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17章
月光の岬、光の矢 45
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淹れたお茶は、たった一滴しか運べなかった。
迷ったが、お出しした。
そして一部始終を、息を呑んで見守った。
丈が連れてきた女性は、その一滴を大切に飲み干してくれた。
喉がゴクッと動いた後、放たれたのは笑顔だった。
温もりのある微笑みに、胸をほっと撫で下ろした。
「とても美味しかったです。心をこめて淹れて下さったのが伝わりました」
良かった。
ちゃんと伝わった。
小さい頃、母に教えてもらったことを思い出した。
……
「ゴホゴホッ……」
父が亡くなってから、母は病床に伏すことが多くなった。
こんな時、頼もしい父がいてくれたら甲斐甲斐しく看病してくれるのに、まだ小学校1年生の俺に出来ることは少なかった。
ただ傍にいることしか出来ず、不安で心配でたまらなかった。
母までいなくなってしまったらどうしようと、怯える日々だった。
「ママ、だいじょうぶ? おくすりのんで……ぐすっ」
「洋ちゃん、ごめんね。そうね……あ、お水をくんでこないと」
「おみずなら、ぼくがくんでくるよ」
「大丈夫? 洋ちゃんの割れないマグカップをつかってね」
「うん!」
ところが台所で水を注ぎすぎて、廊下にポタポタ、こぼしてしまった。
ベッドに辿り着く頃には、マグカップに水は残っていなかった。
「ママ、ごめんなさい……ぐすっ」
「まぁ、洋ちゃん、どうして泣くの?」
「……おみず、ぜんぶこぼしちゃった」
母は空っぽになってしまったマグカップを傾けて、目を細めた。
「ちゃんとあるわよ」
「えっ、どこに?」
「ここに一滴」
「そんなちょっとじゃ……おくすり、のめないよ」
首をブンブン横にふると、母はまた笑顔を浮かべてくれた。
熱があって苦しいはずなのに、父がいた頃のような優しい穏やかな微笑みだった。
「この一滴には、洋ちゃんの心がこもっているの。どんなお薬よりも効くのよ」
一滴の雫を飲んで、母は優しく俺を抱き締めてくれた。
「洋ちゃんがいてくれてよかった。私にはあなたがいる。だから生きて行けるのよ」
「ほんと? ママ、死なない?」
「ママが洋ちゃんを残していなくなるはずないじゃない。ずっとずっと傍にいるわ」
「そうして……ずっとずっとだよ」
そのまま母にしがみついて、泣きじゃくってしまった。
「洋ちゃん、泣かないで、一滴でも残っていたら諦めないで」
俺の目に浮かぶ雫を母が吸い取って、また抱き締めてくれた。
あの日の母の柔らかい温もり、母の匂い、母の声。
まさか今、思い出せるなんて……
幸先が良いということなのか。
この人には、あの頃のように素直に真っ直ぐな言葉を届けたい。
「良かったです。俺……ご覧の通り、不器用なんです。すぐにはお役に立てないかもしれませんが、誠意を尽くして丈の診療所を手伝いたいと思っています。だからどうか宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、女性も続いて頭を下げた。
「こちらこそですよ。この数年間丈先生とお仕事をさせていただき、先生の寡黙で淡々としていながらも、患者様へ向けられる情の深さに感銘を受けてきました。丈先生は、私が尊敬するお医者様です。だからどうしても離れがたく、図々しく申し出てしまいました。むしろ……私で大丈夫ですか」
「もちろんです。俺があなたがいい」
「まぁ、直球だわ」
「あ、すみません。つい」
俺も女性も頬を染めて、笑みを浮かべた。
俺たちの様子を、翠さんと流さん、そして丈があたたかい眼差しで見守っていた。
流さんが事を進めてくれる。
「よし、決まりだな、お互いに自己紹介をしたらどうだ?」
「あ……そうだった。俺は張矢 洋です。その……丈のパートナーという立場になります。このような関係でも大丈夫ですか」
一緒に働く人に隠し事はしたくなかったので、思い切って最初から告げた。
一滴を味わってくれた人だから、賭に出た。
「もちろんですよ。私は村山温子です。私にも三人の息子がいて三者三様です。それに、いろんな人がいるのが世の中というものです。今日は丈先生を柔らかくして下さった方にお会いできて嬉しいです。一緒に頑張って診療所を支えましょう!」
手を真っ直ぐに差し出されたので、迷い無く握りしめた。
丈の手が、その上に重なった。
「よし、じゃあ決定だな。村山さん、洋のことをくれぐれも宜しくお願いします」
こうやって一つ一つ、丁寧に決めて行こう。
俺はどこまでも、ついていくよ。
「洋くん、宜しくお願いします。何でも頼ってくださいね」
「ありがとうございます」
開業に向けて、また大きく一歩前進した夜だった。
月は今宵も、月影寺を静かに照らしている。
何事も順風満帆に進むように、見守ってくれている。
迷ったが、お出しした。
そして一部始終を、息を呑んで見守った。
丈が連れてきた女性は、その一滴を大切に飲み干してくれた。
喉がゴクッと動いた後、放たれたのは笑顔だった。
温もりのある微笑みに、胸をほっと撫で下ろした。
「とても美味しかったです。心をこめて淹れて下さったのが伝わりました」
良かった。
ちゃんと伝わった。
小さい頃、母に教えてもらったことを思い出した。
……
「ゴホゴホッ……」
父が亡くなってから、母は病床に伏すことが多くなった。
こんな時、頼もしい父がいてくれたら甲斐甲斐しく看病してくれるのに、まだ小学校1年生の俺に出来ることは少なかった。
ただ傍にいることしか出来ず、不安で心配でたまらなかった。
母までいなくなってしまったらどうしようと、怯える日々だった。
「ママ、だいじょうぶ? おくすりのんで……ぐすっ」
「洋ちゃん、ごめんね。そうね……あ、お水をくんでこないと」
「おみずなら、ぼくがくんでくるよ」
「大丈夫? 洋ちゃんの割れないマグカップをつかってね」
「うん!」
ところが台所で水を注ぎすぎて、廊下にポタポタ、こぼしてしまった。
ベッドに辿り着く頃には、マグカップに水は残っていなかった。
「ママ、ごめんなさい……ぐすっ」
「まぁ、洋ちゃん、どうして泣くの?」
「……おみず、ぜんぶこぼしちゃった」
母は空っぽになってしまったマグカップを傾けて、目を細めた。
「ちゃんとあるわよ」
「えっ、どこに?」
「ここに一滴」
「そんなちょっとじゃ……おくすり、のめないよ」
首をブンブン横にふると、母はまた笑顔を浮かべてくれた。
熱があって苦しいはずなのに、父がいた頃のような優しい穏やかな微笑みだった。
「この一滴には、洋ちゃんの心がこもっているの。どんなお薬よりも効くのよ」
一滴の雫を飲んで、母は優しく俺を抱き締めてくれた。
「洋ちゃんがいてくれてよかった。私にはあなたがいる。だから生きて行けるのよ」
「ほんと? ママ、死なない?」
「ママが洋ちゃんを残していなくなるはずないじゃない。ずっとずっと傍にいるわ」
「そうして……ずっとずっとだよ」
そのまま母にしがみついて、泣きじゃくってしまった。
「洋ちゃん、泣かないで、一滴でも残っていたら諦めないで」
俺の目に浮かぶ雫を母が吸い取って、また抱き締めてくれた。
あの日の母の柔らかい温もり、母の匂い、母の声。
まさか今、思い出せるなんて……
幸先が良いということなのか。
この人には、あの頃のように素直に真っ直ぐな言葉を届けたい。
「良かったです。俺……ご覧の通り、不器用なんです。すぐにはお役に立てないかもしれませんが、誠意を尽くして丈の診療所を手伝いたいと思っています。だからどうか宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げると、女性も続いて頭を下げた。
「こちらこそですよ。この数年間丈先生とお仕事をさせていただき、先生の寡黙で淡々としていながらも、患者様へ向けられる情の深さに感銘を受けてきました。丈先生は、私が尊敬するお医者様です。だからどうしても離れがたく、図々しく申し出てしまいました。むしろ……私で大丈夫ですか」
「もちろんです。俺があなたがいい」
「まぁ、直球だわ」
「あ、すみません。つい」
俺も女性も頬を染めて、笑みを浮かべた。
俺たちの様子を、翠さんと流さん、そして丈があたたかい眼差しで見守っていた。
流さんが事を進めてくれる。
「よし、決まりだな、お互いに自己紹介をしたらどうだ?」
「あ……そうだった。俺は張矢 洋です。その……丈のパートナーという立場になります。このような関係でも大丈夫ですか」
一緒に働く人に隠し事はしたくなかったので、思い切って最初から告げた。
一滴を味わってくれた人だから、賭に出た。
「もちろんですよ。私は村山温子です。私にも三人の息子がいて三者三様です。それに、いろんな人がいるのが世の中というものです。今日は丈先生を柔らかくして下さった方にお会いできて嬉しいです。一緒に頑張って診療所を支えましょう!」
手を真っ直ぐに差し出されたので、迷い無く握りしめた。
丈の手が、その上に重なった。
「よし、じゃあ決定だな。村山さん、洋のことをくれぐれも宜しくお願いします」
こうやって一つ一つ、丁寧に決めて行こう。
俺はどこまでも、ついていくよ。
「洋くん、宜しくお願いします。何でも頼ってくださいね」
「ありがとうございます」
開業に向けて、また大きく一歩前進した夜だった。
月は今宵も、月影寺を静かに照らしている。
何事も順風満帆に進むように、見守ってくれている。
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