重なる月

志生帆 海

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16章

天つ風 43

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 風呂を沸かして再び部屋に戻ると、薙はスヤスヤと寝息を立てていた。

 慈愛に満ちた翠の眼差しには、深い情が籠っていた。父親としての愛情をたっぷりと注いでいる最中だった。

 ここは翠が更に結界を内側にも張り巡らせた、何人たりとも踏み入ることが出来ぬ厳かな空間だ。

 だが相変わらず天邪鬼な気がある俺は少し寂しくなり、俺も見てくれと言わんばかりに部屋にずかずか入って話しかけてしまった。

「薙は眠ったのか」

 翠は薙のために張った結界を乱されても、少しも怒らない。

 むしろ俺を包み込んでくれる。

 昔から兄さんの懐は温《ぬく》い。

「うん、さっきようやくね。痛み止めが効いたらしくて」
「よかった。翠も今のうちに風呂はどうだ?」
「……でも、今日は傍についていてあげたくて……薙、骨折は初めてだし、足が動かせないから夜中にトイレに行きたくなったら大変だよ」
「とにかく俺が見ているから入ってこい。翠まで体調を崩すわけにはいなぬだろう」
「そうだね。流がいるなら安心だ。そういえば流は昔から薙の扱いが上手だったよね。最初に抱っこしてくれた日は僕より上手だったし……あっ……」

 そこまで話して、翠は気まずそうに目を伏せた。
 
 あの日のことか。

 薙と初めて留守番をする翠の元に駆けつけた日のことだな。

「俺にとってあの日は、今は『薙を初めて抱っこした記念日』だ。だから気にするな」
「……ごめん。あの日も、あの日も……流は歩み寄ってくれたのに、僕は本当に弱くて傷つけてばかりで」

 あの日久しぶりに翠と笑い合えたのに、帰宅した彩乃さんの容赦無い言葉に傷ついて、翠を突き放したのは俺だ。

 いつだって俺の心が狭かったせいだ。

 だから謝ったりすんなよ。

「翠、よく聞けよ。過去があるから今がある。今があるから未来が出来る。だから俺たちは今を精一杯大切にして行けばいい」
「そうだね。今日の僕は少し情緒不安定なのかな?」

 翠が自嘲気味に言うので、抱き締めてやる。

「最愛の息子が骨折したんだ。予期しなかったことが起きたのだから無理もない。だから動揺しているのさ。さぁ風呂に入って心を解してこい。一緒に入りたい所だが、今日は我慢するよ」
「ありがとう。そうするよ」
「任せておけ」

 風呂に向かう翠を見送ってから、薙の枕元に椅子を置いて腰掛けた。

「ぐっすりだな。痛み止めがよく効いているようで良かったな」

 薙の寝顔をまじまじと見るのは久しぶりだ。

 ふと、赤ん坊の面影を見つけて、嬉しくなった。

「この角度だと……最初に見た時と、たいして変わっていないな」

 薙が生まれた日のことはよく覚えている。 
 
 大学の課題に向き合っていると、階下から勢いよく母に呼ばれた。


……

「流、大変よー」
「なんだよ?」
「翠の所、赤ちゃんが生まれそうなの。だから駆けつけなくちゃ」
「ハァ? 俺は関係ねーだろ」
「いいから早く早く、車を運転して」
「だから、なんで俺が?」
「私たち初孫誕生に動揺して、車の運転が危なっかしいのよ」
「流や、頼むよ」

 住職である父にも頼まれたら断れない。

「……やれやれ」

 渋々運転し、病院に駆けつけた。

 どんな顔をして兄さんに会えばいいのか分からない。だから兄さんは俺を探してくれたのに、俺は窓の外を睨むことしか出来なかった。

 兄さんの視線が痛い。

 今話しかけたら恨み辛みをぶつけてしまうだろう。

 そんな風に思っていると、案の定話しかけられて、酷い暴言を吐いて兄を傷つけてしまった。

 どうして、何故なんだ?

 俺の一番大事な人を、どうしてこんな目に遭わせてしまうのか。

 あの頃の俺が一番憎かった相手は、己だった。

 
 ……

「流、いいお湯だったよ。ありがとう。どうした? 暗い顔をして」
「翠……あのさ、薙が生まれた日、病院で暴言を吐いてごめんな」
「急にどうした? そんな昔の話を言うなんて」

 湯上がりの翠を抱き寄せて、耳元で告白する。

 清潔な石鹸の香りが導いてくれる。

 まっすぐな想いをまっすぐに。

「本当はさ……ちゃんと見たんだ」
「えっ、何を?」
「生まれたての薙の顔さ」
「そうだったの?」
「あまりに兄さんそっくりの可愛い赤ん坊で驚いた。それが嬉しくて肉親の情が湧いた。だから『兄さんおめでとう』と真っ先に伝えたかったのに……この赤ん坊を俺が一緒に育てたいという歪んだ欲望が芽生えて、怖くなって、あんな風に突き放した」
「そうだったのか」

 翠が俺の手を握りしめてくれる。

「流は……薙のもう一人の父親だよ」
「ありがとうな。沢山傷つけてしまったのに」
「僕たち、その分、絆が深くなった。穴だらけで倒れそうだったのに、お互いの想い合って必死に支えてきた愛だ。だから今に目を向けよう。流……この部屋には、僕と流と薙だけだ」

 あの日伝えられなかった想いは、今、ようやく届けられた。

「流、だから僕と一緒に育てよう」
「ありがとう……兄さん……翠……」


 



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