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14章
託す想い、集う人 21
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おばあ様が渡して下さったのは、色褪せた長三封筒だった。
表面には達筆で『履歴書』と書いてあり、裏面には浅岡信二《あさおか しんじ》と父の名が記されていた。
手がカタカタと震える。こんなものが、まだこの世に存在していたなんて。
「洋……あのね、これは私が捨てるに捨てられなかった物なの」
「はい」
「あのね、浅岡さんは我が家の顧問税理士の紹介で、身体が弱く高校を休みがちだった夕の家庭教師として来ていただいたの。丁度その頃……恥ずかしいことだけど、我が家の経済状態が悪くて、夕は資産家の息子を婿養子にもらって結婚させようと、主人が決めてしまって、でも……」
あぁ、その資産家の息子というのが、崔加の義父だったのだ。
まだ駄目だ。完全に乗り越えたわけではないので、その名が出る前に話を切り替えないと。
おばあ様は何も知らない。俺がその男に犯されたことを……絶対に何も知ってはいけない!
「あ、あの……おばあ様、履歴書を捨てないで下さってありがとうございます」
「あの子の行方と繋がる唯一の鍵だと思うと、どうしても捨てられなかったの」
「あの、中を確かめても?」
「それがね」
おばあ様は少し申し訳なさそうな顔をした。
「浅岡さんの素性やご実家は、これを見ても何も分からないのよ。T大文学部在学中だということと、下宿先の住所しか書かれていない簡易な履歴書だったのよ。ほら飯田橋としか書かれていないでしょう」
おばあ様も俺と同じことを考えて、何度も履歴書を見つめていたのだ。実家の住所などが書いてあればと期待して。
「ようちゃん、がっかりした?」
「少し、でも諦めません」
「そうよね。あなたはまだ若いし気力があるわ。今はその気になれば……いろんな方法で調べられるはずよ。私には、そこまで出来なかったけれども」
「そうだ、父は確か京都出身だったと仰っていましたよね?」
祖母は小さな溜め息を漏らした。
「税理士の先生の話ではね。でもその先生ももうとうに亡くなって」
「そうだったのですね。それでもこの履歴書……俺がもらっても」
「もちろんよ。あなたのお父さんの筆跡ですもの」
「ありがとうございます」
久しぶりに父の肉筆に触れて、涙が溢れた。
あんなに沢山あった、父の仕事部屋の資料や原稿。あの男に全部捨てられてしまったから。
「……ようちゃん、懐かしいのね。可哀想に……そうだわ、夕の書いたものも沢山あるのよ、ほら」
おばあ様が惜しげもなく見せてくれる母の高校時代のノートや作文。一つ一つ大切に取って置いてくれたのだ。
「ありがとうございます」
文字が溢れる。文字が躍る。文字が喜ぶ。
俺はさり気なく父の履歴書と母のノートを重ねてやった。
今は天国でこんな風に寄り添っている二人の姿が、ふわりと浮かんだ。
****
春の宵。
翠と流の離れ。
中庭に面して設けられた月見台。
月影寺に生を受けた男三人が、優雅に酒を交わしている。
「丈とこんな風にお酒を酌み交わすのはいつぶりだろうね」
「そうですね」
「丈、今日のお前はとても凜々しかったよ。兄さんはとても誇らしかったよ。さぁお飲み」
翠は兄らしく丈を褒める。
丈も嬉しそうに表情を寛がせて、酒を受ける。
「翠兄さん、私は大丈夫でしたか……とても緊張しました」
「なんだ、鉄仮面のお前でも緊張するのか、ははっ」
いつもの調子で言ってから、俺は激しく後悔した。
違う、こうじゃない。これではいつもと変わらない。
もっと……心に素直に浮かんだことを伝えたい。
もう何も、俺たちには何も隠すものはないのだから。
「丈……俺はさ、正直お前が羨ましかったよ」
「え?」
「あんなに堂々と宣言して……最高だった」
「あ……」
「つまりお前は、自慢の弟だぜ」
「流兄さん……」
丈の声が擦れた。
表面には達筆で『履歴書』と書いてあり、裏面には浅岡信二《あさおか しんじ》と父の名が記されていた。
手がカタカタと震える。こんなものが、まだこの世に存在していたなんて。
「洋……あのね、これは私が捨てるに捨てられなかった物なの」
「はい」
「あのね、浅岡さんは我が家の顧問税理士の紹介で、身体が弱く高校を休みがちだった夕の家庭教師として来ていただいたの。丁度その頃……恥ずかしいことだけど、我が家の経済状態が悪くて、夕は資産家の息子を婿養子にもらって結婚させようと、主人が決めてしまって、でも……」
あぁ、その資産家の息子というのが、崔加の義父だったのだ。
まだ駄目だ。完全に乗り越えたわけではないので、その名が出る前に話を切り替えないと。
おばあ様は何も知らない。俺がその男に犯されたことを……絶対に何も知ってはいけない!
「あ、あの……おばあ様、履歴書を捨てないで下さってありがとうございます」
「あの子の行方と繋がる唯一の鍵だと思うと、どうしても捨てられなかったの」
「あの、中を確かめても?」
「それがね」
おばあ様は少し申し訳なさそうな顔をした。
「浅岡さんの素性やご実家は、これを見ても何も分からないのよ。T大文学部在学中だということと、下宿先の住所しか書かれていない簡易な履歴書だったのよ。ほら飯田橋としか書かれていないでしょう」
おばあ様も俺と同じことを考えて、何度も履歴書を見つめていたのだ。実家の住所などが書いてあればと期待して。
「ようちゃん、がっかりした?」
「少し、でも諦めません」
「そうよね。あなたはまだ若いし気力があるわ。今はその気になれば……いろんな方法で調べられるはずよ。私には、そこまで出来なかったけれども」
「そうだ、父は確か京都出身だったと仰っていましたよね?」
祖母は小さな溜め息を漏らした。
「税理士の先生の話ではね。でもその先生ももうとうに亡くなって」
「そうだったのですね。それでもこの履歴書……俺がもらっても」
「もちろんよ。あなたのお父さんの筆跡ですもの」
「ありがとうございます」
久しぶりに父の肉筆に触れて、涙が溢れた。
あんなに沢山あった、父の仕事部屋の資料や原稿。あの男に全部捨てられてしまったから。
「……ようちゃん、懐かしいのね。可哀想に……そうだわ、夕の書いたものも沢山あるのよ、ほら」
おばあ様が惜しげもなく見せてくれる母の高校時代のノートや作文。一つ一つ大切に取って置いてくれたのだ。
「ありがとうございます」
文字が溢れる。文字が躍る。文字が喜ぶ。
俺はさり気なく父の履歴書と母のノートを重ねてやった。
今は天国でこんな風に寄り添っている二人の姿が、ふわりと浮かんだ。
****
春の宵。
翠と流の離れ。
中庭に面して設けられた月見台。
月影寺に生を受けた男三人が、優雅に酒を交わしている。
「丈とこんな風にお酒を酌み交わすのはいつぶりだろうね」
「そうですね」
「丈、今日のお前はとても凜々しかったよ。兄さんはとても誇らしかったよ。さぁお飲み」
翠は兄らしく丈を褒める。
丈も嬉しそうに表情を寛がせて、酒を受ける。
「翠兄さん、私は大丈夫でしたか……とても緊張しました」
「なんだ、鉄仮面のお前でも緊張するのか、ははっ」
いつもの調子で言ってから、俺は激しく後悔した。
違う、こうじゃない。これではいつもと変わらない。
もっと……心に素直に浮かんだことを伝えたい。
もう何も、俺たちには何も隠すものはないのだから。
「丈……俺はさ、正直お前が羨ましかったよ」
「え?」
「あんなに堂々と宣言して……最高だった」
「あ……」
「つまりお前は、自慢の弟だぜ」
「流兄さん……」
丈の声が擦れた。
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