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17章
月光の岬、光の矢 57
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「じゃあ、そろそろ帰るよ」
「洋、来てくれてありがとう」
洋はふっと笑みを湛え、くるりと背を向けて、スタスタと去って行った。
廊下にはもう誰もいなかった。
次第に小さくなっていく背中を、私は目を細めて見つめた。
ようやく安心して見送れるようになったな。
以前の私だったら庇護欲にかられ、診察室にも関わらず洋を抱きしめ、深く口づけてしまっただろう。診察台に押し倒す荒技に出てしまったかも。
出逢った頃の洋はどこまでも儚げで、私が常に捕まえてないと、消えていなくなってしまいそうだった。だから毎日のように抱いて、抱き潰して、洋を束縛してしまった。
体中にキスの雨を降らし、キスマークを至る所につけてしまったが、洋はいつも許してくれた。
思い出すと……
恥ずかしいものだな。
私も若かった。
そんな方法しか思いつかないなんて。
「あら、もう洋さんはお帰りに?」
「村山さん!」
「ふふふ、元気が出たようですね。血色が良くなられて」
「わ、私は何もしてないぞ。触れてなんかない!」
はっ! しまった。
今、私は何を口走ったのか。
「うふふ、丈先生が狼狽えるなんて。私はただ顔色が良いとしか言っておりませんよ。丈先生が頭の中でお考えになっていたことは見えていませんので」
「む、村山さんっ」
「ふふっ、ミルクティーを入れました。この茶葉はとても美味しいのですよ」
「ありがとう。よかったら一緒に」
マグカップには洋の分も用意されていたので、私から誘った。
洋以外の人間と話すのは面倒だと思っていたのに、今は違う。
話すことで理解を深めたいと願っている。
「ではご一緒に。丈先生、私がこんなことを言うのはおこがましいですが……エンジンがない状態でアクセルを踏むのは疲れるだけです。丈先生には適宜、愛情というガソリンが必要なんです。愛情は愛しい人からはもちろんですが、家族、兄弟、そして周りにいる人からも受け取ってくださいね」
開業準備と並行して、普段の診察業務に手術の執刀と、かなり疲弊していたのが、村山さんにはお見通しのようだ。
「村山さんからの愛情は……なんというか母の愛に似ているな」
「私、洋さんを息子のように感じています。さっきベンチで控えめに、それでいて凜とした面持ちで待つ姿を見て、放っておけない感情が湧きましたよ」
「ははっ、洋は村山さんのような人と気が合うと思う。宜しく頼む」
人と人との付き合い。
煩わしいと逃げてばかりだったが、それだけではないのだな。
人情……
思いやり……
それは人同士だから感じられるものだ。
****
そのまま帰ろうと思ったが、由比ヶ浜まで足を伸ばした。
海岸に向かって歩くと、白亜の洋館が見えて来た。
由比ヶ浜の美しい海岸を望む古びた洋館は、もう間もなく診療所として息を吹き返す。
どのような物語が紡がれて行くのか。
開業の向けての準備は順調だ。
「ようやくここまで来た。ようやくだ」
おばあさまから受け継いだ洋館は老朽化していたので、まずは耐震性や配管、電気設備の検査し、診療所として使用できるようにバリアフリー化や耐震工事をした。この工事が長引いて、実に1年もの遅れを取ることになってしまった。
「中も綺麗になったな」
扉を開けて中に入ると、新しい壁紙の匂いがした。
内装工事が終わったばかりなのだ。診療所の中は、大がかりに間取りを変えるのではなく、海里先生時代の間取りのまま、洋館のクラシカルな雰囲気を活かした落ち着いた内装デザインに仕上げた。
きっと患者さんに安心感を与えられるだろう。
現在は、医療設備の導入段階だ。
診察台や待合所のソファ類、使えるものはそのまま使用し、その代わり新たにエコーやレントゲン機器を導入した。患者さんをたらい回しにはしたくないので、なるべくここで出来ることを増やしたいというのが丈の願いだ。
来週には薬品や消耗品の準備が始まるそうだ。
薬品や消毒液、包帯、注射器など、診療に必要な医薬品はこの白い棚に並ぶ。
この先は毎日忙しくなるだろう。
忙しくなる前に、丈の勤務医としての姿を見に行くことが出来て良かった。
帰り際、瑠衣さんが教えてくれたことに感謝だ。
『海里が開業する直前、柊一さんは海里先生の勤務医としての姿を、もう見納めだからと見に行っていましたよ』
目を閉じれば浮かぶ、その愛溢れる光景。
俺もそうしたくなった。
丈の勤務医としての姿を、目に焼き付けたくなった。
「洋、来てくれてありがとう」
洋はふっと笑みを湛え、くるりと背を向けて、スタスタと去って行った。
廊下にはもう誰もいなかった。
次第に小さくなっていく背中を、私は目を細めて見つめた。
ようやく安心して見送れるようになったな。
以前の私だったら庇護欲にかられ、診察室にも関わらず洋を抱きしめ、深く口づけてしまっただろう。診察台に押し倒す荒技に出てしまったかも。
出逢った頃の洋はどこまでも儚げで、私が常に捕まえてないと、消えていなくなってしまいそうだった。だから毎日のように抱いて、抱き潰して、洋を束縛してしまった。
体中にキスの雨を降らし、キスマークを至る所につけてしまったが、洋はいつも許してくれた。
思い出すと……
恥ずかしいものだな。
私も若かった。
そんな方法しか思いつかないなんて。
「あら、もう洋さんはお帰りに?」
「村山さん!」
「ふふふ、元気が出たようですね。血色が良くなられて」
「わ、私は何もしてないぞ。触れてなんかない!」
はっ! しまった。
今、私は何を口走ったのか。
「うふふ、丈先生が狼狽えるなんて。私はただ顔色が良いとしか言っておりませんよ。丈先生が頭の中でお考えになっていたことは見えていませんので」
「む、村山さんっ」
「ふふっ、ミルクティーを入れました。この茶葉はとても美味しいのですよ」
「ありがとう。よかったら一緒に」
マグカップには洋の分も用意されていたので、私から誘った。
洋以外の人間と話すのは面倒だと思っていたのに、今は違う。
話すことで理解を深めたいと願っている。
「ではご一緒に。丈先生、私がこんなことを言うのはおこがましいですが……エンジンがない状態でアクセルを踏むのは疲れるだけです。丈先生には適宜、愛情というガソリンが必要なんです。愛情は愛しい人からはもちろんですが、家族、兄弟、そして周りにいる人からも受け取ってくださいね」
開業準備と並行して、普段の診察業務に手術の執刀と、かなり疲弊していたのが、村山さんにはお見通しのようだ。
「村山さんからの愛情は……なんというか母の愛に似ているな」
「私、洋さんを息子のように感じています。さっきベンチで控えめに、それでいて凜とした面持ちで待つ姿を見て、放っておけない感情が湧きましたよ」
「ははっ、洋は村山さんのような人と気が合うと思う。宜しく頼む」
人と人との付き合い。
煩わしいと逃げてばかりだったが、それだけではないのだな。
人情……
思いやり……
それは人同士だから感じられるものだ。
****
そのまま帰ろうと思ったが、由比ヶ浜まで足を伸ばした。
海岸に向かって歩くと、白亜の洋館が見えて来た。
由比ヶ浜の美しい海岸を望む古びた洋館は、もう間もなく診療所として息を吹き返す。
どのような物語が紡がれて行くのか。
開業の向けての準備は順調だ。
「ようやくここまで来た。ようやくだ」
おばあさまから受け継いだ洋館は老朽化していたので、まずは耐震性や配管、電気設備の検査し、診療所として使用できるようにバリアフリー化や耐震工事をした。この工事が長引いて、実に1年もの遅れを取ることになってしまった。
「中も綺麗になったな」
扉を開けて中に入ると、新しい壁紙の匂いがした。
内装工事が終わったばかりなのだ。診療所の中は、大がかりに間取りを変えるのではなく、海里先生時代の間取りのまま、洋館のクラシカルな雰囲気を活かした落ち着いた内装デザインに仕上げた。
きっと患者さんに安心感を与えられるだろう。
現在は、医療設備の導入段階だ。
診察台や待合所のソファ類、使えるものはそのまま使用し、その代わり新たにエコーやレントゲン機器を導入した。患者さんをたらい回しにはしたくないので、なるべくここで出来ることを増やしたいというのが丈の願いだ。
来週には薬品や消耗品の準備が始まるそうだ。
薬品や消毒液、包帯、注射器など、診療に必要な医薬品はこの白い棚に並ぶ。
この先は毎日忙しくなるだろう。
忙しくなる前に、丈の勤務医としての姿を見に行くことが出来て良かった。
帰り際、瑠衣さんが教えてくれたことに感謝だ。
『海里が開業する直前、柊一さんは海里先生の勤務医としての姿を、もう見納めだからと見に行っていましたよ』
目を閉じれば浮かぶ、その愛溢れる光景。
俺もそうしたくなった。
丈の勤務医としての姿を、目に焼き付けたくなった。
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