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16章
天つ風 38
しおりを挟むあの日、二人は懐妊の報告に来たのだ。
あれはかなり堪えたな。青天の霹靂だった。結婚した事実も受け止めきれていないのに、まさかハネムーンベイビーだなんて予期してなかった。
早過ぎだ。
心の準備が出来ていなかった。
だから絶望に震えた。
あの日の俺に言ってやりたいよ。
彩乃さんのお腹に芽生えた命は、いずれお前と翠の子供になる尊い命だ。
その子は薙だ。
だからそう嘆くな、そう悲観するなと。
過去を思えば、哀しみに埋もれそうだが、今を見つめれば幸せで蕩けそうになる。
物思いに耽っていると、俺の肩に頭を預け眠っていた翠が小さなくしゃみをした。
「くしゅん……」
「翠、起きたのか」
「……」
「まだ眠るのか」
五月といっても月影寺は山奥なので、朝晩は冷え込む。
翠は風邪を引きやすい体質だから、俺が気をつけてやらないと。
「よしっ」
俺は翠を横抱きにして、起こさないように静かに立ち上がった。
薙の指摘通り、俺は今でも余裕で……軽々と翠を抱ける。
抱き潰してしまった日は風呂場へ運び、甘く戯れたい日は二人の寝所へ。
「今日はどこへ運ぶか」
二階の翠の自室まで連れて行くことも考えたが、今日はここだ。
ここがいい。
和室に置いたベッドで仮眠する薙の横に、そっと寝かしてやった。
すぐに薙が寝返りを打ち、無意識に翠に抱きついた。
翠も無意識に我が子を抱きしめる。
父と息子。
二人は本当に似ている。
「薙は赤ん坊の頃とたいして変わってないな」
生まれたばかりの薙を、初めて見た日を思い出す。
薙を見るまでは興味なんて抱けなかった。
俺に兄との仲を見せつける女の血を色濃く受け継いだ赤ん坊だと思っていた。
なのに……会ったら……
薙は確かに兄さんと彩乃さんの子供なのに、俺はずっとこの子に会いたかった気がした。長い間彷徨っていた森から抜け出たような、宝物を見つけたような心地になって戸惑った。
といっても……あの頃の俺は兄さんに切り捨てられたと思っていたから、暴言を吐いて立ち去ってしまったが。
あの不思議な感覚は今なら分かる。
遠い昔流水さんが湖水さんの中に残した想いが、成就したのだ。
薙は、俺たちの子。
言葉以上の確かな繋がりを感じている。
そっと部屋の灯りを消して庫裡に戻ると、ちょうと丈と洋がやってきた。
「お帰り! 今日は世話になったな。ありがとう」
「お役に立てて良かったです。薙の具合はどうですか。熱を出していませんか」
「……今はぐっすり休んでいるが」
「眠れているのなら良かった。痛み止めを飲んでも、痛みで眠れないこともあるので」
「最強の眠り薬と眠っているよ」
丈には分からないだろうと思ったのに……
「なるほど、翠兄さんの添い寝はよく眠れますからね」
「おぉ? お前どうして、それを知っている? まさか、してもらったのか。いつ? いつだ!」
「……小さい頃ですよ。まだ私が2、3歳の淡く覚束ない記憶です」
「そっ、そんなことしていたのか」
「私にも幼い頃の可愛い思い出がありますよ。生まれた時から大人じゃありませんからね。兄さん、少し妬きました?」
「べっ、別に」
「兄さん、好きな人の傍って、安心できますよね。だから私は洋と寝るのが好きなようです」
隣に立っていた洋が、顔を赤くする。
「丈は……まったく! 俺は抱き枕じゃないぞ」
「……洋は積極的だ」
「お、おい、何を言って」
「抱き枕じゃないという意味だが、何か」
ふたりの掛け合いに、少しだけ感傷的になっていた気分が晴れてくる。
「よーし、飯にするぞ。丈たちもこっちで食べていけ!」
パンと手を叩いて、気合いを入れた。
過去を思い出すのは仕方がないが、悪い方には引き摺られるな。
過去は過去、今は今だ!
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