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16章
雲外蒼天 12
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車から降りて、私は二人の孫と洋館の前に立った。
由比ヶ浜の白い洋館。
平日の昼間、周辺には人気《ひとけ》はなかった。
だから洋館の眼前に開ける海は、まるで今は私のプライベートビーチね。
寄せては返す波が、私の記憶を揺さぶってくる。
声……
あぁ、あの子達が私を呼ぶ声が聞こえるわ。
人間が相手を忘れていく順番は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚だと、どこかで聞いたことがある。
だからなのかしら?
私はもうこの世にいない夕の声を長いこと思い出せなくなっていた。
深い溝が出来て長年交流していない朝の声すらも朧気になっていた。
なのに、どうしたことかしら? これは……
……
「お母様、早く! 早く!」
「ママ、一緒に行きましょう」
目を閉じるとうら若い二人の娘の姿が、昨日のことのように思い出される。
私の右手を朝が引っ張り、私の左手を夕が握る。
この日のことを、私はよく覚えている。
二人は幼稚園からエスカレーター式の女子校を卒業し、春から系列の女子大に通うことになっていた。
主人は相変わらず世界を飛び回っていたので、私は二人の娘と由比ヶ浜の別荘に遊びに来ていた。
ここは二人の娘の命を授かった場所。
幼少時代から幾度も訪れた大切な場所。
海里先生や柊一さん、瑠衣さんにアーサーさん、テツさんと桂人さんとも夏の避暑に何度も来たわ。
思い出が積み重なった場所なのかしら。
こんなにも鮮やかに思い出せるのは。
……
「朝……夕……一緒に海を見に行きましょう」
「お母様ってば、早くしないと日が暮れちゃうわ」
「ママ、夕陽が綺麗ね」
……
朝と夕、二人は顔が瓜二つでも、性格と雰囲気は真逆だった。
でも私にはどちらも愛おしい娘だった。
大切に育て、幸せだけを願っていたはずなのに……
あぁ、この手であの子達の人生を滅茶苦茶にしてしまった。
あの縁談さえ舞い込まなければと怨んだこともあったわ。
でも手を下したのは、この私。
娘の人生を歪めてしまったのは、私なの。
だから……今更幸せな日々を思い出してはいけない。
死ぬまで懺悔の日々だと思っていたのに、夕の忘れ形見の洋と出会い、私の毎日は変化した。
そして今日、もう一人の孫と出会った。
洋と涼。
二人も朝と夕のように顔は似ていても、雰囲気も性格も真逆なのね。
だから、仲良しなのも一緒。
「おばあさま、もう……過去は過去です」
「洋ちゃん?」
「おばあさま、なんだか苦しそうです。でも、もう解き放たれましょう。もう一生分苦しみましたから」
それは、まるで洋ちゃんのことのようよ。
洋ちゃんに降りかかった災難が何だったのかは、怖くて聞けない。
洋ちゃんも私にはけっして……話さないでしょう。
でもね、洋ちゃんの悲しみ寂しさは受け止めたいのよ。
そして朝日のような涼ちゃんの笑顔も守ってあげたい。
一本気な朝が、一人息子の相手が同性だと聞いてどう反応するか一抹の不安が過るの。
私、もうおばあちゃまだけれども……
娘の人生を台無しにしてしまった後悔を、後悔のまま終わらせたくないわ。
二人の孫の幸せを守る人になりたい。
「ここは『誓いの海』と名付けましょう」
「え?」
「二人ともよくお聞きなさい」
「はい、何でしょう?」
「うん!」
波の音が私を鼓舞してくれる。
「私はあなたたちの味方よ。だからあなたたちが求める幸せを応援させて。何かあったら必ず私を頼って欲しいの」
「心強いです。おばあさま」
「おばあさまと今日、出逢えて良かったです」
「……海をもっと近くで見たいわ」
「行きましょう!」
「じゃあ行こうよ」
私の右手を涼ちゃんが引っ張ってくれる。
私の左手を洋ちゃんが握ってくれる。
あの日のように――
もう間違わない。
間違えたことは取り消させない。
でも私は生きている。
生きているなら、出来ることがある。
もう間違わないように生きていこう。
あぁ……白波がまるで天使の羽のように見えるわ。
夕、夕……
私が間違わないように見守っていてね。
「ママ、ママ……だいすきよ。ママならできるわ。だって私のママですもの」
「夕――」
優しい夕の声が雲の上から降ってくる。
由比ヶ浜は誓いの海となる。
由比ヶ浜の白い洋館。
平日の昼間、周辺には人気《ひとけ》はなかった。
だから洋館の眼前に開ける海は、まるで今は私のプライベートビーチね。
寄せては返す波が、私の記憶を揺さぶってくる。
声……
あぁ、あの子達が私を呼ぶ声が聞こえるわ。
人間が相手を忘れていく順番は聴覚・視覚・触覚・味覚・嗅覚だと、どこかで聞いたことがある。
だからなのかしら?
私はもうこの世にいない夕の声を長いこと思い出せなくなっていた。
深い溝が出来て長年交流していない朝の声すらも朧気になっていた。
なのに、どうしたことかしら? これは……
……
「お母様、早く! 早く!」
「ママ、一緒に行きましょう」
目を閉じるとうら若い二人の娘の姿が、昨日のことのように思い出される。
私の右手を朝が引っ張り、私の左手を夕が握る。
この日のことを、私はよく覚えている。
二人は幼稚園からエスカレーター式の女子校を卒業し、春から系列の女子大に通うことになっていた。
主人は相変わらず世界を飛び回っていたので、私は二人の娘と由比ヶ浜の別荘に遊びに来ていた。
ここは二人の娘の命を授かった場所。
幼少時代から幾度も訪れた大切な場所。
海里先生や柊一さん、瑠衣さんにアーサーさん、テツさんと桂人さんとも夏の避暑に何度も来たわ。
思い出が積み重なった場所なのかしら。
こんなにも鮮やかに思い出せるのは。
……
「朝……夕……一緒に海を見に行きましょう」
「お母様ってば、早くしないと日が暮れちゃうわ」
「ママ、夕陽が綺麗ね」
……
朝と夕、二人は顔が瓜二つでも、性格と雰囲気は真逆だった。
でも私にはどちらも愛おしい娘だった。
大切に育て、幸せだけを願っていたはずなのに……
あぁ、この手であの子達の人生を滅茶苦茶にしてしまった。
あの縁談さえ舞い込まなければと怨んだこともあったわ。
でも手を下したのは、この私。
娘の人生を歪めてしまったのは、私なの。
だから……今更幸せな日々を思い出してはいけない。
死ぬまで懺悔の日々だと思っていたのに、夕の忘れ形見の洋と出会い、私の毎日は変化した。
そして今日、もう一人の孫と出会った。
洋と涼。
二人も朝と夕のように顔は似ていても、雰囲気も性格も真逆なのね。
だから、仲良しなのも一緒。
「おばあさま、もう……過去は過去です」
「洋ちゃん?」
「おばあさま、なんだか苦しそうです。でも、もう解き放たれましょう。もう一生分苦しみましたから」
それは、まるで洋ちゃんのことのようよ。
洋ちゃんに降りかかった災難が何だったのかは、怖くて聞けない。
洋ちゃんも私にはけっして……話さないでしょう。
でもね、洋ちゃんの悲しみ寂しさは受け止めたいのよ。
そして朝日のような涼ちゃんの笑顔も守ってあげたい。
一本気な朝が、一人息子の相手が同性だと聞いてどう反応するか一抹の不安が過るの。
私、もうおばあちゃまだけれども……
娘の人生を台無しにしてしまった後悔を、後悔のまま終わらせたくないわ。
二人の孫の幸せを守る人になりたい。
「ここは『誓いの海』と名付けましょう」
「え?」
「二人ともよくお聞きなさい」
「はい、何でしょう?」
「うん!」
波の音が私を鼓舞してくれる。
「私はあなたたちの味方よ。だからあなたたちが求める幸せを応援させて。何かあったら必ず私を頼って欲しいの」
「心強いです。おばあさま」
「おばあさまと今日、出逢えて良かったです」
「……海をもっと近くで見たいわ」
「行きましょう!」
「じゃあ行こうよ」
私の右手を涼ちゃんが引っ張ってくれる。
私の左手を洋ちゃんが握ってくれる。
あの日のように――
もう間違わない。
間違えたことは取り消させない。
でも私は生きている。
生きているなら、出来ることがある。
もう間違わないように生きていこう。
あぁ……白波がまるで天使の羽のように見えるわ。
夕、夕……
私が間違わないように見守っていてね。
「ママ、ママ……だいすきよ。ママならできるわ。だって私のママですもの」
「夕――」
優しい夕の声が雲の上から降ってくる。
由比ヶ浜は誓いの海となる。
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