重なる月

志生帆 海

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14章

追憶の由比ヶ浜 38

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 俺は古時計の脇に膝をついて、124 cmのラインを指でそっとなぞった。

「ゆうの文字は、ゆう自身が書いたものよ」
「じゃあ……これは本当に母さんの字なんですね。幼い母さんの……」

 大好きだった母さん。

 父さん亡き後、病弱な身体で俺を育て、ひたすらに愛し、俺を心配するあまりにあんな行動に出てしまった人……でも、大好きだ。
 
 母さんが何をしたとしても……全部俺を想ってのことだった。だから恨めなかった。

「くっ……」
「洋、泣いているの? あなたも私も夕に会いたいわね」
「会いたいです。母は桜の季節に逝ってしまいました。病気をギリギリまで隠していたので……あまりにあっけなく……」
「そうなのね……夕は幼い頃から我慢強い子だったの。それが災いを招いてしまったのかもしれないのね」
「他には……母を辿れるものは、ここにはありませんか」

 俺とおばあさまは肩を寄せ合い、部屋を見回した。

「そうね……あ、あれよ。あのピンクの薔薇の刺繍」
「ベッドの上のですか」
「そうよ! あれは私と夕と朝の合作よ。海里先生たちの結婚記念日に贈ったのよ。こんな場所に飾ってくれていたなんて……確かご結婚15周年だったかしら」


白い額縁の中には、ピンク色の薔薇が3輪、仲良く咲いていた。

 この刺繍を作った頃……

 母と双子の娘は、薔薇色の世界に住んでいたのだろう。

 俺の記憶に残る母は、美しい顔だったが質素な服ばかりで、薔薇色の世界とはほど遠かった。義父と再婚した後は美しい服を着ても、沈んでいた。

 あ……でも、あの夏の軽井沢だけは違った。

「おばあさま。もしかして……軽井沢に母は行ったことがあったのですか」
「えぇ……由比ヶ浜は海の山荘で、軽井沢には森の山荘があったのよ」
「そうだったのですか、じゃあもしかして……乗馬倶楽部にも縁が」

 あの日……白いパラソル、白いワンピース姿で微笑んでいた母は、少女のように可憐だった。

「夕はポニーに乗ったわ。その時の写真なら白金の方にあるから、今度見せてあげるわ」
「是非!」

 やはりそうなのか。あの時の母の懐かしそうな瞳は、小さい頃、おばあさまと来たことがあったからなのだ。

「そろそろ迎えが来るわ」
「あの、最後に診察室を見ても」
「えぇ、もちろんよ。海里先生はある日突然倒れたので、まだ診察途中だった患者さんもいたのにと悔やんでおられたわ」
「そうだったのですね。じゃあ……もしかしたらカルテがあるかもしれません」
「誰の……?」

 翠さんは海里先生に火傷痕のことで診察を受けていた。だから何か残っているのでは?
 
「兄のです」
「さっき会った翠さん? それとも流さん?」
「二人に縁があったんですよ。不思議な縁が……」
「そうなのね。いつか洋に会うために、道は随分前から開かれていたのね」
「はい。おばあさま。俺は……あなたの孫です。だから母の分も孝行させて下さい」
「ようちゃん、ぐすっ、年寄りを泣かせにきたわね」

 おばあさまの瞳にも俺の瞳にも、キラリと光るものがあった。

 ふたりで海里先生の机周りを整理した。

 本当にある日突然だったのだ。先生は診療所を整理する間もなく、逝ってしまったようだ。

「洋、残念ながら……カルテはないわ。流石に整理していたのね」
「そうですね。あの、この机の引き出しを開けても?」
「もちろんよ」
 
 不思議な予感だった。
 そこに翠さん宛ての手紙があるような気がしたのは……

「あった!」
「まぁ……海里先生から翠さんに宛てた手紙だわ」
「これを翠さんに見せても?」
「えぇ、何か治療方法が見つかるといいわね」
「はい! おばあさま……改めて俺にこの家を譲って下さってありがとうございます」
「……夕のためにと処分せずにいて良かった。もう亡くなってしまったけれども、あなたのおじいさまの希望でもあったのよ。最後の最後まで……夕を想っていたわ」

 おじいさまも、俺の母さんを想ってくれたのか。

 感謝の気持ちは、もう届かないのか。
 
 いや……きっと届く!

 

 天国の母さん……俺……生きていて良かったです。
 
 あの地獄のような日々を生き延びた先には……こんなにも明るい未来が待っていた。
 
 あなたが俺に残してくれたものが、今、どんどん繋がっていきます。

 誰かが誰かのために優しい想いを重ねていく世界が待っていました。

「洋、海に行きましょう! 私もシーグラスというものを探してみたいわ」
「はい!」
「あ、待って。ワンピース姿を見せてくれてありがとう。もう着替えていいわよ」
「えっ、でも……俺、着替えの服を持って来ていませんよ」
「くすっ、私が持っているわ。デパートに行ったら買わずにいられなかったのよ」

 ずっと紙袋を持っていると思ったら、俺の服だったのか。

「洋……あなたみたいにカッコイイ孫がいる生活って、とっても楽しいわ」
 
 さっきまで俺と追憶の涙を流していた祖母は、明るい笑顔でウィンクしていた。
  
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