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成就編
聖なる夜に 2
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「おにいちゃん、こっちにきてー」
「何かな?」
シャワーを浴びて居間に戻ると、芽生くんに呼ばれた。
「じゃーん! おにいちゃんがおふろにはいっている間に、パパとホットケーキを作ったんだよ」
「わぁ! すごいね」
「これはね、おにいちゃんのお顔だよ」
ホットケーキにはチョコレートで目と口が描かれ、にっこりと笑っていた。
「いいね。ご機嫌なホットケーキだね」
「えへへ。はやく、たべてみて」
「うん! いただくよ」
フォークを片手に何の気なしにちらっと時計の針を見ると、ちょうど9時だった。
「あ……もう9時なんですね」
しまった! その時刻に、また、ひやりとした。
あの日の僕は、ひとりで家を出て、空港ロビーの柱にもたれて弟の潤を待っていた。やがて、ふらりと現れた潤は恥ずかしそうに鼻の頭を擦っていた。そのまま荷物を先に預けて手荷物検査場に行こうと歩き出した時、潤のスマホが鳴った。
あの電話は、その時は分からなかったが、アイツからだった。そうとも知らずに僕は呑気に構えて、潤の戻りを待っていた。
『潤、どうしたんだろう? 遅いな……』
見上げると、柱の時計はちょうど9時だった。すべての始まりを告げる鐘が鳴った瞬間だ。
「瑞樹、どうした? 」
宗吾さんに肩をポンポンと叩かれて、「ひっ」と短い悲鳴をあげてしまった。思わず立ち上がった拍子に、テーブルクロスに手をひっかけてしまい、皿の割れる音と共に……ホットケーキが床にポトリと落ちてしまった。
「あっ……ごめん」
慌てて拾うおうとしたら、宗吾さんに制された。
「瑞樹は手を出すな」
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫だ。それより怪我はないか」
「……はい」
僕の異常なまでの反応を、宗吾さんも芽生くんも心配そうに見つめている。
駄目だ。このままでは心配をかけてしまう……だから必至に笑顔を作ろうとしたのに、逆に頬が強張ってしまった。
自分で思っていたよりも、今日が事件から丸1年というダメージは強かった。
カレンダーの日付、時計の時刻が怖くて堪らない。もう乗り越えられたと思っていたのに……何故?
「瑞樹、大丈夫だ。今日はどこにも行かない。家で……家族でゆっくり過ごそうな」
宗吾さんが、僕をすっぽりと包み込んでくれる。優しく温かく──
「おにいちゃん、だいじょうぶだよ。おにさんやおばけは、もういないよ」
「うん……」
「瑞樹、感情を抑え込むな……怖いのなら怖いと言えよ」
「はい……」
「ほら、深呼吸しろ」
「……はい」
人間は、あまりに衝撃的な出来事に遭遇してしまうと『息を呑む』という言葉通りに瞬間的に筋肉を硬直させて、無意識にその時感じていた感情を抑え込んで我慢してしまうのだ。今の僕はまさにその状態だ。
「瑞樹、人は弱いものだ。だから……怖いのなら、しっかり吐き出せよ。怖さや恐れの気持ちを、抑え込まなくていい。何度でも繰り返していい……頼むから家族には素直になってくれ」
そんなに力強く優しく言ってもらうと……宗吾さんや芽生くんの前では、弱音を見せてはいけないと思ったのに、我慢できなくなってしまう。
「僕は……今日という日にちが……今という時間が、全部怖い……」
宗吾さんの腕にしがみつきながら訴えると、宗吾さんが「そうか、そうだよな。怖いよな」と、心に寄り添ってくれた。
そこに家の電話が鳴ったので……ますます怯えてしまった。
宗吾さんに出てもらうと、彼はすぐに安心した顔になっていた。
誰だろう?
「函館の広樹からだぞ。瑞樹に話があるって」
「兄さん?」
明るい表情につられて、電話に出てみた。
「もしもし……兄さん」
「瑞樹、聞いてくれ! 今日はいい日だ」
「え?」
唐突すぎて驚いてしまったが、兄さんらしいな。
「そうなの? 何かいい事があったの?」
「さっき、みっちゃんが教えてくれて」
「何を?」
「調べたんだよ。そしたら陽性だった」
「え!」
すぐに何の話かは分かった。秋に憲吾さんのところがご懐妊だったから、みっちゃんも、もしかして、そろそろ……と思っていた。兄さんも結婚式で、すぐにでも赤ちゃんを授かりたいと言っていたし。
「わぁ! 本当なの? 検査薬で陽性だったんだね。じゃあきっと大丈夫だよ。あの検査薬って99パーセント以上の正確さらしいし」
「らしいな。ってか、瑞樹は妙に詳しいな」
「あっ、うん。この前買いに……って、違う違うっ!」
まずいまずい。あの日の醜態を思い出して、赤面してしまった。
「あはは、瑞樹がそんな冗談を言うようになったなんて、こりゃ~宗吾さんの悪い影響だな」
「くすっ、そうかも。兄さん、改めて……おめでとう。赤ちゃんの心拍が無事確認できるといいね」
「あぁ、俺も父親になるのかと思うと、感慨深いよ。じゃあ、今日はパパになれそうな記念日って奴かな」
「うん! そうだね!」
広樹兄さんとの通話を聞いていた宗吾さんと芽生くんも、ハイタッチして喜びあっている。一気に場が和んだ。
「兄さん、今日……聞けてよかった」
「あぁ、そうだな。今日……お前に明るいニュースを届けられてよかったよ」
先ほどまでの恐怖心は消え去り、明るい気持ちになっていた。
ほら、やっぱり……僕は周りの人たちに助けられている。
人はひとりでは生きていない。
僕一人だったら自滅しそうな日でも、こうやって周りにいい影響をもらって、変わっていける。
「瑞樹……知っているか。『辛い』に『一《いち》』を足すと、『幸せ』になるんだぞ。今のお前は、いろんな人に愛されている、見守られている。だから絶対に大丈夫だ」
「何かな?」
シャワーを浴びて居間に戻ると、芽生くんに呼ばれた。
「じゃーん! おにいちゃんがおふろにはいっている間に、パパとホットケーキを作ったんだよ」
「わぁ! すごいね」
「これはね、おにいちゃんのお顔だよ」
ホットケーキにはチョコレートで目と口が描かれ、にっこりと笑っていた。
「いいね。ご機嫌なホットケーキだね」
「えへへ。はやく、たべてみて」
「うん! いただくよ」
フォークを片手に何の気なしにちらっと時計の針を見ると、ちょうど9時だった。
「あ……もう9時なんですね」
しまった! その時刻に、また、ひやりとした。
あの日の僕は、ひとりで家を出て、空港ロビーの柱にもたれて弟の潤を待っていた。やがて、ふらりと現れた潤は恥ずかしそうに鼻の頭を擦っていた。そのまま荷物を先に預けて手荷物検査場に行こうと歩き出した時、潤のスマホが鳴った。
あの電話は、その時は分からなかったが、アイツからだった。そうとも知らずに僕は呑気に構えて、潤の戻りを待っていた。
『潤、どうしたんだろう? 遅いな……』
見上げると、柱の時計はちょうど9時だった。すべての始まりを告げる鐘が鳴った瞬間だ。
「瑞樹、どうした? 」
宗吾さんに肩をポンポンと叩かれて、「ひっ」と短い悲鳴をあげてしまった。思わず立ち上がった拍子に、テーブルクロスに手をひっかけてしまい、皿の割れる音と共に……ホットケーキが床にポトリと落ちてしまった。
「あっ……ごめん」
慌てて拾うおうとしたら、宗吾さんに制された。
「瑞樹は手を出すな」
「ご、ごめんなさい」
「大丈夫だ。それより怪我はないか」
「……はい」
僕の異常なまでの反応を、宗吾さんも芽生くんも心配そうに見つめている。
駄目だ。このままでは心配をかけてしまう……だから必至に笑顔を作ろうとしたのに、逆に頬が強張ってしまった。
自分で思っていたよりも、今日が事件から丸1年というダメージは強かった。
カレンダーの日付、時計の時刻が怖くて堪らない。もう乗り越えられたと思っていたのに……何故?
「瑞樹、大丈夫だ。今日はどこにも行かない。家で……家族でゆっくり過ごそうな」
宗吾さんが、僕をすっぽりと包み込んでくれる。優しく温かく──
「おにいちゃん、だいじょうぶだよ。おにさんやおばけは、もういないよ」
「うん……」
「瑞樹、感情を抑え込むな……怖いのなら怖いと言えよ」
「はい……」
「ほら、深呼吸しろ」
「……はい」
人間は、あまりに衝撃的な出来事に遭遇してしまうと『息を呑む』という言葉通りに瞬間的に筋肉を硬直させて、無意識にその時感じていた感情を抑え込んで我慢してしまうのだ。今の僕はまさにその状態だ。
「瑞樹、人は弱いものだ。だから……怖いのなら、しっかり吐き出せよ。怖さや恐れの気持ちを、抑え込まなくていい。何度でも繰り返していい……頼むから家族には素直になってくれ」
そんなに力強く優しく言ってもらうと……宗吾さんや芽生くんの前では、弱音を見せてはいけないと思ったのに、我慢できなくなってしまう。
「僕は……今日という日にちが……今という時間が、全部怖い……」
宗吾さんの腕にしがみつきながら訴えると、宗吾さんが「そうか、そうだよな。怖いよな」と、心に寄り添ってくれた。
そこに家の電話が鳴ったので……ますます怯えてしまった。
宗吾さんに出てもらうと、彼はすぐに安心した顔になっていた。
誰だろう?
「函館の広樹からだぞ。瑞樹に話があるって」
「兄さん?」
明るい表情につられて、電話に出てみた。
「もしもし……兄さん」
「瑞樹、聞いてくれ! 今日はいい日だ」
「え?」
唐突すぎて驚いてしまったが、兄さんらしいな。
「そうなの? 何かいい事があったの?」
「さっき、みっちゃんが教えてくれて」
「何を?」
「調べたんだよ。そしたら陽性だった」
「え!」
すぐに何の話かは分かった。秋に憲吾さんのところがご懐妊だったから、みっちゃんも、もしかして、そろそろ……と思っていた。兄さんも結婚式で、すぐにでも赤ちゃんを授かりたいと言っていたし。
「わぁ! 本当なの? 検査薬で陽性だったんだね。じゃあきっと大丈夫だよ。あの検査薬って99パーセント以上の正確さらしいし」
「らしいな。ってか、瑞樹は妙に詳しいな」
「あっ、うん。この前買いに……って、違う違うっ!」
まずいまずい。あの日の醜態を思い出して、赤面してしまった。
「あはは、瑞樹がそんな冗談を言うようになったなんて、こりゃ~宗吾さんの悪い影響だな」
「くすっ、そうかも。兄さん、改めて……おめでとう。赤ちゃんの心拍が無事確認できるといいね」
「あぁ、俺も父親になるのかと思うと、感慨深いよ。じゃあ、今日はパパになれそうな記念日って奴かな」
「うん! そうだね!」
広樹兄さんとの通話を聞いていた宗吾さんと芽生くんも、ハイタッチして喜びあっている。一気に場が和んだ。
「兄さん、今日……聞けてよかった」
「あぁ、そうだな。今日……お前に明るいニュースを届けられてよかったよ」
先ほどまでの恐怖心は消え去り、明るい気持ちになっていた。
ほら、やっぱり……僕は周りの人たちに助けられている。
人はひとりでは生きていない。
僕一人だったら自滅しそうな日でも、こうやって周りにいい影響をもらって、変わっていける。
「瑞樹……知っているか。『辛い』に『一《いち》』を足すと、『幸せ』になるんだぞ。今のお前は、いろんな人に愛されている、見守られている。だから絶対に大丈夫だ」
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