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16章
天つ風 35
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薙は必死に松葉杖をつきながら、病院の廊下を歩いていた。
皆、心配でそれに付き添う。
「いきなり大丈夫か」
「ううう、めっちゃ歩きにくい」
「焦らなくていい、直になれる」
「う……ん、うわぁ!」
予想通り不慣れな松葉杖にバランスを崩し、何度もよろけて倒れそうになってしまった。
「しっかりしろ」
「あ、ありがと」
その度に流兄さんがさっと手を貸していた。
叔父と甥っ子の関係も、良好のようだ。
翠兄さんはとそっと視線をやると、落ち着いた表情で二人を見守っていた。
もっと取り乱すかと思ったが、自分に骨折の経験があるのが大きいのか。
身をもって経験したことは良い意味でも悪い意味でも、身体がしっかり覚えている。
骨折は兄さんにとって未知の怪我ではない。
苦労も痛みも実体験済みだ。
この様子なら、兄さんに任せて大丈夫そうだ。
処方薬を受け取り、会計も済まし、ようやく家に帰れる段階となった。
だが、私はまだ仕事があって帰れない。
「私の車で送れずに、すみません」
「とんでもないよ、丈。忙しいのに仕事の融通をつけて駆けつけてくれて、薙を診てくれてありがとう」
翠兄さんに労ってもらう。
兄さんの言葉は不思議だ。
説法を受けたかのように、有り難い気分になる。
檀家さんが兄さんを見ると拝みたくなるという気持ちも分かる。
苦しみから解脱した人だからなのか、蓮の花のように佇む兄さんはとても尊い。
「あ、呼び出しが」
「丈、行っておくれ。僕たちは、ここで大丈夫だ。あとはタクシーで帰るよ」
「すみません」
私は呼び出しがかかったので、その場から消えることになった。
これはいつものことだが、残念だった。
私に出来ることはした。
私はいなくても大丈夫だ。
とはいえ、大事な甥っ子、翠兄さんの最愛の息子の様子が気になって、一緒に帰りたい気分だった。
全く、こんなことでは医者として失格だ。
一人執務室で今日1日のカルテのチェックを終えて、ようやく帰れる段階となった。
白衣を脱ぎ捨て、ドアを開けると人の気配がした。
この棟の廊下の電灯は薄暗く、よく見えない。
こんな場所に……誰だ?
「俺だよ。丈」
「洋か……どうして? 皆と一緒に帰らなかったのか」
「松葉杖や荷物もあるから、俺は乗らなかったよ」
「洋……」
思わず洋を執務室に招き入れて、抱き締めてしまった。
美しい顔を見たくて、顎を掴んで顔を上げさせる。
「丈……どうした? 寂しかったか」
洋の声が心に響く。
「寂しくなど……」
「俺はお前をひとりにはさせないよ」
逆に洋に抱き締められて、驚いた。
「洋は男らしくなったな」
「丈に見合う男になりたくてね」
「心強いよ。私の相棒でもある恋人、愛しい君……」
「いいね、それ」
抱きあって、一度だけくちづけ。
お互いにそうしたかったから。
「丈、さぁ一緒に帰ろう」
「参ったな……それは私の台詞だったのに」
「ふっ、そうだったな。月影寺は……もう俺の家でもあるから……」
「そうだな。あの日洋と日本のどこへ行こうか迷ったが、北鎌倉を選んで良かった」
あの日の決断は間違っていなかった。
あの日から、どんどん私の世界は広がっている。
自分から踏み込むと、世界の色は想像と違って暖かかった。
人嫌󠄃いだった私が、ここまで兄と打ち解けられたのは、洋のお陰だ。
「丈、俺を月影寺に招き入れてくれてありがとう。あそこにいると力が漲ってくるんだ。自分からやってみようという気持ちになれる……あのさ、安心できる家族がいるって、いいな」
いつになく饒舌な洋を助手席に乗せて走ると、私の疲れは吹き飛び、心がどんどん軽くなっていった。
自分を大切にしてくれる人の存在は、人生を変えていく。
より彩り豊かに、より深い色に――
皆、心配でそれに付き添う。
「いきなり大丈夫か」
「ううう、めっちゃ歩きにくい」
「焦らなくていい、直になれる」
「う……ん、うわぁ!」
予想通り不慣れな松葉杖にバランスを崩し、何度もよろけて倒れそうになってしまった。
「しっかりしろ」
「あ、ありがと」
その度に流兄さんがさっと手を貸していた。
叔父と甥っ子の関係も、良好のようだ。
翠兄さんはとそっと視線をやると、落ち着いた表情で二人を見守っていた。
もっと取り乱すかと思ったが、自分に骨折の経験があるのが大きいのか。
身をもって経験したことは良い意味でも悪い意味でも、身体がしっかり覚えている。
骨折は兄さんにとって未知の怪我ではない。
苦労も痛みも実体験済みだ。
この様子なら、兄さんに任せて大丈夫そうだ。
処方薬を受け取り、会計も済まし、ようやく家に帰れる段階となった。
だが、私はまだ仕事があって帰れない。
「私の車で送れずに、すみません」
「とんでもないよ、丈。忙しいのに仕事の融通をつけて駆けつけてくれて、薙を診てくれてありがとう」
翠兄さんに労ってもらう。
兄さんの言葉は不思議だ。
説法を受けたかのように、有り難い気分になる。
檀家さんが兄さんを見ると拝みたくなるという気持ちも分かる。
苦しみから解脱した人だからなのか、蓮の花のように佇む兄さんはとても尊い。
「あ、呼び出しが」
「丈、行っておくれ。僕たちは、ここで大丈夫だ。あとはタクシーで帰るよ」
「すみません」
私は呼び出しがかかったので、その場から消えることになった。
これはいつものことだが、残念だった。
私に出来ることはした。
私はいなくても大丈夫だ。
とはいえ、大事な甥っ子、翠兄さんの最愛の息子の様子が気になって、一緒に帰りたい気分だった。
全く、こんなことでは医者として失格だ。
一人執務室で今日1日のカルテのチェックを終えて、ようやく帰れる段階となった。
白衣を脱ぎ捨て、ドアを開けると人の気配がした。
この棟の廊下の電灯は薄暗く、よく見えない。
こんな場所に……誰だ?
「俺だよ。丈」
「洋か……どうして? 皆と一緒に帰らなかったのか」
「松葉杖や荷物もあるから、俺は乗らなかったよ」
「洋……」
思わず洋を執務室に招き入れて、抱き締めてしまった。
美しい顔を見たくて、顎を掴んで顔を上げさせる。
「丈……どうした? 寂しかったか」
洋の声が心に響く。
「寂しくなど……」
「俺はお前をひとりにはさせないよ」
逆に洋に抱き締められて、驚いた。
「洋は男らしくなったな」
「丈に見合う男になりたくてね」
「心強いよ。私の相棒でもある恋人、愛しい君……」
「いいね、それ」
抱きあって、一度だけくちづけ。
お互いにそうしたかったから。
「丈、さぁ一緒に帰ろう」
「参ったな……それは私の台詞だったのに」
「ふっ、そうだったな。月影寺は……もう俺の家でもあるから……」
「そうだな。あの日洋と日本のどこへ行こうか迷ったが、北鎌倉を選んで良かった」
あの日の決断は間違っていなかった。
あの日から、どんどん私の世界は広がっている。
自分から踏み込むと、世界の色は想像と違って暖かかった。
人嫌󠄃いだった私が、ここまで兄と打ち解けられたのは、洋のお陰だ。
「丈、俺を月影寺に招き入れてくれてありがとう。あそこにいると力が漲ってくるんだ。自分からやってみようという気持ちになれる……あのさ、安心できる家族がいるって、いいな」
いつになく饒舌な洋を助手席に乗せて走ると、私の疲れは吹き飛び、心がどんどん軽くなっていった。
自分を大切にしてくれる人の存在は、人生を変えていく。
より彩り豊かに、より深い色に――
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