1,537 / 1,657
16章
天つ風 2
しおりを挟む
流も薙も去り、また僕は一人になった。
ぽつんと縁側に腰掛けていると、夕焼けが空を茜色に染め出した。
東京のマンションで彩乃さんが出掛けて一人になると、僕はいつも高層マンションの窓辺に佇んでいたのを思い出す。
遠く、遙か遠くに見える山並みに手を伸ばしては、首を横に振りドンっと窓硝子を叩いた。
遠く、遠く心が離れてしまった流との日々を追憶して、一人涙を浮かべていたのだ。
あの頃の僕は……
月影寺を飛び出し勢いで結婚したもの、僕は明らかに居場所を失っていた。
婿養子のような立場で渋谷区にある秋風寺で働きだしたが、都会の空気に馴染めず、妻である彩乃さんのかなり奔放な性格にも戸惑っていた。
月影寺の跡を継ぐ目標も、長男としての意気込みも、もう……全部不要になってしまった。そう思うと……まるで糸の切れた凧のように、これまで一直線に向かっていた目標を失い進むべき方向性が定まらず、不安定な日々だった。
そんな中、ひとつの希望が生まれた。
それは長男、薙の誕生だ。
僕はたった24歳で父となった。
とても若い父だったが、父になったことで意識が変化した。
この子のためにもこの地に根付かねば……
可愛らしい坊やは、僕によく似た顔立ちだった。
でも性格は違った。
嫌なものは嫌、好きなものは好きだと、赤ん坊の頃から意思表示がハッキリしていた。
薙と名付けて正解だね。
君は道を切り開いていくんだよ。
僕のようになってはいけない。
自分で自分の道を埋めてはいけないよ。
薙がまるで幼い流のように、僕を慕ってくれるのが救いだった。
「パパ、パパ、こっちきてぇ」
「え?」
まるで小さな頃の流のように僕を力強く引っ張る薙に、ついほろりと泣いてしまった。
「パパ、どうちたの?」
「ごめん、なんでもないよ」
しっかりしないと、この子のためにも。
そう思うのに一度ひびがはいった心は厄介だった。
薙を連れて社交的に遊びに出掛ける彩乃さん。
薙は幼いのに、毎日お稽古事で僕の傍からいなくなって、また一人になってしまった。
その頃には、心と身体の乖離が顕著になり、ついにストレスから視力を失ってしまった。
一番恐れたことがやってきてしまったと、僕は錯乱した。
ずっと怖かった。
いつか流が消えてしまうのではと、幼い頃から心の奥に小さな石のように存在した恐れが現実になってしまったと嘆いた。
流はいるのに、姿が見えないのは……拷問だったな。
僕らの前世が影響していたとは、あの頃は何も知らなかった。
あぁ……どんどん過去に引きずられていってしまう。
この先はダメだ。
とても、とても嫌なことを思い出してしまう。
痛くて熱くて、屈辱的なことを……
流……薙……誰か……助けて!
脂汗をかいていると、静かな声がした。
まるで月明かりに照らされるように、荒波にもまれていた心が浄化されていく。
「翠さん、どこへ行くのですか」
「洋くんか」
「はい、今、過去に引きずられそうになっていたのでは?」
「ふっ……君には何でもお見通しだね」
「いや、見通したのではなく、一緒なんです。俺も翠兄さんと同じで、この時間に一人でいるのは辛くて」
子猫を抱いた洋くんが、隣に腰掛けてくれる。
肩が触れる距離に詰めて、僕に温もりを届けてくれる。
「少しは落ち着きましたか」
「うん……来てくれてありがとう」
「よかった。俺も一人でいるとあれこれ考えてしまうんです。嫌なことを思い出しそうになって……そんな時は自力ではなかなか浮上できないが、ルナが助けてくれます。子猫の温もりに癒やされています」
「そうか、あ……僕のシャドーはどこだろう?」
「ちゃんといますよ。翠さんの足下に」
「あっ」
「だから、翠兄さんも、これからシャドーを傍に」
「うん、そうするよ」
洋くんと過ごす時間は、心地良い。
洋くんには、なんでも話せる。
縁側で洋くんと肩を寄せ合い、日没を見守った。
白い猫と黒い猫は仲良しだ。
「月が出て来ますよ。もう大丈夫です」
「うん、落ち着いたよ。皆の所に戻ろう。洋くんもおいで、丈は当直だろう」
「いいのですか」
「当たり前だ。きっと楽しいことが待っているよ」
僕たちはまた歩き出す。
打ちのめされ絶望を味わった過去は消えないが、こうやって肩を寄せ合って生きていく。
月影寺とは、そんな寺だ。
ぽつんと縁側に腰掛けていると、夕焼けが空を茜色に染め出した。
東京のマンションで彩乃さんが出掛けて一人になると、僕はいつも高層マンションの窓辺に佇んでいたのを思い出す。
遠く、遙か遠くに見える山並みに手を伸ばしては、首を横に振りドンっと窓硝子を叩いた。
遠く、遠く心が離れてしまった流との日々を追憶して、一人涙を浮かべていたのだ。
あの頃の僕は……
月影寺を飛び出し勢いで結婚したもの、僕は明らかに居場所を失っていた。
婿養子のような立場で渋谷区にある秋風寺で働きだしたが、都会の空気に馴染めず、妻である彩乃さんのかなり奔放な性格にも戸惑っていた。
月影寺の跡を継ぐ目標も、長男としての意気込みも、もう……全部不要になってしまった。そう思うと……まるで糸の切れた凧のように、これまで一直線に向かっていた目標を失い進むべき方向性が定まらず、不安定な日々だった。
そんな中、ひとつの希望が生まれた。
それは長男、薙の誕生だ。
僕はたった24歳で父となった。
とても若い父だったが、父になったことで意識が変化した。
この子のためにもこの地に根付かねば……
可愛らしい坊やは、僕によく似た顔立ちだった。
でも性格は違った。
嫌なものは嫌、好きなものは好きだと、赤ん坊の頃から意思表示がハッキリしていた。
薙と名付けて正解だね。
君は道を切り開いていくんだよ。
僕のようになってはいけない。
自分で自分の道を埋めてはいけないよ。
薙がまるで幼い流のように、僕を慕ってくれるのが救いだった。
「パパ、パパ、こっちきてぇ」
「え?」
まるで小さな頃の流のように僕を力強く引っ張る薙に、ついほろりと泣いてしまった。
「パパ、どうちたの?」
「ごめん、なんでもないよ」
しっかりしないと、この子のためにも。
そう思うのに一度ひびがはいった心は厄介だった。
薙を連れて社交的に遊びに出掛ける彩乃さん。
薙は幼いのに、毎日お稽古事で僕の傍からいなくなって、また一人になってしまった。
その頃には、心と身体の乖離が顕著になり、ついにストレスから視力を失ってしまった。
一番恐れたことがやってきてしまったと、僕は錯乱した。
ずっと怖かった。
いつか流が消えてしまうのではと、幼い頃から心の奥に小さな石のように存在した恐れが現実になってしまったと嘆いた。
流はいるのに、姿が見えないのは……拷問だったな。
僕らの前世が影響していたとは、あの頃は何も知らなかった。
あぁ……どんどん過去に引きずられていってしまう。
この先はダメだ。
とても、とても嫌なことを思い出してしまう。
痛くて熱くて、屈辱的なことを……
流……薙……誰か……助けて!
脂汗をかいていると、静かな声がした。
まるで月明かりに照らされるように、荒波にもまれていた心が浄化されていく。
「翠さん、どこへ行くのですか」
「洋くんか」
「はい、今、過去に引きずられそうになっていたのでは?」
「ふっ……君には何でもお見通しだね」
「いや、見通したのではなく、一緒なんです。俺も翠兄さんと同じで、この時間に一人でいるのは辛くて」
子猫を抱いた洋くんが、隣に腰掛けてくれる。
肩が触れる距離に詰めて、僕に温もりを届けてくれる。
「少しは落ち着きましたか」
「うん……来てくれてありがとう」
「よかった。俺も一人でいるとあれこれ考えてしまうんです。嫌なことを思い出しそうになって……そんな時は自力ではなかなか浮上できないが、ルナが助けてくれます。子猫の温もりに癒やされています」
「そうか、あ……僕のシャドーはどこだろう?」
「ちゃんといますよ。翠さんの足下に」
「あっ」
「だから、翠兄さんも、これからシャドーを傍に」
「うん、そうするよ」
洋くんと過ごす時間は、心地良い。
洋くんには、なんでも話せる。
縁側で洋くんと肩を寄せ合い、日没を見守った。
白い猫と黒い猫は仲良しだ。
「月が出て来ますよ。もう大丈夫です」
「うん、落ち着いたよ。皆の所に戻ろう。洋くんもおいで、丈は当直だろう」
「いいのですか」
「当たり前だ。きっと楽しいことが待っているよ」
僕たちはまた歩き出す。
打ちのめされ絶望を味わった過去は消えないが、こうやって肩を寄せ合って生きていく。
月影寺とは、そんな寺だ。
10
お気に入りに追加
443
あなたにおすすめの小説
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
【完結】義兄に十年片想いしているけれど、もう諦めます
夏ノ宮萄玄
BL
オレには、親の再婚によってできた義兄がいる。彼に対しオレが長年抱き続けてきた想いとは。
――どうしてオレは、この不毛な恋心を捨て去ることができないのだろう。
懊悩する義弟の桧理(かいり)に訪れた終わり。
義兄×義弟。美形で穏やかな社会人義兄と、つい先日まで高校生だった少しマイナス思考の義弟の話。短編小説です。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
悩める文官のひとりごと
きりか
BL
幼い頃から憧れていた騎士団に入りたくても、小柄でひ弱なリュカ・アルマンは、学校を卒業と同時に、文官として騎士団に入団する。方向音痴なリュカは、マルーン副団長の部屋と間違え、イザーク団長の部屋に入り込む。
そこでは、惚れ薬を口にした団長がいて…。
エチシーンが書けなくて、朝チュンとなりました。
ムーンライト様にも掲載しております。
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/love.png?id=38b9f51b5677c41b0416)
番?呪いの別名でしょうか?私には不要ですわ
紅子
恋愛
私は充分に幸せだったの。私はあなたの幸せをずっと祈っていたのに、あなたは幸せではなかったというの?もしそうだとしても、あなたと私の縁は、あのとき終わっているのよ。あなたのエゴにいつまで私を縛り付けるつもりですか?
何の因果か私は10歳~のときを何度も何度も繰り返す。いつ終わるとも知れない死に戻りの中で、あなたへの想いは消えてなくなった。あなたとの出会いは最早恐怖でしかない。終わらない生に疲れ果てた私を救ってくれたのは、あの時、私を救ってくれたあの人だった。
12話完結済み。毎日00:00に更新予定です。
R15は、念のため。
自己満足の世界に付き、合わないと感じた方は読むのをお止めください。設定ゆるゆるの思い付き、ご都合主義で書いているため、深い内容ではありません。さらっと読みたい方向けです。矛盾点などあったらごめんなさい(>_<)
![](https://www.alphapolis.co.jp/v2/img/books/no_image/novel/bl.png?id=5317a656ee4aa7159975)
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる