重なる月

志生帆 海

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16章

天つ風 20

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「薙は10番目だな」
「うん!」

 翠の瞳が明るく輝く。

 その表情が嬉しいのに、胸の奥が少しだけ……チクリと痛んだ。
 
 翠は、きっと……ずっと前から、こんな風に息子の運動会や体育祭を見に来たかったはずだ。

 離婚してから……翠は必死に強がっていたが、かなり苦しんでいたのを知っている。

 夫婦仲が自然にこじれての離婚だったはずなのに、最終的にはその原因を一方的に翠の不貞だと、とんでもない難癖をつけられてしまった口惜しさ。交通事故に遭った場所がたまたま新宿の繁華街で、その直前まで怪しいバーにいたことが発覚し、彩乃さんの怒りを買った。
 
 どうしてあの日、翠がそんな場所に行ったのかは謎だが、ままならない事情があったに決まっている。

 だが彩乃さんは容赦なく、翠を遮断した。

 そのため翠は息子と自由に会えなくなってしまった。

 最愛の息子の存在は、翠にとって不慣れな都会で暮らす唯一のオアシスだったのに――

 幼い頃、薙はかなりのパパッ子だった。

 俺も離婚前に何度か実家の使いで会ったが、俺にはこっそり教えてくれたんだぜ。

……
「りゅーくん、なぎね、パパがしゅき、ないちょね」
「おー! そうか、そうか」
「りゅーくんは?」
「俺? あぁ……俺も……好きだ」
「わぁい、いっちょだね」
……

 あー あの頃の薙、可愛かったな。

 俺も無邪気な薙の前では、素直になれた。

 なのに、少し会わない間に、表情がガラッと変わってしまった。

……
「どうした?」
「……つまんないの」
「え?」
「ママおこってばかり」
「だれに? 薙、怒られたのか」
「……パパにおこるの」
「え?」
……

 心配だった。

 心配で溜らなかった。

 だが当時、俺は兄と上手くいってなかったので、心を砕いて聞いてやることが出来なかった。

 心のどこかで「俺を捨てて結婚したくせに」とひねくれていた。

 あの頃の俺サイテーだ。

 ぶん殴ってやりたい。
 
 お前は阿呆か!

 翠の何を見て、そんな偉そうなこと、ほざいてんだ!
 
 渇を入れてやりてぇ……

 ギリリと奥歯を噛みしめていると、翠に顔を覗き込まれた。

「流、どこへ行く?」
「あ……」
「ここにいろ」
「あぁ」

 参ったな。

 こういう時の翠は、目が覚めるほど凜々しい。

 あの事件は翠に暗い影を落としたが、皮肉なことに……翠の気高さが増すきっかけにもなったのか。翠の中で、あの仄暗い過去を乗り越えて辿り着いた場所だからなのか、翠が放つ気は、はっとする程、研ぎ澄まされている。

「次、薙の番だよ」
「おぅ!」

 薙が一気に走り出す。

 美しい光線のような走りだった。

 ハードルを飛ぶ姿も完璧だ。

 ネットを這いつくばって潜り抜けるのにも躊躇いがない。

 躊躇わないので、誰よりも早い!

 平均台も跳び箱も難なくこなして、今の所、1位で通過だ。

 さぁ難関……俺の時代から恒例の『缶ぽっくり』だ。

 缶ジュースより少し大きめの空き缶にロープを通し、その上に乗って遊ぶ昔ながらのおもちゃは、竹馬の仲間のようなものだが、難易度は竹馬よりも低い。

 まぁ簡単で誰でもすぐに乗れるが、それで歩くのは結構コツがいる。

 薙はそれを前に、少しまごついた。

 一度ズリッと転げ落ちてしまった。

「あぁ!」
 
 思わず翠が声を上げた。

 薙はすぐに起き上がり、もう一度挑戦する。
 
 そうこうしているうちに後ろから来た奴に抜かされてしまった。

「薙ー ガンバレ! 薙はそれに乗ったことがある! 思い出せ」

 俺もつい叫んでしまった。

 声が届いたのだろうか、薙が一瞬目を瞑り、それから缶ぽっくりを
器用に操って、進み出した。

「薙! がんばれ!」

 翠も叫ぶ。

 薙の勢いがつく。

 最後はフラフープを20回。

 薙を追い抜いた生徒は上手く回らず苦戦していた。

 ところが薙はすっと立ち、身体に串が刺さったかのようにぶれずに腰を上下に動かした。

 フラフープが高速で回り出す。

 まるで曲芸を見ているかのような、美しい姿だった。

 思わず周囲から歓声が上がる。

 高速で20回転をなんなくこなし、1位でゴールを決めた。

 翠の笑顔も弾ける。

「流、流、見た? すごかったね。順位なんてと思ったが、我が子の活躍は熱が入ってしまうね」
「いいんじゃないか、それで」
「うん……ありがとう」


 俺たちがようやく辿り着いたのは、心が凪ぐ場所だ。

 何をしても翠が目の前にいてくれるので、笑顔になれる。

 嵐は去った。

 俺たちの世界には平穏が訪れている。



 
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