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14章
追憶の由比ヶ浜 43
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「張矢先生、お兄様の検査結果が出ています」
「そうか、ありがとう」
看護師が持ってきてくれたカルテとPCを交互に確認して、安堵の溜め息を漏らした。
血液検査、心電図、レントゲン……どれも何の異常もなかった。特に気になっていた眼底検査の結果も、眼球に器質疾患もなく良好だった。
おそらく、 またしても心因性視力障害なのだろう。
以前は原因が分からず解けない謎だったが、今回は分かっている。兄さん自身がそれを吐き出した。
今ネックになっているのは大学時代から執拗につけられた煙草の火傷痕だ。克哉に拉致された時、そこを陰湿に弄られてしまったのだろう。
あの傷が、兄さんの精神を少しずつ蝕んでいる。
無理矢理つけられた傷は、病を治すためにつけた生きるための手術痕とは違って、苦しみを伴う。
兄さんの負担を取り払い、少しでも綺麗な状態にしてやりたい。
私は外科医なので傷を縫うのに慣れていても、既にある傷を綺麗にするには専門的な技術が必要だ。だから明日は後輩を助っ人で呼んでいる。
「先生、もしかして弟さん、宿泊されるのですか」
「宿泊?」
「そうですよ。あの個室には簡易ベッドが付いていて、付き添いの方の宿泊が可能なお部屋ですからね」
成る程……流兄さんが大人しく家に帰るとは思えない。
それに翠兄さんもいつもと様子が違った。袈裟を着ていないせいか、いつもより儚く……弱く、流兄さんに甘えていた。
そんな二人を引き離すのは酷なことだな。
「あぁ、すまないね。兄は強度の病院恐怖症だ。だから『患者の精神的安定のため』と理由欄に記入しておいてくれ」
「ふふふ♡ 宿泊決定っと~あんなにカッコいいご兄弟を、明日、朝一番に拝めるなんて最高ですね!」
拝める? 兄さんたちは初日の出ではないが……。
一体何を言っているのだと首を傾げてしまった。
「まぁ、そういうことだから、あとはよろしく頼む。そろそろ私は帰るよ」
「お疲れ様でした」
病院を出る前に売店に寄り、それから兄さんの病室に立ち寄った。
「私です。入りますよ」
「おぅ! 丈か」
個室に入ると、翠兄さんは夕食を食べていたが、 気まずそうに顔を逸らした。それって……流兄さんがスプーンを握っているせいですか。
「なぁ、丈……」
「なんですか」
「俺も宿泊出来ないだろうか。とても翠をひとり置いていけないよ」
「流っ、何を言って……僕なら大丈夫だから、もう丈とお帰り」
「だが兄さん……ひとりは怖いだろう? 苦手な病院で夜は真っ暗だぜ」
「だ、大丈夫だ!」
そう言いながらも、布団の端を掴む兄さんに指先は白くなっていた。
やれやれ……怖いのですね。
「流兄さん、ちょっといいですか」
「ん?」
手短に検査結果が良好な件と、個室に泊まってもよいことを伝えると、全身で喜びを表現していた。
「ヨッシャー!!」
雄叫びを上げる兄さんの口を、慌てて塞ぐ羽目になった。
「静かにして下さい。ここは病院ですよ」
「あぁ、すまん。じょうちゃん、ありがとうな」
「……礼を言われることじゃ」
「いや、この恩は必ず返す!」
「ふっ……では、また洋と遊んでやって下さい。一緒にシーグラスで写真立てを作ったのが楽しかったらしいです」
「あぁ、いいぜ。洋くんは手先は不器用だが感覚のセンスあるぜ。デザインの方がいいのかもな。俺の愛弟子にするか」
愛弟子? 怪しいことを教え込まれそうで遠慮したい。
ぷるぷると首を横に振った。
「流、よさないか。丈が怖がっている」
「分かったよ」
「とにかく……これ、流兄さんの夕食にどうぞ」
「気が利くな。腹が減っては……出来ないもんな」
「な、何をですか!」
焦ってしまうじゃないか。
「じょうちゃんはえっちだなぁ。ここは病院だ。何もしないよ。さっさと眠るよ」
「そ、そうですね。では……ごゆっくりとお過ごし下さい」
まるで温泉宿の仲居のような台詞で、個室の扉を静かに閉めた。
きっと扉の向こうでは、もう抱擁しあっているだろう。
普段忙しい二人にとっては、束の間の自由時間ですね。
さぁ、私も帰ろう! 愛しい洋の元に。
車のキーを片手に屋外駐車場に出ると、近くの車のライトが瞬いた。
ん……この車は? 洋のだ!
「丈……先生」
洋は、もうワンピース姿ではなかった。
なんとも言えないほど品のよい、白シャツとグレーのパンツの洋が立っていた。
相変わらずハッとするほど美しい男だ。
春の宵――
春風に黒髪を棚引かせ、艶めいた顔を綻ばせて、私を呼んでくれた。
「お疲れ様、丈!」
「そうか、ありがとう」
看護師が持ってきてくれたカルテとPCを交互に確認して、安堵の溜め息を漏らした。
血液検査、心電図、レントゲン……どれも何の異常もなかった。特に気になっていた眼底検査の結果も、眼球に器質疾患もなく良好だった。
おそらく、 またしても心因性視力障害なのだろう。
以前は原因が分からず解けない謎だったが、今回は分かっている。兄さん自身がそれを吐き出した。
今ネックになっているのは大学時代から執拗につけられた煙草の火傷痕だ。克哉に拉致された時、そこを陰湿に弄られてしまったのだろう。
あの傷が、兄さんの精神を少しずつ蝕んでいる。
無理矢理つけられた傷は、病を治すためにつけた生きるための手術痕とは違って、苦しみを伴う。
兄さんの負担を取り払い、少しでも綺麗な状態にしてやりたい。
私は外科医なので傷を縫うのに慣れていても、既にある傷を綺麗にするには専門的な技術が必要だ。だから明日は後輩を助っ人で呼んでいる。
「先生、もしかして弟さん、宿泊されるのですか」
「宿泊?」
「そうですよ。あの個室には簡易ベッドが付いていて、付き添いの方の宿泊が可能なお部屋ですからね」
成る程……流兄さんが大人しく家に帰るとは思えない。
それに翠兄さんもいつもと様子が違った。袈裟を着ていないせいか、いつもより儚く……弱く、流兄さんに甘えていた。
そんな二人を引き離すのは酷なことだな。
「あぁ、すまないね。兄は強度の病院恐怖症だ。だから『患者の精神的安定のため』と理由欄に記入しておいてくれ」
「ふふふ♡ 宿泊決定っと~あんなにカッコいいご兄弟を、明日、朝一番に拝めるなんて最高ですね!」
拝める? 兄さんたちは初日の出ではないが……。
一体何を言っているのだと首を傾げてしまった。
「まぁ、そういうことだから、あとはよろしく頼む。そろそろ私は帰るよ」
「お疲れ様でした」
病院を出る前に売店に寄り、それから兄さんの病室に立ち寄った。
「私です。入りますよ」
「おぅ! 丈か」
個室に入ると、翠兄さんは夕食を食べていたが、 気まずそうに顔を逸らした。それって……流兄さんがスプーンを握っているせいですか。
「なぁ、丈……」
「なんですか」
「俺も宿泊出来ないだろうか。とても翠をひとり置いていけないよ」
「流っ、何を言って……僕なら大丈夫だから、もう丈とお帰り」
「だが兄さん……ひとりは怖いだろう? 苦手な病院で夜は真っ暗だぜ」
「だ、大丈夫だ!」
そう言いながらも、布団の端を掴む兄さんに指先は白くなっていた。
やれやれ……怖いのですね。
「流兄さん、ちょっといいですか」
「ん?」
手短に検査結果が良好な件と、個室に泊まってもよいことを伝えると、全身で喜びを表現していた。
「ヨッシャー!!」
雄叫びを上げる兄さんの口を、慌てて塞ぐ羽目になった。
「静かにして下さい。ここは病院ですよ」
「あぁ、すまん。じょうちゃん、ありがとうな」
「……礼を言われることじゃ」
「いや、この恩は必ず返す!」
「ふっ……では、また洋と遊んでやって下さい。一緒にシーグラスで写真立てを作ったのが楽しかったらしいです」
「あぁ、いいぜ。洋くんは手先は不器用だが感覚のセンスあるぜ。デザインの方がいいのかもな。俺の愛弟子にするか」
愛弟子? 怪しいことを教え込まれそうで遠慮したい。
ぷるぷると首を横に振った。
「流、よさないか。丈が怖がっている」
「分かったよ」
「とにかく……これ、流兄さんの夕食にどうぞ」
「気が利くな。腹が減っては……出来ないもんな」
「な、何をですか!」
焦ってしまうじゃないか。
「じょうちゃんはえっちだなぁ。ここは病院だ。何もしないよ。さっさと眠るよ」
「そ、そうですね。では……ごゆっくりとお過ごし下さい」
まるで温泉宿の仲居のような台詞で、個室の扉を静かに閉めた。
きっと扉の向こうでは、もう抱擁しあっているだろう。
普段忙しい二人にとっては、束の間の自由時間ですね。
さぁ、私も帰ろう! 愛しい洋の元に。
車のキーを片手に屋外駐車場に出ると、近くの車のライトが瞬いた。
ん……この車は? 洋のだ!
「丈……先生」
洋は、もうワンピース姿ではなかった。
なんとも言えないほど品のよい、白シャツとグレーのパンツの洋が立っていた。
相変わらずハッとするほど美しい男だ。
春の宵――
春風に黒髪を棚引かせ、艶めいた顔を綻ばせて、私を呼んでくれた。
「お疲れ様、丈!」
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