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14章
追憶の由比ヶ浜 39
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大船病院……採血ルーム。
「張矢翠さんですね」
「はい、そうです」
「では採血を致します。今まで注射で気分が悪くなったりしたことは、ございませんか」
「……はい」
「では腕を出して下さい」
注射は幼い頃から大っ嫌いだった。だが嫌な素振りは一度も見せたことがない。むしろ見本になろうと、率先して受けていた。何故なら……流の方が大変だったからだよ。
お前は注射が大っ嫌いで、病院から脱走して母さんにカンカンに怒られていたよな。僕がいつも宥めて受けさせていた。その後ろで丈は、冷ややかな目をして、最後にそつなく受けていた。
「あのぉ……視線が痛いのですが」
「へっ?」
「後ろの方って、患者さまのお付き添いの方ですか」
はっ!
振り返ると、いつの間にか採血室の中に、作務衣姿の流が立っていた。
廊下で待っていろと言ったのに、険しい目つきで僕を見つめている。
「す、すみません……弟ですが、どうにも心配症で……」
「えぇ? なんだ、弟さんですか。全然似ていないので、どういうご関係か悩んでしまいました♡」
ん? 何故か頬を赤らめながら言われて、こちらが恥ずかしいよ。
「では刺します。手をギュッと握っていて下さい」
ブスッ――
痛いっ。
怖くて針から目を反らすと、流が壁にもたれて僕をじっと見つめている。
(翠、大丈夫だ……頑張れ!)
そんな声が聞こえてくる。
お前の穏やかな眼差しが心地良い。
「手を開いて下さい」
「は、はい」
ちらっと見ると、採血管が血の色になっていて、ひやりとした。
だが……この血は流と同じルーツを持っている。そう思うと愛おしく感じた。
「はい、お疲れ様でした。抜きますね。 ここを指で押さえて止血して下さい」
「分かりました」
「じゃあ、次はレントゲンですので地下1階へ移動して下さい」
部屋を出ると、流が心配そうに話しかけて来た。
「翠、怖くなかったか」
「もう、僕は子供じゃないんだから」
「だが……」
「ふっ、怖くなかったよ。お前の視線が気になって、それどころじゃ」
「ふふん、そうかそうか。次はレントゲンかぁ……流石に入れないな。技師の前で上半身は裸だろう~くそっ」
「ちょ、声が大きいよ。大人しく出来ないのなら帰ってもらうよ」
「兄さん、酷いな」
レントゲンの次は聴力検査、そしていよいよ、問題の視力検査だ。
「んー、視力がずいぶん落ちていますね。視界がぼやけることがあるのでは……眼圧検査と眼底検査もしましょう」
「はい」
眼圧や眼底には異常は見つからなかったので、やはりまた『心因性視力障害』なのだろうか。
僕は心が弱い……あの暗黒の日々を、再び繰り返そうとしていたのか。
洋くんに由比ヶ浜で弱音を吐き出すまで、克哉から受けた辱めを忘れたいと思うのに、わざわざ掘り返しては、自分の心を痛めつけていた。流に抱かれる度に、胸の火傷痕が疼いていた。疼くと心臓がズキズキと痛んだ。
「張矢さん、眼科の予約をしましたので、明日もう少し詳しい検査を」
「……分かりました」
「次は心電図です。1時半になったら今度は2階のここに行って下さい」
「……はい」
ふらりと廊下に出ると、よろけてしまった。
「大丈夫か」
「ん……少し疲れた」
「部屋で休憩しよう」
「うん」
****
「翠、少し横になれ。何のために入院して検査しているんだ?」
「こんな明るいうちから横になるなんて……一気に年を取ったみたいだ」
「馬鹿、翠は若々しくて艶めいている。ほらっ」
個室の扉はしっかり閉めた。ベッドを囲むカーテンにも隙間はない。
だからいいよな。
苦手な検査を頑張っている翠に、熱い褒美を与えても。
「りゅ、流……困る……よ」
ベッドに翠を横たわらせ、俺も一緒に中に潜り込んだ。
「頑張った褒美だ」
「え……」
目を丸くして俺を見上げる翠の、少し開いた唇に吸い付いた。
「ん……っ、ん……」
「余計なこと考えんな。視力ならこれ以上悪くならない。翠はもう吐き出して、自分から治療を受けようとしているのだから。翠は……もう大丈夫だ」
「ん……っ、流がそう言ってくれると、そう思えるよ」
「素直で可愛いな、兄さん」
「や……っ」
俺を見上げて微笑んでくれた顔があまりに可愛くて、その細い首元にも口づけしてしまった。
翠は、喉元が過敏なんだ。
俺が舌でつつけば、細かく震え、赤く染まる。
「注射も頑張ったな」
「やっぱり……注射は……嫌いだ」
「ふっ、そうだよな」
翠が幼い頃から飲み込んできた言葉は、俺にだけは吐き出せるようになっていた。
「翠、いい傾向だ。俺にはもっともっと甘えてくれよ」
それが嬉しい。
****
翠兄さんの検査は順調だろうか。
少し空き時間があったので、もう一度兄さんの個室を訪れた。
すると入り口の扉も、中のカーテンもびっしりとしまっていた。
うーむ、これって何を意味する?
「張矢先生!」
「あぁ君か」
兄さんの担当看護師に背後から声をかけられた。
「お兄様の検温に参りましたぁ♡」
どう対処すべきか迷うな。
「……昼の検温はいい。ここは私が様子をみるので、下がっていいから」
「えぇ~残念。そういえば、先生! 先生の妹さんって、超美人ですよね~」
「へっ?」
妹なんていないが、と答えそうになって……飲み込んだ。
洋のことだ。
女装した洋が翠兄さんの病室を訪れたので、そう思ったのだろう。
「翠さんと似ているから、名乗らなくても分かりましたよ。はあん~美男美女兄妹、最高です」
「君、私語を慎みなさい」
「あ、すみません~、でも私たちの推しはですね! 端麗な長男さんや野性味のある次男さんでなく、いかなる時も冷静沈着なゴッドハンドの持ち主、我が大船病院が誇るゴッドハンド! 丈先生ですので、ご安心を~♡」
タタタっと去って行く看護師に、呆気にとられた。
何を言われたか記憶にないが、確か……私の手を『ゴッドハンド』と言ったようだ。
ふっ、やはりな。この手は洋を生かす……艶めかす手だ……だから。
自分の両手を見つめ、にやりと微笑んでしまった。
「おっと、いやらしいな~ じょうちゃんは。自分の手をうっとり見つめて思い出し笑いなんてしちゃってさぁ」
冷やかす声は、流兄さん。
その後ろに頬を染めた翠兄さんがいた。
「に、兄さん! 病院ではよして下さいよ」
「張矢翠さんですね」
「はい、そうです」
「では採血を致します。今まで注射で気分が悪くなったりしたことは、ございませんか」
「……はい」
「では腕を出して下さい」
注射は幼い頃から大っ嫌いだった。だが嫌な素振りは一度も見せたことがない。むしろ見本になろうと、率先して受けていた。何故なら……流の方が大変だったからだよ。
お前は注射が大っ嫌いで、病院から脱走して母さんにカンカンに怒られていたよな。僕がいつも宥めて受けさせていた。その後ろで丈は、冷ややかな目をして、最後にそつなく受けていた。
「あのぉ……視線が痛いのですが」
「へっ?」
「後ろの方って、患者さまのお付き添いの方ですか」
はっ!
振り返ると、いつの間にか採血室の中に、作務衣姿の流が立っていた。
廊下で待っていろと言ったのに、険しい目つきで僕を見つめている。
「す、すみません……弟ですが、どうにも心配症で……」
「えぇ? なんだ、弟さんですか。全然似ていないので、どういうご関係か悩んでしまいました♡」
ん? 何故か頬を赤らめながら言われて、こちらが恥ずかしいよ。
「では刺します。手をギュッと握っていて下さい」
ブスッ――
痛いっ。
怖くて針から目を反らすと、流が壁にもたれて僕をじっと見つめている。
(翠、大丈夫だ……頑張れ!)
そんな声が聞こえてくる。
お前の穏やかな眼差しが心地良い。
「手を開いて下さい」
「は、はい」
ちらっと見ると、採血管が血の色になっていて、ひやりとした。
だが……この血は流と同じルーツを持っている。そう思うと愛おしく感じた。
「はい、お疲れ様でした。抜きますね。 ここを指で押さえて止血して下さい」
「分かりました」
「じゃあ、次はレントゲンですので地下1階へ移動して下さい」
部屋を出ると、流が心配そうに話しかけて来た。
「翠、怖くなかったか」
「もう、僕は子供じゃないんだから」
「だが……」
「ふっ、怖くなかったよ。お前の視線が気になって、それどころじゃ」
「ふふん、そうかそうか。次はレントゲンかぁ……流石に入れないな。技師の前で上半身は裸だろう~くそっ」
「ちょ、声が大きいよ。大人しく出来ないのなら帰ってもらうよ」
「兄さん、酷いな」
レントゲンの次は聴力検査、そしていよいよ、問題の視力検査だ。
「んー、視力がずいぶん落ちていますね。視界がぼやけることがあるのでは……眼圧検査と眼底検査もしましょう」
「はい」
眼圧や眼底には異常は見つからなかったので、やはりまた『心因性視力障害』なのだろうか。
僕は心が弱い……あの暗黒の日々を、再び繰り返そうとしていたのか。
洋くんに由比ヶ浜で弱音を吐き出すまで、克哉から受けた辱めを忘れたいと思うのに、わざわざ掘り返しては、自分の心を痛めつけていた。流に抱かれる度に、胸の火傷痕が疼いていた。疼くと心臓がズキズキと痛んだ。
「張矢さん、眼科の予約をしましたので、明日もう少し詳しい検査を」
「……分かりました」
「次は心電図です。1時半になったら今度は2階のここに行って下さい」
「……はい」
ふらりと廊下に出ると、よろけてしまった。
「大丈夫か」
「ん……少し疲れた」
「部屋で休憩しよう」
「うん」
****
「翠、少し横になれ。何のために入院して検査しているんだ?」
「こんな明るいうちから横になるなんて……一気に年を取ったみたいだ」
「馬鹿、翠は若々しくて艶めいている。ほらっ」
個室の扉はしっかり閉めた。ベッドを囲むカーテンにも隙間はない。
だからいいよな。
苦手な検査を頑張っている翠に、熱い褒美を与えても。
「りゅ、流……困る……よ」
ベッドに翠を横たわらせ、俺も一緒に中に潜り込んだ。
「頑張った褒美だ」
「え……」
目を丸くして俺を見上げる翠の、少し開いた唇に吸い付いた。
「ん……っ、ん……」
「余計なこと考えんな。視力ならこれ以上悪くならない。翠はもう吐き出して、自分から治療を受けようとしているのだから。翠は……もう大丈夫だ」
「ん……っ、流がそう言ってくれると、そう思えるよ」
「素直で可愛いな、兄さん」
「や……っ」
俺を見上げて微笑んでくれた顔があまりに可愛くて、その細い首元にも口づけしてしまった。
翠は、喉元が過敏なんだ。
俺が舌でつつけば、細かく震え、赤く染まる。
「注射も頑張ったな」
「やっぱり……注射は……嫌いだ」
「ふっ、そうだよな」
翠が幼い頃から飲み込んできた言葉は、俺にだけは吐き出せるようになっていた。
「翠、いい傾向だ。俺にはもっともっと甘えてくれよ」
それが嬉しい。
****
翠兄さんの検査は順調だろうか。
少し空き時間があったので、もう一度兄さんの個室を訪れた。
すると入り口の扉も、中のカーテンもびっしりとしまっていた。
うーむ、これって何を意味する?
「張矢先生!」
「あぁ君か」
兄さんの担当看護師に背後から声をかけられた。
「お兄様の検温に参りましたぁ♡」
どう対処すべきか迷うな。
「……昼の検温はいい。ここは私が様子をみるので、下がっていいから」
「えぇ~残念。そういえば、先生! 先生の妹さんって、超美人ですよね~」
「へっ?」
妹なんていないが、と答えそうになって……飲み込んだ。
洋のことだ。
女装した洋が翠兄さんの病室を訪れたので、そう思ったのだろう。
「翠さんと似ているから、名乗らなくても分かりましたよ。はあん~美男美女兄妹、最高です」
「君、私語を慎みなさい」
「あ、すみません~、でも私たちの推しはですね! 端麗な長男さんや野性味のある次男さんでなく、いかなる時も冷静沈着なゴッドハンドの持ち主、我が大船病院が誇るゴッドハンド! 丈先生ですので、ご安心を~♡」
タタタっと去って行く看護師に、呆気にとられた。
何を言われたか記憶にないが、確か……私の手を『ゴッドハンド』と言ったようだ。
ふっ、やはりな。この手は洋を生かす……艶めかす手だ……だから。
自分の両手を見つめ、にやりと微笑んでしまった。
「おっと、いやらしいな~ じょうちゃんは。自分の手をうっとり見つめて思い出し笑いなんてしちゃってさぁ」
冷やかす声は、流兄さん。
その後ろに頬を染めた翠兄さんがいた。
「に、兄さん! 病院ではよして下さいよ」
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