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17章
月光の岬、光の矢 18
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俺に向けて真っ直ぐ差し出された清らかな手が眩しかった。
土足で身体を踏みにじられた経験のある俺が、この手を掴んでいいものか。
くそっ、結局いつまで経っても、あの事件が俺の心にセーブをかけてしまうのだ。
俺は汚されたが、心は汚れてなんかない。
そう強く思うようにしているのに……どうしてなんだ。
悔しさに、まごついてしまう。
だが、こんな時は、いつだって丈が俺の強ばった心を優しく解いてくれる。
「洋、そろそろ持って来たものを出していいか」
「あ、あぁ」
「さぁ、洋から頼んでくれ。私のためにも」
持って来た俺の制服を、おばあ様に見せた。
「あの……おばあ様、この制服のここに刺繍をしていただけませんか」
「まぁ! これが洋ちゃんの制服なのね。刺繍! なんてタイムリーなのかしら」
「え?」
「これを見て」
おばあ様が大事そうに抱えていたバスケットの中身は裁縫箱だった。
中には美しいブルーのグラデーションを描く艶やかな刺繍糸が並んでいた。
「美しいですね」
「これは瑠衣の英国土産よ」
「瑠衣さんって、海里先生の弟さんですか」
「そうよ。ちょうど今、帰国していて、これが今回のお土産だったのよ。私ね、この刺繍糸を使いたくてたまらなかったの。私が洋ちゃんの制服の胸元に刺繍をしてもよいの?」
不思議な縁をまた感じた。
おばあさまがしたいことと俺がしてもらいたい事が、見事に重なっていく。
「是非お願いします。おばあ様にして欲しいです」
「ふふっ、私も洋ちゃんにしてあげたかったのよ」
「ありがとうございます」
「腕が鳴るわ~ メンズナース服に刺繍するなんて」
俺とおばあ様の様子を見守っていた丈も、会話に加わった。
「私の白衣の刺繍も本当に素敵でした」
「丈さん、開院はまだなのかしら? そろそろ待ちきれないわ」
「申し訳ありません。思ったより耐震工事が長引いてしまいましたが、この夏には開院できることに」
「まぁ! 良かった。私が生きているうちにして欲しかったから嬉しいわ」
生きているうち? その言葉にゾクッとした。
「おばあ様、そんなことを言わないで下さい。寂しくなります」
思わずおばあ様の手を握りしめてしまった。
父にも母にも置いていかれた俺にとって、おばあ様の存在は大きい。
「洋ちゃん……人はいつかは召されるものよ。だからこそ、あなたには私が生きている限り『愛』を注ぎたいの」
「おばあ様……」
「あなたにアメリカの作家ルイザ・メイ・オルコットの言葉を教えてあげるわ」
『愛は、私たちがこの世を去るとき唯一持って行けるもの』
「愛……」
「私は今私の傍にいてくれる人への愛情を惜しまないわ。だから洋ちゃんは私からの愛情を沢山浴びてね」
「はい……」
「洋ちゃんは私の大切な孫よ。私の願いは……洋ちゃんが洋ちゃん自身を大切にしてくれること。あなたは何も悪くない。あなたはとても美しいのよ」
俺と義父との間にあった事件は知るはずもないのに、まるで全てを見通されたようで一瞬怯んだが、それを飛び越えて、俺はおばあ様の愛に包まれたいと願った。
「洋ちゃん、あのね、自分を大切にできる人は、他人も大切に出来る人なのよ。だから洋ちゃん、大切なパートナーの丈さんを沢山愛してあげてね」
「おばあ様……」
「海里先生と柊一さん、瑠衣とアーサーさんから、私は沢山の深い愛を見せてもらったの。それをあなたに届けたいのよ」
俺は無言のまま、祖母を抱きしめた。
祖母も俺を抱きしめてくれた。
「洋ちゃんと私は、夕を失ったもの同士、寂しさを分かち合い、お互い支え合っていきましょう」
「はい。ぜひそうしたいです」
その晩、俺たちはおばあ様の家に泊まることにした。
「ふふ、美男子さんが二人並ぶと圧巻ね」
おばあ様は、俺と丈を見比べて満面の笑みを浮かべている。
慈悲深かったり、少女のようだったり、おばあ様は天真爛漫な人のようだ。
「丈さん、診療所が完成したら、ぜひ私にもお披露目してくださいね」
「はい。その暁にはお披露目会をしようと思っています。ぜひ白江さんや雪也さんも、いらして下さい」
「まぁ、嬉しいわ」
「はい、お世話になった人に真っ先に見てもらいたいので」
「是非伺うわ。やっぱり雪也さんの言う通りだったわ~」
頬を染めて喜ぶ祖母の様子に嬉しくなった。
丈は、いつだって堂々とカッコいい。
丈は俺を喜ばす天才だ。
こんな日々を丈と重ねることで、俺は失っていた心を取り戻してきたのだ。
心の喜びも、肉体の悦び、全部ここに刻まれている。
「さぁ、今宵はゆっくりお休みなさい。お部屋は二階の一番奥を用意したので遠慮は不要よ」
「え?」
祖母が意味ありげにウインクするので、照れ臭くなった。
「ふふ、愛で溢れる夜を過ごしてね」
「お、おばあ様……」
土足で身体を踏みにじられた経験のある俺が、この手を掴んでいいものか。
くそっ、結局いつまで経っても、あの事件が俺の心にセーブをかけてしまうのだ。
俺は汚されたが、心は汚れてなんかない。
そう強く思うようにしているのに……どうしてなんだ。
悔しさに、まごついてしまう。
だが、こんな時は、いつだって丈が俺の強ばった心を優しく解いてくれる。
「洋、そろそろ持って来たものを出していいか」
「あ、あぁ」
「さぁ、洋から頼んでくれ。私のためにも」
持って来た俺の制服を、おばあ様に見せた。
「あの……おばあ様、この制服のここに刺繍をしていただけませんか」
「まぁ! これが洋ちゃんの制服なのね。刺繍! なんてタイムリーなのかしら」
「え?」
「これを見て」
おばあ様が大事そうに抱えていたバスケットの中身は裁縫箱だった。
中には美しいブルーのグラデーションを描く艶やかな刺繍糸が並んでいた。
「美しいですね」
「これは瑠衣の英国土産よ」
「瑠衣さんって、海里先生の弟さんですか」
「そうよ。ちょうど今、帰国していて、これが今回のお土産だったのよ。私ね、この刺繍糸を使いたくてたまらなかったの。私が洋ちゃんの制服の胸元に刺繍をしてもよいの?」
不思議な縁をまた感じた。
おばあさまがしたいことと俺がしてもらいたい事が、見事に重なっていく。
「是非お願いします。おばあ様にして欲しいです」
「ふふっ、私も洋ちゃんにしてあげたかったのよ」
「ありがとうございます」
「腕が鳴るわ~ メンズナース服に刺繍するなんて」
俺とおばあ様の様子を見守っていた丈も、会話に加わった。
「私の白衣の刺繍も本当に素敵でした」
「丈さん、開院はまだなのかしら? そろそろ待ちきれないわ」
「申し訳ありません。思ったより耐震工事が長引いてしまいましたが、この夏には開院できることに」
「まぁ! 良かった。私が生きているうちにして欲しかったから嬉しいわ」
生きているうち? その言葉にゾクッとした。
「おばあ様、そんなことを言わないで下さい。寂しくなります」
思わずおばあ様の手を握りしめてしまった。
父にも母にも置いていかれた俺にとって、おばあ様の存在は大きい。
「洋ちゃん……人はいつかは召されるものよ。だからこそ、あなたには私が生きている限り『愛』を注ぎたいの」
「おばあ様……」
「あなたにアメリカの作家ルイザ・メイ・オルコットの言葉を教えてあげるわ」
『愛は、私たちがこの世を去るとき唯一持って行けるもの』
「愛……」
「私は今私の傍にいてくれる人への愛情を惜しまないわ。だから洋ちゃんは私からの愛情を沢山浴びてね」
「はい……」
「洋ちゃんは私の大切な孫よ。私の願いは……洋ちゃんが洋ちゃん自身を大切にしてくれること。あなたは何も悪くない。あなたはとても美しいのよ」
俺と義父との間にあった事件は知るはずもないのに、まるで全てを見通されたようで一瞬怯んだが、それを飛び越えて、俺はおばあ様の愛に包まれたいと願った。
「洋ちゃん、あのね、自分を大切にできる人は、他人も大切に出来る人なのよ。だから洋ちゃん、大切なパートナーの丈さんを沢山愛してあげてね」
「おばあ様……」
「海里先生と柊一さん、瑠衣とアーサーさんから、私は沢山の深い愛を見せてもらったの。それをあなたに届けたいのよ」
俺は無言のまま、祖母を抱きしめた。
祖母も俺を抱きしめてくれた。
「洋ちゃんと私は、夕を失ったもの同士、寂しさを分かち合い、お互い支え合っていきましょう」
「はい。ぜひそうしたいです」
その晩、俺たちはおばあ様の家に泊まることにした。
「ふふ、美男子さんが二人並ぶと圧巻ね」
おばあ様は、俺と丈を見比べて満面の笑みを浮かべている。
慈悲深かったり、少女のようだったり、おばあ様は天真爛漫な人のようだ。
「丈さん、診療所が完成したら、ぜひ私にもお披露目してくださいね」
「はい。その暁にはお披露目会をしようと思っています。ぜひ白江さんや雪也さんも、いらして下さい」
「まぁ、嬉しいわ」
「はい、お世話になった人に真っ先に見てもらいたいので」
「是非伺うわ。やっぱり雪也さんの言う通りだったわ~」
頬を染めて喜ぶ祖母の様子に嬉しくなった。
丈は、いつだって堂々とカッコいい。
丈は俺を喜ばす天才だ。
こんな日々を丈と重ねることで、俺は失っていた心を取り戻してきたのだ。
心の喜びも、肉体の悦び、全部ここに刻まれている。
「さぁ、今宵はゆっくりお休みなさい。お部屋は二階の一番奥を用意したので遠慮は不要よ」
「え?」
祖母が意味ありげにウインクするので、照れ臭くなった。
「ふふ、愛で溢れる夜を過ごしてね」
「お、おばあ様……」
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