重なる月

志生帆 海

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14章

身も心も 12

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 やれやれ……すっかり遅くなってしまったな。

 ミーティングが長引いたいせいで、もう20時近くになっていた。

 駐車場に向かって廊下を歩いていた私はふと思い立ち、Uターンした。

 やはり翠兄さんの顔を一目見てから帰ろう。

「翠兄さん、入りますよ」
「丈か」

 兄さんはひとりベッドにもたれ、読書をしていた。

 少しだけ心許ない横顔に、心配が募る。

 兄は無防備になった。

 感情を押し隠すのをやめたので、気を許した表情を見せてくれるようになったのだ。

 不謹慎かもしれないが、私はそれが嬉しい。

「ひとりで大丈夫ですか」
「大丈夫だよ。前回の検査入院よりも、ずっと落ち着いているよ」
「そのようですね。あの、流兄さんは?」
「うん、面会時間が終わった途端、看護師さんに追い出されてしまったよ」
「……そうですか。仕方がないですね」
「規則だからね」

 翠兄さんはパジャマに例のジャージを羽織っていた。

「大丈夫だよ。これがついているしね」
「流兄さんのジャージですね」
「うん……部屋着にしていたから、とても肌馴染みがいいんだ」
「よかったです。最強の御守りですね」
「そうだね。あとは丈……お前の存在も僕にとって御守りだよ」

 そんな風に言われたのは初めてで、どう答えていいのか分からなくなった。

「丈……僕の弟に生まれてきてくれてありがとう」
「改まって、どうしたんですか」
「いや、何となくお礼を言いたくなったんだ」
「綺麗にします……兄さんの傷は、私がこの手で」
「僕の見える過去を消してくれるか」
「全てを出しますよ」
「格好いいね」

 翠兄さんが真っ直ぐに私を見つめ、優美に微笑んでくれた。

 ずっと……この兄の、この笑顔に憧れていた。

 兄はどんな時も分け隔てなく愛情を注いでくれたのに、私が拒絶してしまっていたのだ。

「兄さんに褒められて、いい気分です」

 ニッと精一杯微笑むと、兄さんが「あはっ」と可愛らしく目を細めた。

「丈、お前……もうちょっと口角を上げた方がいいよ」
「え? そうですか」
「うんうん。きっと洋くんもそう思っているよ」
「そうなんですか……心がけます」

 ジャージを羽織った兄さんの心は穏やかに凪いでいる。

 きっと流兄さんに包まれている気分なのだろう。

「間もなく消灯ですね。そろそろ帰りますね」
「うん、お休み……また明日」
 


 ****

 駐車場で……丈の車にもたれて月を仰ぎ見ていた。

 いや、正確には翠の病室を見つめ続けていた。

 春の宵。

 時折八重桜の花びらが空にふわりと舞い上がる。

 俺もあの花びらにのって翠の病室に忍び込みたい。

 そんなロマンチックなことを考えていると、駐車場出入り口の扉が開き、丈の姿が現れた。

「よぅ!」
「流兄さん! なんだ……ここにいたのですか」
「あぁ、お前の車に乗せてもらおうと待っていたのさ」
「……素直に翠兄さんの病室を見ていたと言えばいいのに」
「ん? 何か言ったか」
「いえ、別に」
 
 流兄さんにも、悲壮な様子は窺えなかった

 二人とも前回の検査入院の時よりも、ずっと心にゆとりがあるようで安堵した。

 月影寺までの車中、流兄さんは静かに流れゆく景色を眺めていた。

 そのまま静かに別れると思ったら、離れへの分かれ道で呼び止められた。
 
「丈、ちょっと待て。少し母屋に寄って行けよ、母さんも様子を聴きたがっているし」
「そうですね。そうします」

  翠兄さんのいない寺は、少し寂しかった。

 流兄さんが私を引き止める気持ちも分かる。

 私も母さんに聞きたいことがあったので、ちょうど良かった。

 翠兄さんにアドバイスされた通り、口角を更に上げてニッと微笑むと、何故かギョッとされた。

「お、お前……微笑む相手を間違えているぞ」
「あ……そうですね。あの……洋と一緒に母屋に行きますよ。きっと離れで私を待っているから」
「そうだな、洋くんと一緒に来い。そんで母屋で一緒に夕食を取れよ。そのさ……俺、ちょっと寂しいからさ」

 いつもは豪快な兄の、寂しげな様子。

 私が励ましてあげたくなる。

 弟らしいことをしたくなる夜だった。
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