重なる月

志生帆 海

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第3部 15章

花を咲かせる風 4

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「運転手さん、この住所にお願いします」
「畏まりました。高速を使うので一時間ほどで到着予定です」
「……同じ都内だったのね」
「はい」

 おばあさまも、いつになく緊張しているようだった。

 駆け落ちして行方知れずだった母が、同じ都内、しかも近くの区に住んでいたとは思いもよらなかったのだろう。

「おばあさま? 大丈夫ですか」
「ようちゃん、ごめんなさいね。自分から言い出したのに、こんなに緊張して」
「あの……俺が……手を……繋ぎましょうか」
「いいの? ようちゃん、あなたに触れていると落ち着くわ」

 年老いた祖母の丁寧に手入れされた手を、そっと握りしめた。こんな風に積極的に、丈以外の誰かに触れたいと思ったことはなかったから、不思議だな。

「ようちゃん、とても温かいわ。ありがとう」
「俺の方こそ」

 何も話さなくても、優しい時間が流れていた。

 人肌の温もりに、さっきまでの、ひねくれてささくれだっていた心も凪いでいく。

「おばあさま。今日は……実は翠さんの息子さんの卒業式でした」
「まぁ、だから皆さん正装でお揃いだったのね。そんな時にお邪魔しちゃったのね」
「いえ……俺……少しだけ羨ましくなってしまいました。俺はっ……中学も、高校も……いい思い出がないから……いいなって。そんな心の狭い自分が嫌で……」
「ようちゃん……あなたは自分を卑下しなくていいのよ」
「う……親子仲良しなのが羨ましいと思ってしまいました。俺、父さんのこと何も知らないから、ほとんど記憶にないから……俺も本当は翠さんと薙くんみたいな親子関係に憧れていたようです。ないもの強請りをしてしまいました。もう……いい大人なのに」

 話している内に、涙が溢れてしまった。

「ようちゃん……」
 
 祖母が白いハンカチでそっと涙を拭いてくれた。

「ようちゃん、あなたが私に甘えてくれてうれしいわ。ようちゃんには、おばあちゃまがついているわ。それから……今こそ、あなたはお父さんのルーツを辿るべきよ」
「……でも、おばあさま、それは……」
「この前、浅岡さんの下宿先だった住所は教えたわよね。もう辿ったの?」
「いえ……まだです」
「思い切って探してごらんなさい。きっと何か発見があって新しい道が開けるわ」

 祖母が俺の背中を押してくれる。
 あなたの娘を連れ去った父を許してくれているのが伝わり、心から嬉しかった。

「着きました。ここが俺が生まれ育った家です」

 鍵はいつも持ち歩いている。いつでも母に会えるように。

「まぁ、ここなのね」

 二人で小さな家を見上げた。

「二階の一番奥に母の部屋があります」

 中に入ると、祖母はキョロキョロとあたりを見渡した。
 
「とても綺麗にしてあるのね」
「実はだいぶ痛んでいたので改装したばかりなんです。でも母の部屋はそのままにしてあります。どうぞ」
「じゃあ、ここに何かお父さんのものが残っているんじゃなくて?」

 それは絶対にない。あの人と再婚した時、全部捨てさせられたから。

「……ないと思います」
「そうなの?」
「母は……父の思い出を見るのも辛かったようです」

 こう言うしかなかった。

 母の部屋だけは、当時のままだった。

「ここなのね……あぁ、夕の匂いがするわ……夕っ」

 今度は祖母の瞳から、はらはらと涙が散る。

「夕は、ここにいたのね」
「はい。この部屋が大好きでしたよ」
「ようちゃんを残して逝くのは、心残りだったのでしょうね」
「このトランクに母が若い頃の荷物がしまってありました」
 
 クローゼットの中から、あの日丈と見つけたドイツ製のベアを取り出した。

 ベージュの毛と透き通るような硝子の、茶色い目の古いクマのぬいぐるみだ。

「もしかして……この産着は母が着たものですか」
「見せて」

 整然とした美しい縫い目の産着を見たおばあさまの瞳からは、更に大粒の涙が溢れた。

「そうよ、そう! このクマは誕生日に夕に買ってあげたもので、このくまがしているスタイは私が縫ったものよ。何故これが、ここに……」
「駆け落ちする時、持ってきたのでしょう。このトランクには母が若い頃のものばかり詰まっていましたから」
「夕は私を捨てたわけじゃなかったのに、どうして分かってあげられなかったのかしら……うっ、うう」
「おばあさま、そんなに自分を責めないで下さい」
「ようちゃん……あなたがいてくれて良かった。救われるわ。ありがとう」

 祖母はクマを抱きしめて泣いていた。

 そんな祖母の細い肩を抱きしめてあげた。

 ずっと丈に守られ、皆に守られて来た俺が、今は祖母を抱きしめている。

 それはとても不思議な心地がした。

「あら? このクマさんの手に何か縫い付けられているわ」
「?」
「ほら、ここよ。手が胴体にくっついて不自然じゃない?」
「確かに」
「ようちゃん、ハサミあるかしら?」
「確かここに裁縫箱が」

 バスケットの中から手芸鋏を手渡すと、祖母が糸を解いてくれた。

 クマの手に隠すように縫い付けられていたのは……



 

「え?」
「これって学生服のボタンじゃないかしら?」
「はい……でも一体誰の?」
「きっと、ようちゃんのお父さんのものよ」
「ええっ、お父さんの?」
「ここを見て、何か書いてあるわ」

 Dear.You From Shinji

 コロンと手の平に載せられたボタンに、心がトクンと跳ねた。

 本当に、俺のお父さんのもの?
 
  これは……俺が今日憧れた学ランのボタンだ。
 
 じわじわと心が濡れ、感激の涙が頬を伝った。

「うっ……うっ……」
  
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