の城だ」
「すごいですね」
「さぁ、どうぞ」
「お、お邪魔します」
「おじゃましましゅ」

 いっくんと手を繋いでテーラーの中に入ると、シックな赤い絨毯に驚いた。私が生きてきた世界にはないふかふかの踏み心地だわ。

「東京は人が多くて、疲れただろう?」
「大丈夫です。それよりこれを……芽生くんのダウンジャケットなんですけど、ファスナーが壊れてしまって」
「あぁ、これか。なるほど、これは確かに総取っ替えしないと駄目だな」
「出来そうですか」
「任せておけって。そうだ、いっくん、待っている間、ジュースを飲むか」

 いっくんはびっくり顔で、首をぶんぶんと振った。

「ん? いらないのか? 喉が渇いただろう」
「あ……えっと、おちゃをのみましゅ。ママ、すいとうは?」

 あ、水筒……すっかり忘れていたわ。

 あの日いっくんが保育園から持って帰った水筒は、手元にあったのに。

「ごめんね。ママ……うっかりしていて忘れちゃったの」
「だいじょうぶだよ。いっくん、がまんできるよ」
「よーし、地下に、俺の弟のやっているBARがあるんだ。そこでジュースをもらってくるよ。いっくんは何ジュースがいい? 遠慮するなよ」
「いいの? ほんとうにいいの?」

 いっくんが私と大河さんを不安そうに見上げている。

「いっくん、お願いしようか」
「うん! いっくんね、とってもしゅきなのがあるの」
「何だ?」
「あのね、すいしゃんのももおちりがしゅきなの」
「えっと、すいしゃん? 水産? それはあまり聞いたことがないか飲料メーカーか」

 わわ、いっくんってば、それじゃ宗吾さんみたいにへん……よ。

 すいしゃんは月影寺のご住職さまなのに、申し訳ないわ~

「ああああ、何でもないです。桃のジュースはありますか」
「あるさ、カクテルで使うからな。じゃあちょっと店番をしていてくれ」
「はい」


****

 僕は地下のBARで息を整え、早速生け込みを始めた。

 限られた時間内で仕上げるので、ぐっと集中していく。

 すると僕の作業を見守っていた二人が、柔らかい雰囲気で話し出した。

「ミモザか……もうそんな季節か」
「兄さん、ミモザは俺たちにとって大切な花だよな」
「この花が繋げてくれたんだ、お前との運命を」
「あぁ、そうだ。あれ? そういえば兄さん、今日はお客さんじゃなかったのか」
「あぁ、飲み物を出してやりたくてな」
「いいよ、何でも作るよ。カクテルでいいのか」
「あ、いや、お客さんはお子さんなんだ」
「へぇ、おちびちゃんか。じゃあジュースだな」

 大河さんと蓮くんの会話って雰囲気があるから、ドキドキする。

「それで桃ジュースがいいそうだ。あるか」
「あぁ、ちょうど完熟桃ジュースを仕入れたよ」
「へぇ、いいな。味見させてくれ」

 完熟の桃?

 熟れた桃と言えば……

 僕の中では『すいしゃんのおちり』一択だ。

 そう、いっくんのお陰でインプットされてしまったよ。

 今は仕事中だぞ、瑞樹。
 
 余計な煩悩は振り払わないと、どうも最近の僕はヘンだ。

 息を吐いて、再びミモザの花を見つめた。

 暗い照明の中で瞬く花も美しい。
 
  


しおりを挟む
感想 76

あなたにおすすめの小説

病気になって芸能界から消えたアイドル。退院し、復学先の高校には昔の仕事仲間が居たけれど、彼女は俺だと気付かない

月島日向
ライト文芸
俺、日生遼、本名、竹中祐は2年前に病に倒れた。 人気絶頂だった『Cherry’s』のリーダーをやめた。 2年間の闘病生活に一区切りし、久しぶりに高校に通うことになった。けど、誰も俺の事を元アイドルだとは思わない。薬で細くなった手足。そんな細身の体にアンバランスなムーンフェイス(薬の副作用で顔だけが大きくなる事) 。 誰も俺に気付いてはくれない。そう。 2年間、連絡をくれ続け、俺が無視してきた彼女さえも。 もう、全部どうでもよく感じた。

夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました

氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。 ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。 小説家になろう様にも掲載中です

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢

岡暁舟
恋愛
妹に正妻の座を奪われた公爵令嬢マリアは、それでも婚約者を憎むことはなかった。なぜか? 「すまない、マリア。ソフィアを正式な妻として迎え入れることにしたんだ」 「どうぞどうぞ。私は何も気にしませんから……」 マリアは妹のソフィアを祝福した。だが当然、不気味な未来の陰が少しずつ歩み寄っていた。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

「君の為の時間は取れない」と告げた旦那様の意図を私はちゃんと理解しています。

あおくん
恋愛
憧れの人であった旦那様は初夜が終わったあと私にこう告げた。 「君の為の時間は取れない」と。 それでも私は幸せだった。だから、旦那様を支えられるような妻になりたいと願った。 そして騎士団長でもある旦那様は次の日から家を空け、旦那様と入れ違いにやって来たのは旦那様の母親と見知らぬ女性。 旦那様の告げた「君の為の時間は取れない」という言葉はお二人には別の意味で伝わったようだ。 あなたは愛されていない。愛してもらうためには必要なことだと過度な労働を強いた結果、過労で倒れた私は記憶喪失になる。 そして帰ってきた旦那様は、全てを忘れていた私に困惑する。 ※35〜37話くらいで終わります。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

処理中です...