重なる月

志生帆 海

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17章

月光の岬、光の矢 35

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 辞職願いは、既に提出済みだ。

 後任の医師に仕事を引き継ぎ、予約の入っていた手術を後三件こなせば、この病院を辞めることになる。

 数年前、韓国への逃避行から帰国した私は、実家である月影寺に身を寄せた。

 あの頃の洋は、まだまだ情緒不安定で、人見知りも激しく、自分の殻から出て来なくなることも多かった。

 引き裂かれた身体と心の傷を、完全には癒やし切れてなかった。

 そんな洋が心配で心配で、なるべく近くにいてやりたくて、この大船の総合病院を選んだのだ。
 
 北鎌倉から近いので通勤に時間を取られることはなく、洋と過ごす時間を確保できた。

 今の洋は、あの頃よりずっと力強くなった。

 心も安定し、本来の性格も見え隠れし、頼もしく男らしくなった。

 そんな洋を見ていると、私は次のステップに進みたくなった。

 守る立場から、共に歩む立場へ。

 私たちが遙か昔に夢見た世界を実現させたくなった。

 これからは、常に一緒だ。

 私と洋は同じ船に乗り、私たちだけの未来に漕ぎ出す。

 開業に向けての手筈は、ほぼ整った。

 あとは時の流れに任せよう。

 医師になった時、いつか時が満ちたら開業医になると決意した。

 夢よりも、もっと現実的な意志だった。

 過去から突き上げてくる衝動だったのか。

 そのためには土地と建物が必要だから、そろそろハウスメーカーに行こうと思った矢先、思いがけず海里先生の診療所を引き継げることになった。

 由比ヶ浜の海里診療所。

 それは、洋が運んで来てくれた縁だった。

 木造建築のクラシカルな洋館に初めて足を踏み入れた時、心が震えた。

 ここには私の理想が詰まっている。

 以前、学会の合間に、ハウスメーカー主催の『医院開業・建築のノウハウ』という講座を受講した。そのメーカーは患者さんには安全で安心な医療を、働くスタッフには良質な労働環境を提供することがコンセプトで、木造医院の普及を勧めていた。木造の建物は堅牢で木の温かみはヒーリング効果もあり、医院建築に木造建築は最適だと謳っていた。
 
 その提案が私の心のストンと落ちたのだ。

 木と言えば、月影寺。

 当たり前かもしれないが、ヨウとジョウの屋敷、洋月の君と丈の中将の宇治の山荘も木造だった。

 木はどんな時代でも、いつも私たちと共に息をしてきた。

 だから都会の雑居ビルを借りて開業するのではなく、静かで落ち着いた場所に木造住宅を入手して開業しようと決めていた。




 診察時間より少し早く診療室に入ると、看護師から話しかけられた。

 彼女は40代半ばの結婚してお子さんもいるベテランの看護師だ。

「あの……丈先生、もうすぐご退職と聞きましたが」
「あぁ、ようやく開業先の耐震工事が終わったので時期が来たようだ。君には大変お世話になったね」
「寂しくなります。あの、開業先には、どなたか医局の看護師を連れて行かれるのですか」
「いや、決めていないが」
「あの、私では駄目ですか。丈先生の迷いのない診断、治療、手術、いつもお見事でした。尊敬しています。どこまでも付いていきたいです」
「ありがとう、君は常に良いサポートをしてくれた」

 確かに看護師を雇わないとならない。

 洋は受付事務をする予定だが、治療の補助には看護師の資格が必要だから。

 見ず知らずの人間を求人広告を通して雇うよりも、長年サポートしてくれた彼女なら良いのかもしれない。

 彼女の穏やかで明るい人柄に、好感を持っている。

 だが私と洋の関係を理解してくれるだろうか。

 それが最優先項目だ。

「ですから、是非ご検討下さい」
「分かった。少し考えさせてくれ」

 何事も、すべては洋と相談してからだ。

 私はの夢は、洋と成し遂げるものだから――
 
 もう開院に向かって動き出していることを実感し、胸がまた一段と高鳴った。





 
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