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16章
翠雨の後 1
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寺で誰よりも早く目覚めるのは、この俺だ。
月影寺を守る獅子として翠を生涯守り抜く想いは、一向に色褪せない。むしろ翠と繋がる度に増していく。
昨夜は、新年度を迎えるにあたり心を整えたいという翠の希望で、それぞれの部屋で眠りについた。
久しぶりの独り寝は寂しく、いつもよりずっと早く目覚めてしまった。そこで翠の部屋に忍び込み、愛しい寝顔を心ゆくまで見つめることにした。
今日から四月だ。
翠の部屋の壁にかかるカレンダーと文机の上の卓上カレンダーを潔く捲った。
「ふぅん、四月は満開の桜は吉野山の千本桜か。まるでこの世の極楽だな。だが俺の極楽はここにある」
なぁ翠、ついに4月になったぞ!
俺たちにとって特別な夜明けだ。
薙が今日から『張矢 薙』と名乗れるのだから。
翠によく似た顔立ちで、性格は俺に似た頼もしい薙は、まっすぐに俺と翠の血を受け継いでいる。『森』から『張矢』と苗字が変わることにより、名実ともに俺と翠の息子になるようだ。
数ヶ月前、宗吾の兄が離婚調停に精通した凄腕の弁護士だと知り、すぐに紹介してもらった。滝沢憲吾弁護士はすぐに手腕を発揮してくれ、無事に『子の氏の変更許可』が認められた。高校に上がるのと同時に、薙の苗字を『張矢』の姓に変えることが出来て良かった。
「翠、良かったな」
翠はまだ夢の中。目元の色っぽい黒子《ほくろ》にそっと口づけすると、ムラッと欲情してしまった。
まずいな。よしっ、ひとっ走りしてくるか。
俺はこんな時は昔から外に飛び出して、身体を動かすことで発散させてきた。しかし三十も後半なのに未だに衰えない性欲に苦笑する。きっと生涯翠に欲情するように身体が仕込まれているのだろう。
それでいい、それがいい!
ザザッと竹藪に飛び込み、そこから裏山を縦横無尽に走り抜ける。
竹林の葉のざわめきを割って風を誘い、翠色の庭を駆け巡る。
一陣の風が吹き抜けると、ブワッと視界が桜色になった。
今年の桜は早かった。
もう葉桜になってしまったが、竹林に花びらが紛れ、ひらひらと舞い降りてくる様子は幻想的だ。
寺の最奥にある墓石にも、花びらがひらひらと降り積もっていた。
その幻想的な光景の中に、静かに佇む人がいた。
「ん? なんだ……洋か、驚いたな、こんなに朝早くどうした?」
「……流さんこそ」
丈の運命の番《つがい》とも言える、洋。
相変わらずその類い希な美貌は変わらない。憂いを帯びた目元には幸せと哀しみが同居しており、月光のような静かな気を放ちながら、強くも儚くもある独特の雰囲気を纏っている。
「俺はまぁ……日課だ」
「あの……今日は母の命日なんです。あの日もこんな風に桜の花びらが名残惜しそうに……母の亡骸に触れていました」
墓石に触れた細い手が微かに震えている。
月影寺の四男坊は強がりだ。
涙を堪えているようだが、俺がいると泣けないようだ。
そこに笹の葉が揺れる音がする。
「洋、待たせたな。花を摘んで来た」
丈はしなやかなシルエットの白衣を着て、手には白い花を持っていた。丈なりの正装なのだろう。
「なんだ、丈も来たのか」
「流兄さん? こんな所で、どうしたんです」
「いや、邪魔したな」
「いえ」
「後で翠兄さんと改めて墓参りをさせてもらうよ」
そう言い残し、再び走り出した。
大切な人と今生での別れは辛い。
それを知るこの身が叫ぶ!
早く、早く……翠に会わせろ、翠に触れたいと。
うっすら身体が汗ばんでくる。
翠を思えば、全身の血潮が沸き立つ!
月影寺を守る獅子として翠を生涯守り抜く想いは、一向に色褪せない。むしろ翠と繋がる度に増していく。
昨夜は、新年度を迎えるにあたり心を整えたいという翠の希望で、それぞれの部屋で眠りについた。
久しぶりの独り寝は寂しく、いつもよりずっと早く目覚めてしまった。そこで翠の部屋に忍び込み、愛しい寝顔を心ゆくまで見つめることにした。
今日から四月だ。
翠の部屋の壁にかかるカレンダーと文机の上の卓上カレンダーを潔く捲った。
「ふぅん、四月は満開の桜は吉野山の千本桜か。まるでこの世の極楽だな。だが俺の極楽はここにある」
なぁ翠、ついに4月になったぞ!
俺たちにとって特別な夜明けだ。
薙が今日から『張矢 薙』と名乗れるのだから。
翠によく似た顔立ちで、性格は俺に似た頼もしい薙は、まっすぐに俺と翠の血を受け継いでいる。『森』から『張矢』と苗字が変わることにより、名実ともに俺と翠の息子になるようだ。
数ヶ月前、宗吾の兄が離婚調停に精通した凄腕の弁護士だと知り、すぐに紹介してもらった。滝沢憲吾弁護士はすぐに手腕を発揮してくれ、無事に『子の氏の変更許可』が認められた。高校に上がるのと同時に、薙の苗字を『張矢』の姓に変えることが出来て良かった。
「翠、良かったな」
翠はまだ夢の中。目元の色っぽい黒子《ほくろ》にそっと口づけすると、ムラッと欲情してしまった。
まずいな。よしっ、ひとっ走りしてくるか。
俺はこんな時は昔から外に飛び出して、身体を動かすことで発散させてきた。しかし三十も後半なのに未だに衰えない性欲に苦笑する。きっと生涯翠に欲情するように身体が仕込まれているのだろう。
それでいい、それがいい!
ザザッと竹藪に飛び込み、そこから裏山を縦横無尽に走り抜ける。
竹林の葉のざわめきを割って風を誘い、翠色の庭を駆け巡る。
一陣の風が吹き抜けると、ブワッと視界が桜色になった。
今年の桜は早かった。
もう葉桜になってしまったが、竹林に花びらが紛れ、ひらひらと舞い降りてくる様子は幻想的だ。
寺の最奥にある墓石にも、花びらがひらひらと降り積もっていた。
その幻想的な光景の中に、静かに佇む人がいた。
「ん? なんだ……洋か、驚いたな、こんなに朝早くどうした?」
「……流さんこそ」
丈の運命の番《つがい》とも言える、洋。
相変わらずその類い希な美貌は変わらない。憂いを帯びた目元には幸せと哀しみが同居しており、月光のような静かな気を放ちながら、強くも儚くもある独特の雰囲気を纏っている。
「俺はまぁ……日課だ」
「あの……今日は母の命日なんです。あの日もこんな風に桜の花びらが名残惜しそうに……母の亡骸に触れていました」
墓石に触れた細い手が微かに震えている。
月影寺の四男坊は強がりだ。
涙を堪えているようだが、俺がいると泣けないようだ。
そこに笹の葉が揺れる音がする。
「洋、待たせたな。花を摘んで来た」
丈はしなやかなシルエットの白衣を着て、手には白い花を持っていた。丈なりの正装なのだろう。
「なんだ、丈も来たのか」
「流兄さん? こんな所で、どうしたんです」
「いや、邪魔したな」
「いえ」
「後で翠兄さんと改めて墓参りをさせてもらうよ」
そう言い残し、再び走り出した。
大切な人と今生での別れは辛い。
それを知るこの身が叫ぶ!
早く、早く……翠に会わせろ、翠に触れたいと。
うっすら身体が汗ばんでくる。
翠を思えば、全身の血潮が沸き立つ!
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