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17章
月光の岬、光の矢 7
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今、何時だ?
しまった!
ナース服のカタログに夢中になりすぎて、仕事を疎かにしてしまった。
ベッドの足下には、いつの間にか白猫のルナが丸まっていた。
「ふっ、ルナは退屈で寝ちゃったのか、ごめんな」
そこからはデスクで翻訳の仕事に集中して向き合った。
辞書を引きながら丁寧に翻訳していく。
最近は丈の世界を覗きたくて医療関係の翻訳業務を多く引き受けたお陰で、医学用語に、だいぶ強くなった。病名や薬の名前、治療方法など英語を通して学べて有意義な時間だった。
間もなく診療所の受付業務をするにあたり、専門用語は知っておきたい。
先の未来への投資の時間だったのかもしれない。
また父のように小説や絵本の翻訳の仕事も、積極的に引き受けていた。
亡くなった父が歩んだ道を辿ることが出来て、有意義な時間だった。
英国の禁断の愛を描いた翻訳は、その分野で好評だったようで、照れ臭かった。
ここ数年、俺はよく働いた。
月影寺にいると、意欲が湧いてくる。
昔のように会社に勤めたいとは思わないが、忙しい程、仕事に没頭できて幸せな時間だった。
「ふぅ……」
パタンと分厚い辞書を閉じ、目も閉じた。
最近の俺はこうやって幼い頃の記憶を遡る旅に頻繁に出ている。
……
小さな俺は、そっと書斎の扉を開けて、父の背中を覗き見していた。
黙々と分厚い辞書を片手に仕事に励む父の姿がかっこ良くて、憧れの眼差しを向けていた。
「洋、どうした?」
「お仕事のじゃましちゃった?」
「いいや、洋を抱っこしたくなったよ。おいで」
「うん!」
俺を軽々と抱き上げる逞しい父。
優しくて強くて最高にかっこいい人だった。
……
「父さん、俺の外見は相変わらず母そっくりですが、中見は……少しは父さんに似ていますか」
そう問いかけても返事はないが、もう寂しくはなかった。
こんな風に過去を思い出すのは、寂しさが募るだけで大っ嫌いだったのに、今の俺は大丈夫で、もっともっと思い出したい程だ。
さてと、この仕事もそろそろ終わりだ。
家にユニフォームのカタログが届いたということは、その日が近いようだ。
****
診療室へ戻ろうとすると、声を掛けられた。
「丈くん!」
「あっ、達哉さんじゃないですか。今日はどうされたのですか」
「……うん、ちょっと健康診断で引っかかって、精密検査に来たのさ」
「……今日は何を?」
「胃カメラだよ」
「……そうですか」
翠兄さんの親友の達哉さんは、心根の優しい、おおらかな人だ。
彼の弟が私の翠兄さんにしたことはけっして許されないことだが、兄である達哉さんは仏のような慈悲深い心の持ち主で、誰も彼を恨むことは出来ないかった。
胃カメラ? 大事ではないといいが……
「何かあったらいつでも私を呼んで下さい」
「ありがとう、頼りにしているよ」
「お役に立てるよう尽力します」
薙の親友でもある拓人くんを養子として迎えた達哉さんには、いつまでも健康でいて欲しい。
そう願わずにはいられない。
その晩、自宅に戻ると、洋が机で転た寝をしていた。
かなり集中して翻訳作業をしたようで、原稿用紙が山積みになっていた。
「洋、頑張ったな」
「ん……あぁ、丈か。悪い、寝てた」
「いや、仕事は終わったのか」
「あぁ、ほとんど終わらせたよ。急いだ方がいい気がして」
勘が良い男だから、もう気付いたのか。
由比ヶ浜の診療所の開院に向けて、いよいよ動き出すことを。
「そうだな、そろそろ終わりを決めてもらってもいいか。次のステップに進むために」
「あぁ、そう来ると思って、仕事を〆始めているのさ」
「どうして気付いた?」
「ふっ、身に覚えがあるだろ?」
洋がふっと笑みを浮かべる。
「なんのことだ?」
「机の上に置いてあるから見て来いよ」
洋はおもむろに席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。綺麗な唇でごくりと水を飲む度に喉仏が上下して、男の艶やかな色気を生み出していた。
相変わらず、美しい男だ。
机の上には分厚い封筒が山積みになっていた。
「お! 届いたのか」
「悪い、1冊破けて、中を見てしまった」
「いや、どうせ一緒に見るつもりだった。1冊といわずに全部開封してもよかったのに」
洋が怪訝そうな顔をした。
「……他は仕事のだろう?」
「まぁ、仕事のだが、洋にも関係するものだ」
「なんだ?」
「全部、洋が身に着ける制服のカタログだ。選択肢は多い方が良いだろう? 全社から取り寄せたのだ」
「はぁ? あれ全部?」
洋は呆れ気味のようだ。
だがこれは私の楽しみでもあるのだから、譲れない。
「一緒に制服を選ぼう」
「おい、制服の前に、報告があるんじゃ?」
「そうだった。コホン……洋、耐震工事が無事に終わったそうだ。だから、いよいよ開院に向けて、準備に取りかかれるぞ」
洋の笑顔が明るく弾ける。
「やったな! 丈……俺たち、もうすぐ四六時中一緒にいられるな」
世の夫婦だったら、喜ぶことではないかもしれないが、過去を背負った私たちにとっては悲願だ。
「あぁ、その通りだ。動き出すぞ」
「始動するんだな、再び」
「あぁ、今度は同じ場所を目指して――」
洋の方から私を抱きしめて、背伸びして口づけしてくれた。
洋の男らしい部分も含めて好きなので、私も自然と笑みが漏れる。
「積極的だな」
「こんな俺はいやか。俺、どんどん生まれ変わっていくようだ」
「ずっと傍にいる。ずっと見守っていく」
「あぁ、見ていてくれ、俺の成長を」
しまった!
ナース服のカタログに夢中になりすぎて、仕事を疎かにしてしまった。
ベッドの足下には、いつの間にか白猫のルナが丸まっていた。
「ふっ、ルナは退屈で寝ちゃったのか、ごめんな」
そこからはデスクで翻訳の仕事に集中して向き合った。
辞書を引きながら丁寧に翻訳していく。
最近は丈の世界を覗きたくて医療関係の翻訳業務を多く引き受けたお陰で、医学用語に、だいぶ強くなった。病名や薬の名前、治療方法など英語を通して学べて有意義な時間だった。
間もなく診療所の受付業務をするにあたり、専門用語は知っておきたい。
先の未来への投資の時間だったのかもしれない。
また父のように小説や絵本の翻訳の仕事も、積極的に引き受けていた。
亡くなった父が歩んだ道を辿ることが出来て、有意義な時間だった。
英国の禁断の愛を描いた翻訳は、その分野で好評だったようで、照れ臭かった。
ここ数年、俺はよく働いた。
月影寺にいると、意欲が湧いてくる。
昔のように会社に勤めたいとは思わないが、忙しい程、仕事に没頭できて幸せな時間だった。
「ふぅ……」
パタンと分厚い辞書を閉じ、目も閉じた。
最近の俺はこうやって幼い頃の記憶を遡る旅に頻繁に出ている。
……
小さな俺は、そっと書斎の扉を開けて、父の背中を覗き見していた。
黙々と分厚い辞書を片手に仕事に励む父の姿がかっこ良くて、憧れの眼差しを向けていた。
「洋、どうした?」
「お仕事のじゃましちゃった?」
「いいや、洋を抱っこしたくなったよ。おいで」
「うん!」
俺を軽々と抱き上げる逞しい父。
優しくて強くて最高にかっこいい人だった。
……
「父さん、俺の外見は相変わらず母そっくりですが、中見は……少しは父さんに似ていますか」
そう問いかけても返事はないが、もう寂しくはなかった。
こんな風に過去を思い出すのは、寂しさが募るだけで大っ嫌いだったのに、今の俺は大丈夫で、もっともっと思い出したい程だ。
さてと、この仕事もそろそろ終わりだ。
家にユニフォームのカタログが届いたということは、その日が近いようだ。
****
診療室へ戻ろうとすると、声を掛けられた。
「丈くん!」
「あっ、達哉さんじゃないですか。今日はどうされたのですか」
「……うん、ちょっと健康診断で引っかかって、精密検査に来たのさ」
「……今日は何を?」
「胃カメラだよ」
「……そうですか」
翠兄さんの親友の達哉さんは、心根の優しい、おおらかな人だ。
彼の弟が私の翠兄さんにしたことはけっして許されないことだが、兄である達哉さんは仏のような慈悲深い心の持ち主で、誰も彼を恨むことは出来ないかった。
胃カメラ? 大事ではないといいが……
「何かあったらいつでも私を呼んで下さい」
「ありがとう、頼りにしているよ」
「お役に立てるよう尽力します」
薙の親友でもある拓人くんを養子として迎えた達哉さんには、いつまでも健康でいて欲しい。
そう願わずにはいられない。
その晩、自宅に戻ると、洋が机で転た寝をしていた。
かなり集中して翻訳作業をしたようで、原稿用紙が山積みになっていた。
「洋、頑張ったな」
「ん……あぁ、丈か。悪い、寝てた」
「いや、仕事は終わったのか」
「あぁ、ほとんど終わらせたよ。急いだ方がいい気がして」
勘が良い男だから、もう気付いたのか。
由比ヶ浜の診療所の開院に向けて、いよいよ動き出すことを。
「そうだな、そろそろ終わりを決めてもらってもいいか。次のステップに進むために」
「あぁ、そう来ると思って、仕事を〆始めているのさ」
「どうして気付いた?」
「ふっ、身に覚えがあるだろ?」
洋がふっと笑みを浮かべる。
「なんのことだ?」
「机の上に置いてあるから見て来いよ」
洋はおもむろに席を立ち、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。綺麗な唇でごくりと水を飲む度に喉仏が上下して、男の艶やかな色気を生み出していた。
相変わらず、美しい男だ。
机の上には分厚い封筒が山積みになっていた。
「お! 届いたのか」
「悪い、1冊破けて、中を見てしまった」
「いや、どうせ一緒に見るつもりだった。1冊といわずに全部開封してもよかったのに」
洋が怪訝そうな顔をした。
「……他は仕事のだろう?」
「まぁ、仕事のだが、洋にも関係するものだ」
「なんだ?」
「全部、洋が身に着ける制服のカタログだ。選択肢は多い方が良いだろう? 全社から取り寄せたのだ」
「はぁ? あれ全部?」
洋は呆れ気味のようだ。
だがこれは私の楽しみでもあるのだから、譲れない。
「一緒に制服を選ぼう」
「おい、制服の前に、報告があるんじゃ?」
「そうだった。コホン……洋、耐震工事が無事に終わったそうだ。だから、いよいよ開院に向けて、準備に取りかかれるぞ」
洋の笑顔が明るく弾ける。
「やったな! 丈……俺たち、もうすぐ四六時中一緒にいられるな」
世の夫婦だったら、喜ぶことではないかもしれないが、過去を背負った私たちにとっては悲願だ。
「あぁ、その通りだ。動き出すぞ」
「始動するんだな、再び」
「あぁ、今度は同じ場所を目指して――」
洋の方から私を抱きしめて、背伸びして口づけしてくれた。
洋の男らしい部分も含めて好きなので、私も自然と笑みが漏れる。
「積極的だな」
「こんな俺はいやか。俺、どんどん生まれ変わっていくようだ」
「ずっと傍にいる。ずっと見守っていく」
「あぁ、見ていてくれ、俺の成長を」
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