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14章
追憶の由比ヶ浜 60
しおりを挟む「はい、張矢さんよく頑張りましたね。特に悪い所も見当たりませんよ」
「良かったです」
胃カメラの検査は、実にあっけなく終わった。正直もっと大変かと思ったがカメラは本当に小さかったし、『無の境地』になるのは、得意だった。
「張矢さん~、とっても上手でしたよ」
「そうでしょうか」
「えぇ、嘔吐きもせずにスルスルと飲む込めるなんて、素晴らしいです」
手放して褒められ、無性に嬉しくなってしまった。
看護師さんに褒められたのが嬉しいのではなくて、流に褒められる予感がして嬉しいのだ。
はぁ……僕も大概だな。
「兄さん、終わりましたか」
「あ、丈! うん、もう全ての検査は終わったよ」
「ではこれで退院していいですよ」
「そうなのか……」
「もしかして、名残惜しいのですか」
丈がニヤリと意地の悪い笑みを浮かべていた。
「名残惜しくなんか……」
ないとは……言い切れなかった。
流と二人きりの甘い夜を過ごし、流に甘えてばかりの検査入院だった。
こんな気持ちは、一歩でも月影寺に足を踏み入れれば、絶対に抱けない気持ちだ。
「そんな顔をするなんて。もうすぐ兄さんたちの離れが完成するじゃないですか」
「そうだね。桜の咲く頃には」
「それは、もう間もなくですよ」
丈が指さす方向を見ると、病院の中庭に植えられた桜の樹に小さな蕾が見えた。
「春が来るんだね。また……」
「えぇ、冬は終わります。必ず……」
「うん、洋くんの長い冬もついに終わったようだね」
「あ……はい。最近の洋はよく笑い、明るくなりました。あれが本来の彼なのかも」
「うん……息をしているね。ちゃんと」
「月影寺のお陰です。兄さんが守ってくれる月影寺のお陰なんです。偉大な力です」
白衣姿の丈が、スッと頭を下げる。
こんなことが出来る弟ではなかったので……面食らう。
「丈……お前……変わったね」
「兄さん……人は変われるものですね。愛しい人のために」
「そうだね。そう思うよ」
澄ました顔で個室に戻ると、流が僕の荷物を整えていた。
そうか……もう帰り支度をしているんだな。
帰ることが現実となり、少し寂しくなってしまった。
「翠! 戻ったのか。どうだった? 胃カメラ怖くなかったか」
「うん、大丈夫だった。流の言う通り『無の境地』で臨んだからね」
「そうか、偉かったな、翠」
流がすっぽりと僕を包み込んでくれる。
「流……」
「どうした?」
「もっと……言ってくれないか」
もう帰らないと……そう思うと、いつになく欲が出てしまった。
こんな欲張りはいけないと分かっていても、止まらないんだ。
「翠、なんだか今日はえらく可愛いな。あぁ、翠は頑張った。いつも頑張っている。頑張れ! 大丈夫だ。俺がついている」
作務衣に隠れているが……筋骨隆々とした広い胸に押しつけられるように抱かれたので、僕はそっと目を閉じた。
流が好きだ。
共に甘い時間を過ごせば、一時も離れたくないほど……大好きで溜らない気持ちで一杯になるんだ。
「流……もう一度だけ言ってくれないか」
「フッ、あぁ何度でも言うよ。翠はいつも頑張っている。俺はいつだって翠を見ている。応援している……そして、深く……強く……愛しているよ」
最後はキス、キス、キスの嵐。
流の力強いキスにもっていかれる。
さぁ、もう戻ろう。
僕らの月影寺へ――
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